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中国大陸を統一した11人の英雄について語る

 やはり定期的に書きたくなる世界史マニアシリーズである。世界の歴史の中でも特に重要視されるのが中国史である。単一の国家の歴史の中では最も重要視されていると考えてよいだろう。近代以前の世界史は中国・インド・イスラム世界・ヨーロッパの4大地域を軸に語られるが、インドは歴史記述が少なく、イスラム世界とヨーロッパは色々とカオスなので、中国史はやはり安定感がある。

 そんな中国だが、定期的に内戦と再統一を繰り返してきた。ヨーロッパが空間的に似たような国家が連なっているとすれば、中国は時間的に似たような国家が連なっていると言えるだろう。それぞれの王朝が成立する時には必ず群雄割拠の時代があり、合従連衡があり、最後は単一の勢力が中国を統一するという結果になった。勝者は新たな「天子」となり、王朝の創業者となる。この構造は2000年以上変わっていない。現在の「天子」は中国共産党総書記を名乗っているが、世襲されていないことを除けば近代以前と驚くほど変わらない。(しばしば誤解されるが、中国は国家の上位に共産党が鎮座しているので、偉いのは国家主席ではなく総書記である。江沢民以降の指導者は偶然国家主席を兼任しているだけだ。それ以前の楊尚昆や李先念といった国家主席は最高指導者には数えられない)

 さて、中国大陸の統一に成功した人物は有史以来11人存在する。数え方によっても異なってくるが、満場一致で認められるのは彼らだろう。この11人は中国史においては誰でも知っているビッグネームのはずである。

始皇帝
劉邦
劉秀
司馬炎
楊堅
李淵
趙匡義
フビライ
朱元璋
康煕帝
毛沢東

 惜しいところまで行った人物もいる。西楚覇王項羽は一応は秦を打倒し、新たな勢力を構築したが、安定した王朝を築く事はできず、四川省に左遷したはずの劉邦に敗れている。項羽とよく似ているのが蒋介石で、やはり一応は中国全土に名を轟かせたものの、群雄を実効支配することができずに権力を失っている。また、新王朝を立てた王莽や周王朝を名乗った則天武后は権謀術数で帝位を簒奪したのであって、軍事的に中国を統一したわけではない。

 というわけで、個別の人物について考えてみよう。

始皇帝(秦)

 始皇帝は中国4000年の歴史の中でも最重要人物でありながら、意外にその統一戦争はクローズアップされなかった。しかし、最近はキングダムという作品が出てきているので、関心も高まっているようである。当時の中国は封建制から国家が分立しているような状態で、近世のヨーロッパのような感じだった。始皇帝はそうした国家の中でも最強の秦国の王子として生まれた。ヨーロッパで例えるならルイ14世辺りだろうか。そう考えるとあまりドラマチックな感じはしない。

 始皇帝こと嬴政が即位できたのは、後見人の呂不韋のおかげである。呂不韋は始皇帝の父の子楚に目をつけ、即位させようと裏工作を繰り返していたのだが、子楚がすぐに死んでしまったので、13歳の政を王位に付けた。この後もロウアイの乱とか呂不韋との争いとか色々合ったのだが、長くなるのでここらへんはキングダムを読んでほしい。個人的にロウアイ関連のシーンはなぜかエモい。

 始皇帝が即位した時点で既に秦国の優位は明らかであり、楚を除いて抵抗できる国はなかった。始皇帝は残りの国を次々と併合、ただ項燕将軍の率いる楚の攻略には少し手こずった。だが秦国には叶わず、必ず楚人が秦国を滅ぼすだろうというフラグを残して滅亡。紀元前221年に斉を併合し、「王」よりも上の「皇帝」を名乗り、始皇帝となった。史上初の中国統一である。

 その後の秦国だが、春秋時代から数百年の歴史を誇っていたにも関わらず、統一からわずか15年で滅亡してしまう。統一王朝の中では最も短命で、王朝の存続のためには統一しないほうが良かったのではないかとも思える。

劉邦(前漢)

 始皇帝と時代的にはほぼ被っているのが劉邦である。戦国時代の劉邦が何をやっていたのかは一切不明なのだが、一応は楚の国境地帯に住んでいた人物らしい。地元の有力者をやりながら、名家の「呂氏」から呂雉という嫁をもらって仲良く暮らしていたようだ。この呂氏、呂不韋との関連性も噂されているが、真相は不明である。

 始皇帝の死とともに帝国は一気に瓦解し始める。二世皇帝は大変アホな人物で、宦官の超高の言いなりであった。統一に貢献した蒙恬や李斯といった人物も趙高によって粛清されていった。というか、最後は二世皇帝すら超高によって殺害されている。こんな状況なので、陳勝・呉広の乱という農民反乱が起こってしまった。この時、呉広は先述の項燕を僭称している。陳勝・呉広の乱は短期間で鎮圧されるが、今度は項燕将軍の子供の項梁が楚で大反乱を起こす。項梁は戦死するが、甥の項羽が後を次いで秦を滅ぼしにかかる。

 一方の劉邦だが、ときを同じくして蜂起する。蜂起の課程で張良・蕭何・韓信といった配下を集め、どんどん膨れ上がっていく。張良はもともと韓の宰相の子供で、祖国を滅ぼされた恨みから始皇帝の暗殺未遂事件を起こし、逃亡中というキャラの濃い人物だった。

 このあたりの事情について語るときりがないのだが、最終的に項羽と劉邦は秦を滅ぼした後、全面対決し、劉邦が勝利を収める。この時の故事が四面楚歌である。韓信は第三勢力として分立しようとするが、うまく行かず、呂雉によって粛清される。同じく独自勢力だった彭越もやはり警戒され、呂雉によって粛清される。残る英布は次は自分の番だという正しい直感により、反乱を起こすも劉邦に討伐される。この時の戦いで劉邦も戦死し、呂雉の天下となる。中国三大悪女と呼ばれ、史記にも本記が建てられている、呂后の誕生である。一介の主婦から女帝になった、稀に見る奇妙な人物だ。

 呂后の死後、呂氏は討伐されてしまうのだが、その後に即位した文帝はなんと母が魏の王族の子孫であった。なんとも皮肉なことに戦国の七雄で天下を取ることに成功したのは魏の子孫だったのだ。

劉秀(後漢)

 前漢と後漢はお題目の上では1つの王朝とされることもあるが、実際は別の王朝と言うべきである。隋と唐と同じくらいの断絶はある。じゃあなぜ同じ漢王朝を名乗っているかと言うと、それは後漢の創業者がたまたま劉邦の子孫だったからだ。中国の歴代王朝はレジティマシーにおいて異様に血縁を重視していて、皇帝の血筋であることは立派なお題目になるのである。

 劉秀は一応は皇族と言ってもかなり血縁は遠く、普通の豪族といっても問題ないレベルであった。当時の前漢は既に王莽によって侵食されていて、皇帝の廃立も自由自在という有り様だった。王莽はついに皇帝を追放して自分が新皇帝となり、「新王朝」を名乗り始めた。新王朝とは言うが、その実かなりの復古主義であり、孔子の時代の文化を復活させようというめちゃくちゃな政治を行っていた。日本人から見たらどちらも古代なのだが、当時から見ると孔子は500年前の人である。前漢の時代、中国人の名前は董仲舒など二文字が増えていたのだが、後漢から中国人の下の名前が一文字に戻ったのもこの王莽の政策の影響だとか。

 というわけで、新王朝は早速反乱に直面する。この反乱は赤眉の乱なんて呼ばれたりしている。呂母という人が息子を殺された恨みを晴らすために兵士を集めて政府軍を襲撃し、呂母は安心して亡くなったが、兵士はどんどん膨れ上がり、大勢力になったとかなんとか。反乱勢力の頭として担がれたのが皇族の一人である更始帝なのだが、こいつが完全な無能であり、いつしか劉秀によって取って代わられてしまった。

 劉秀は即位すると光武帝を名乗り、新たな王朝を創始する。この光武帝、中国の歴史の中でも一番の名君と言われているらしい。問題はこの光武帝に続く人間が現れなかったことだ。後漢の皇帝で何らかの定評がある人物は光武帝以外は一人も存在していない。他の皇帝は全てマイナーである。というか、あまりにも寿命が短すぎる。後漢の皇帝はほとんどが二十歳で死んでいて、国政は宦官と外戚が勝手に動かしている状態だった。このあたりの事情は三国志の何進とか十常侍あたりのエピソードに描かれている。

司馬炎(西晋)

 中国統一の英雄の中では最もマイナーであり、歴史的意義もほとんど無いのが司馬炎である。それにもかかわらず、司馬炎の知名度は高い。全ては三国志のおかげである。三国時代は歴史的に無価値という主張もあり、筆者もかなり賛同するのだが、やたらと人気である。個人的には始皇帝の統一から楚漢戦争辺りの時代の方が歴史的意義も登場人物のキャラも良いと思うのだが、それでも三国志は大人気である。

 三国志最大の英雄である曹操は皆が知っているだろう。ところが曹操の死後、軍師の司馬懿がクーデターを起こし、魏の王朝は乗っ取られてしまう。三国志の真の勝者は司馬懿だったのだ。司馬懿は曹家を表面上は尊重していたが、実権は既に奪われており、その子供の司馬昭の代になると堂々と簒奪が行われている。司馬昭の子供の司馬炎の代には既に西晋の優位は揺るぎないものだった。当時の中国の人口は大半が華北に住んでいて、呉と蜀は国力で圧倒されていたのだ。司馬炎は難なく呉を攻略し(既に蜀は滅んでいる)、天下統一する。

 司馬炎は天下統一すると燃え尽きてしまい、大した働きをしていない。司馬懿のように有力な宰相が帝位を簒奪するのを恐れて皇族中心の政治を行ったのだが、これが罠になってしまった。息子の恵帝は無能な人物で、妻の賈南風によって王朝は乱されてしまった。この賈南風は中国三大悪女を上回る中国史上最悪の悪女である可能性が高く、本当にやりたい放題であった。お陰で司馬炎の死後まもなく西晋は八王の乱という大戦争になってしまい、一気に衰退することになる。八王の乱の終結を待たずして北方から遊牧民が侵入し、西晋は滅亡することになった。

楊堅(隋)

 西晋の滅亡後、中国は五胡十六国時代という大混乱の時代を迎える。この時代は西方のゲルマン人の大移動を対応しているような気もする。どうにも世界的な気候変動があったらしい。

 そんな混乱時代も次第に収束してくるのが6世紀である。当時の中国は南北朝時代だったのだが、その北朝も東西に分裂しているという有り様であった。南朝も北朝も殺し合いばかりであり、中国史上最も殺伐とした時代である。

 南北朝最後の王朝である北周と隋・唐の皇帝家は実は縁戚関係にあった。彼らはいずれも北方民族にルーツを持つ有力貴族である。この時代は貴族文化が最も栄えた時代で、上流階級には閨閥が成立していた。

 驚くべきことにみんな親戚同士である!

 楊堅の妻である独孤伽羅は気が強い女性だったらしく、側室を許さなかった。北方民族は気が強い女性が多いのだろうか。楊堅との間には6人の子供が存在した。そのうちの一人は北周の皇帝の側室であり、楊堅は外戚という立場で国政を掌握することができた。北周の混乱に乗じて自ら皇帝に即位すると一気に南進し、南朝を滅ぼしてついに天下統一に成功した。

 楊堅の問題は後継者に恵まれなかったことだ。長男は自害させられ、楊堅も次男の煬帝に帝位を譲り渡すことになった。というか、楊堅は煬帝によって殺害されたとも言われる。独孤伽羅の亡き後はこのドラ息子を諌める者はいなくなってしまったのだ。

李淵(唐)

 さて、楊堅の樹立した隋王朝も煬帝の悪政によって人心を失ってしまう。大運河の工事では100万人が死亡したとも言われる。高句麗遠征も失敗に終わった。こうなると待っているのは反乱だ。楊玄感の反乱をきっかけに隋の全土で反乱が発生。煬帝は運河に乗って逃亡するも、殺害されてしまう。

 中国の王朝交代に際に起こる戦乱はいつもワンパターンである。王朝が腐敗し、次々と反乱が起こり、皇帝が殺害され、あちこちに群雄が並び立つ。そしてその中で最も強かった勢力が他の全てを駆逐して新たな天子になる。

 興味深いのは、天下を統一するのが中国の北西部に依拠した勢力であることが多いことだ。なんと11人中5人が北西部に拠点を置いている。秦国は西安周辺の渭水盆地(陝西省)の勢力である。漢はもう少し南だったが、初期に西安周辺を勢力圏に組み込んでいる。唐王朝も山西省辺りが起源である。唐という王朝名も山西省の別名に由来している。

 唐の統一において李淵は今ひとつ地味である。次男の李世民の活躍が目覚ましかったからだ。正直、李淵ではなく李世民の記事にしても良いくらいである。李世民は中国史上でも屈指の名君として称えられている。李世民は玄武門の変で兄を殺害し、色々と怪しいところはあるのだが、なぜかこの点はスルーされている。あまりにも功績が大きかったのだろう。

趙匡義(宋)

 中国統一王朝の中では最弱とも呼ばれるのが宋である。ただし宋は他の王朝のような陰惨な逸話はなく、妙に平和的であった。経済期にも非常に豊かになった時代である。実のところ、純粋な経済面においては中国の中で最盛期だったかもしれない。宋の経済水準はヨーロッパを上回っていて、産業革命まであと一歩のところとも言われていた。武断政治から文治政治への転換が図られ、貴族制度も緩まっていった時代だった。

 宋王朝の創業者は趙匡胤である。当時の中国は五代十国時代という群雄割拠の時代だった。北部は統一されていて、南部にいろいろな国がうまれているという構図である。北部の王朝である後周は後継者に恵まれなかった。後周は中国史上唯一血縁者に世襲させなかった王朝である。後周の皇帝は子供を亡くしており、妻の甥に皇帝の座を与えたのだ。ただその後も王朝は安定せず、幼帝を不安視した配下によって皇帝に担ぎ上げられたのが趙匡胤であった。

 趙匡胤は次々と他の国を攻略し、天下統一まであと一歩のところまで行くも、途中で死んでしまう。暗殺なのか自然死なのかはわからない。問題はその後で、趙匡胤には男子が何人も存在していたのに、後継者となったのは弟の趙匡義であった。どうにも怪しいが、詳細は一切不明である。趙匡義は兄の跡を継いで中国統一を成し遂げる。しかし、北方民族には敵わず、遼によって燕雲十六州を奪われることになった。ただ、劉邦であっても北方民族には敗れているので、仕方ないことだろう。世界最強の中華帝国を持っても勝てないくらいに遊牧民は強かったのだ。

フビライ(元)

 ここに来て歴代の皇帝とは全く毛色の違う人物である。中国史上、征服王朝と呼ばれる王朝が4つある。遼・金・元・清である。これまでも中国の王朝は北方民族によるものは多かったが、それらは中国に移住してきた後の王朝だった。この4つの王朝は北方にそもそもの根拠地を持っていた国家が中国を軍事征服したものである。

 宋は遼に頭が上がらず、延々と金をむしり取られていたが、その遼が金に滅ぼされると、金は一気に南に進軍し、宋の北半分を奪ってしまった。宋は淮河より南に追いやられ、南宋と呼ばれる時代に移った。しかし、その時代も長くは続かず、金よりも更に強大なモンゴル帝国が産声を上げていた。泣く子も黙るチンギスハンは1234年(覚えやすい!)金を滅ぼし、中華王朝として本格的に南進を始めた。南宋は必死に抵抗するが、最後には滅亡してしまう。

 チンギスハンは広大な征服地を子孫に分割して与えた。長男のジョチはロシアを与えられ、ジョチの息子のバトゥはヨーロッパに侵攻してワールシュタットの戦いを起こした。次男のチャガタイは中央アジアを与えられた。三男のオゴタイが大ハーンの位を次ぐことになった。四男のトルイは四人の子供がいた。モンケ・フビライ・フレグ・アリクブケである。モンケは第4代の大ハーンとなった。モンケの時代に雲南やミャンマーも征服された。モンケが死ぬとフビライとアリクブケの間で戦争が起こり、フビライが勝利した。勝者となったフビライは中国を本拠地とした。フビライの弟のフレグは中東を任され、1258年にバグダッドを攻略して中世イスラム文明を終焉に導いている。なんというか、スケールが違い過ぎる。

 フビライが中国北部を与えられた時点ではまだ南宋は生き残っていた。既に高麗を服属させていたフビライは鎌倉日本を征服しようとするが、失敗する。その後南宋を征服したフビライは再度南宋の資源を元に日本を征服しようとするが、失敗している。この二度目の日本征服においては台風で10万人が溺死したらしい。関東大震災並みの災害である。

 結局、フビライの元朝は日本とベトナムの攻略に失敗し、拡大は止まった。フレグのイルハン朝もアインジャールートの戦いでマムルーク朝に敗れ、エルサレムへは到達しなかった。バトゥの勢力もヨーロッパへの進出をやめてしまい、ロシアを支配するにとどまった。ここがモンゴル帝国の最大進出領域である。

朱元璋(明)

  朱元璋は世界の歴史の中でも有数の成り上がりものである。朱元璋は本当にただの農民だった。劉邦は農民といってもそれなりの豪農だったが、朱元璋は本当にただの貧民である。このような出自の人物が大帝国の皇帝になるような例は本当に珍しい。人類史上有数の下剋上だろう。

 朱元璋は元の衰退に乗じて反乱を起こした。現在の江西省辺りが由来である。南船北馬というように中国南部では水上交通がメインであり、朱元璋は結構水上戦も経験している。この時代辺りから中国南部には海賊が出没し始めてた時代である。朱元璋は浙江省辺りの張士誠を滅ぼし、モンゴル人を北方に追いやり、明王朝を建設した。ここで終われば良いのだが、朱元璋が始めたのは大粛清である。目に付くありとあらゆる有力者を片っ端から処刑し、その数10万とも言われる。近代以前においてこれほど多くの内部粛清を行った人物は存在しない。近代まで含めてもこのクラスはスターリンとポルポト、それにおそらく金日成くらいである。

   朱元璋の死後、跡継ぎになった建文帝は脆弱だった。これほど大規模な粛清が行われたのだから、無理もない。朱元璋の死後、程なくして北京に根拠地を置いていた燕王朱棣が反乱を起こし、明王朝は大規模な内戦が勃発する。勝者となったのは燕王朱棣であり、南京は陥落し、首都は北京に移された。朱棣は永楽帝を名乗り、中国最強の皇帝の1人として名を挙げる。

  明は中国南部から生まれた唯一の統一政権であると言われる。しかし、こんな見方もできる。明朝は実は朱元璋の帝国ではなく、永楽帝の帝国では無いかということだ。朱元璋の死後、全国規模の内戦で帝位は簒奪されてしまった。たまたま簒奪者が先帝の子供ため、普通の皇位継承という建前になったが、そこに簒奪があったことは明らかで、永楽帝はこの点に敏感だったらしい。南部から生まれた朱元璋の王朝は項羽や蒋介石と同じく短期間で消滅してしまった。一般にイメージされる明朝は勝者となった北部の燕王朱棣によって開かれた別の王朝だったのかもしれない。

 ちなみに朱鎔基首相は彼らの子孫だとか。

康熙帝

 清の中国征服は歴史上の征服の中でも最大規模である。おそらくアレキサンダー大王の東方遠征に匹敵するクラスだ。それにもかかわらず、清の中国征服は地味である。わずか数十万の満州人によって世界最大の明朝があっさりと征服されてしまったのにである。

 その理由の1つは目立った英雄がいないからだろう。初代皇帝のヌルハチは有能な人間だったが、この時代の清朝は満州地域の王朝だった。二代目のホンタイジの時代に明朝を圧倒するようになり、1644年に山海関を超えて中国に侵攻した。この当時の皇帝は6歳の順治帝であり、指導者とは言いがたかった。この軍事征服を主導したのは摂政のドルゴンである。ドルゴンを征服王にしようかとも思ったのだが、今ひとつ地味だ。

 清があっさりと中国を征服できたのは、明が勝手に滅亡してくれたからである。明の腐敗は酷かった。宋の時代は世界で最も進んだ帝国だったのに、明の時代になると経済成長はストップしてしまった。産業革命で中国が欧州に差をつけられた理由に1つはこの時代に端を発する停滞である。李自成の乱によって明が滅亡すると、山海関を守っていた呉三桂は清に降伏し、中国へ攻め入った。清と呉三桂の軍によって李自成は攻め滅ぼされ、中国は満州人によって征服されてしまった。

 この功績によって呉三桂は南部に独立王国を与えられる。しかし、順治帝が死んで康煕帝の時代になると、両者は戦うことになった。世に言う三藩の乱である。呉三桂は満州族の支配から中華を解放することをお題目にしていたのだが、「裏切り者」の呉三桂が主張しても説得力はなく、民衆を従えることが出来なかった。康煕帝は呉三桂を下し、ついに完全に中国を統一することになった。これ以降、康煕帝・雍正帝・乾隆帝の三帝によって清朝は全盛期を迎えることになる。

毛沢東(中華人民共和国)

 清は中国史上最も完成度の高い王朝だった可能性が高いが、それにもかかわらず、欧州列強によって食い荒らされた王朝でもあった。末期の清朝は列強の半植民地状態であり、屈辱の100年と言われたりもする。康有為など改革を試みた人もいたが、うまく行かなかった。

 中国史の興味深いところは近代史すら伝統的な王朝のパターンを踏襲していたことである。違いと言えば天子が世襲されなくなったことと、遊牧民が衰退して海上からの脅威に変わったことくらいだ。1911年の清朝が滅亡すると、中国は再び群雄割拠の時代を迎える。この中では浙江省辺りに根拠地を置いた蒋介石が一番強力で、一時的に中国を統一したことになっているが、その実は軍閥の連合体でしかなかった。山西省の閻錫山や東北部の張学良など、様々な勢力によって中国は分裂していた。それに蒋介石は常に共産党の反乱に悩まされていた。

 毛沢東はある意味で伝統的な農民反乱の延長線上に合った人物である。紅巾の乱では反乱勢力は白蓮教を信仰していた。太平天国の乱ではキリスト教がその役割を担った。共産党が報じていたのはマルクス主義である。どれも異なった起源を持っているが、やりたいことは変わらない。農民に土地を分け与え、ユートピアを建設するのである。

 共産党は不利だったが、いくつかの幸運に支えられた。日中戦争で国民党が忙殺され、共産党は勢力拡大に集中することができた。終戦後に満州をソ連から与えられ、日本軍の兵器を接収して共産党は強力になった一方、国民党は腐敗で人心を失っていた。共産党は彭徳懐や林彪といった優秀な将軍に支えられ、1949年に全ての勢力を駆逐し、中国を再統一することに成功した。

 毛沢東のその後もよく知られている。毛沢東は李世民ではなかった。毛沢東は王朝の創設には貢献したが、その後の運営は大失敗だった。大躍進で3000万の餓死者を出し、文化大革命で10年に渡って中国を大混乱に巻き込んだ。彭徳懐は惨殺され、林彪は文化大革命を主導するも途中で亡命し、死亡した。毛沢東の妻である江青は中国史上有数の悪女として台頭していったが、毛沢東の死とともに失脚した。

 中国史上最も有能な天子は誰かという話になるが、筆者が挙げたいのは鄧小平である。鄧小平の改革開放は大当たりであり、中国は歴史上類例のない爆発的な経済成長を遂げることになった。光武帝も李世民もここまでのことは成し遂げていない。康有為に始まる中国の苦闘はこの時代になってようやく報われたと言えるだろう。

傾向

 また長くなってしまった。中国を統一した英雄と言えるのはこの11人だろう。微妙なのは蒋介石だが、入れなかった。蒋介石の政権は一度も安定せず、国内には軍閥がまだまだ割拠していて、間もなく共産党に政権を奪われているからだ。

 中国を統一した11人は朱元璋を除き全て北部の勢力である。フビライと康煕帝はそもそも北方の征服王朝だった。毛沢東は一応瑞金が根拠地とも言えるのだが、この政権は長続きせず、長征で延安に移動してようやく安定した勢力となった。朱元璋は唯一南部から王朝を打ち立てているが、死後間もなく北京の燕王によって征服されている。そういった意味では北部の方が圧倒的に強いと言えるだろう。

 出自はどうか。始皇帝・フビライ・康煕帝は既に世襲で王位を手にしていた。彼らの争いは通常の王宮ものと変わらない。司馬炎と楊堅は王朝内で勢力を高めていき、簒奪を行ったタイプである。趙匡義は本人が行った訳では無いが、このパターンの延長に含めて良いだろう。李淵は既に軍閥として大兵力を手にしていた。この点は燕王朱棣に近いかもしれない。劉邦・劉秀・毛沢東は豪族階級であり、農民反乱の延長線上で政権を獲得した。朱元璋も同様だが、出自は遥かに低かった。唐を滅ぼした朱全忠も似た側面があるが、通常は統一王朝に数えられない。

 しばしば中国と対比されるヨーロッパはどうか。ヨーロッパは統一が非常に難しく、ヨーロッパの中核と言えるドイツとフランスの両方を支配した人物は史上三人しかいない。カール大帝・ナポレオン・ヒトラーである。このうちカール大帝はカロリング朝の王家の出である。ナポレオンはコルシカの貴族で、民族的にはイタリア系だった。ナポレオン・ボナパルトという名前からしてイタリア風である。ヒトラーはオーストリア出身の中産階級である。ナポレオンとヒトラーは何かと似ている。どちらも外国の出身で、生粋の国民とは言えない。どちらも欧州大陸を統一したが、英露を破れずに敗北した。両者の違いは虐殺を行ったか否か程度である。ただ前者は英雄、後者は極悪人と扱われている。虐殺を行ったという事実はそれくらい品位を損なう。朱元璋が劉邦になれなかった理由もこれだろう。


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