新約聖書で考える、会社の飲み会
筆者は会社の飲み会論についても何度か考察しているのだが、どうも人間を見ていると二種類のアプローチが存在するように思える。これは会社のみならず、私生活でも実はそうなのだが、会社のほうがより観測しやすいし、個々人の違いも出てくるのだ。
筆者は会社生活に適応するのに苦労したため、一時期宗教に救いを求めようとしたことがあり、宗教の経典を通読しようとしていたことがある。新約聖書も読んだのだが、その中に興味深い一節があった。筆者は聖書が古今東西のテクストの中で特に示唆深いものとは思っていないのだが、この一節だけは神の啓示かと思わんばかりに納得させられたのである。
それはルカによる福音書にある「マルタとマリア」という一節だ。
要するに、イエスが家に訪問した時に、マルタは料理を作ったりといった行動の面でイエスをもてなしたの対し、マリアはイエスの話に耳を傾け、他者交流という観点で捉えていたのである。
この単純な対比は、飲み会の類で結構目にすることができる。それにもかかわらず、意外に言語化している人は少ないかもしれない。
飲み会においても、サラダを取り分けたり、上司のグラスが乾いたら酒を注いだりとタスクに注目する人が多い。特に会社の飲み会は作法が多いので、タスクに注目した場合、やることが無くなることはない。というか、私生活の飲み会との最大の違いはタスクの量ではないかと思う。
マルタ的なアプローチを取っている人間は上司の好みの酒とか、料理の注文に敏感で、常に手を動かしている。会話ももちろんするのだが、他者理解というよりは適切なタイミングで合いの手を入れたり、相槌を打つなど、非言語的なところに焦点が当たっている印象である。対話というよりもスポーツのほうが感覚が近いかもしれない。
一方、マリア的なアプローチはそこまで説明は要らないかもしれない。単純に相手の話に耳を傾け、理解しようとする。相手の背景事情かもしれないし、価値観かもしれないし、趣味かもしれないが、普段の業務では見ることのできない他者理解の場として飲み会を捉えているわけである。他者理解と言えば仰々しいが、要するに普通の対人交流の場である。
で、どちらのアプローチが良いのかという話だが、本来的にはマリア的なアプローチのほうが好ましい。会社の偉いオッサンは人にもよるが意外に孤独であり、他者理解を示すと結構喜ぶことが多い。饒舌になって豊富な人生経験を楽しそうに語ってくれることも多い。この点は若手社員よりも勝っている。
ただ、会社組織の問題は多種多様な人が集まっているため、他者理解まで行き着く人が少ないことである。たから、比較的ローコンテクストなマルタ的なアプローチのほうが好まれる時のほうが多い。特にオッサン耐性の無い人(Z世代の男子とかのイメージだが、実際は中堅の女性のほうが多い気がする)の場合はマルタ的なアプローチの方に全振りすることが珍しくない。また、会社という場所では自分の話をしたくない人や、他人に一切興味がない人もいるので、そういった人はマリア的なアプローチは望んでいないだろう。
会社というのは実務的な場所であるため、マルタ的なアプローチのほうが業務の延長線上としてやりやすいと捉えられる節がある。だが、それだけだと業務の延長線上になってしまうし、特に意味のない儀式のようにもなりがちである。理想を言えばマリア的なアプローチのほうが喜ばれるのだが、会社という場では難しい時もある。その時のための乗り切り方としてマルタ的なアプローチがあるのかもしれない。
ちなみに筆者の場合はマルタ的なアプローチが非常に苦手である。学生時代の合コンでサラダの取り分けに失敗してから、あまり飲み会では手を動かさない方が良いことを学んでいた。ただ、会社という場所ではやたらとマルタ的なアプローチが求められる時もあり、非常に苦労している。一方、純粋な会話に持ち込む事ができれば結構強い。どうも筆者は他者理解が比較的得意なようである。したがって筆者の飲み会でのストレス度はどこまで「作業」が要求されるかによって大きく異なっている。
一方、マルタ的なアプローチの方が得意という人も多い。というか、会社の飲み会で目立つ人間は大抵がこちらだろう。やはり会社という場所は口よりも手を動かす人間が偉いのである。ただ、マルタ的なアプローチだけを続けていると、新情報があまり手に入らないし、結局は仕事が増えているだけの状態になってしまうかもしれない。だから一定程度の他者交流はできたほうが良いだろう。