膠着語・屈折語・孤立語って何?
世界の言語には文法構造から大きく分けて「膠着語」「屈折語」「孤立語」の3つがあると言われる。それぞれの特徴を簡潔にまとめると以下の通りになる。
膠着語:単語の役割が助詞で決まる。 日本語、韓国語、トルコ語など
屈折語:単語の役割が活用で決まる。 ヨーロッパ言語、アラビア語など
孤立語:単語の役割が語順で決まる。 中国語、東南アジア言語など
この他にも抱合語という種類もあるが、マイナーなので省く。
膠着語
膠着とは膠でペタペタくっつけるという意味である。日本語で「膠着」というと「西部戦線異状なし」にように戦いが一進一退のことを示すことが多いが、それとは関係ない。分かりにくいネーミングである。
日本語は単語と単語を助詞でペタペタくっつけていく。「私 は 学校 へ 行く。」といった具合である。八時という要素を付け加えたいのなら「八時+に」と助詞を繋げて「私は八時に学校へ行く」とすれば良い。
重要なのは「学校」「八時」という名詞と「へ」「に」といった助詞が切り離し可能な別の単語であることである。所有を表したかったら「学校+の」とすれば良い。学校を主語にしたければ「学校+は」とか「学校+が」になる。意味を変えたければ「てにおは」をレゴブロックのようにくっつければ良いのである。
日本語は単語より文節の方が大事という論がある。日本語でも点字は単語ではなく文節単位で分かち書きをする表記体系が取られているらしい。「わたしは がっこうへ いく」といった具合である。なんと膠着語らしい表記だろうか。
似たような膠着語に分類される言語として韓国語やトルコ語がある。例えば韓国語で「は」に相当するのは「ヌン」である。北朝鮮のアナウンサーがよく自国について自慢するときに「ウリヌン〜」と叫んでいるが、あれは「我々は〜」と言っているのである。
日本語と韓国語は結構文法が似ているようだ。実際に日本に来ている韓国人は驚くくらいに日本語が上手な人がいる。有名人だとKARAのジヨンはいい例だ。もちろん努力の賜物なのだろうが、他の国の人と比べるとやっぱり上手い人の割合は高いと思う。ネイティブと見分けがつかない人もいる。言語構造の近さも多分に寄与しているのだろう。
屈折語
屈折語というのはもちろん折れ曲がっている言語ということではない。
屈折語は日本人にとっては非常にわかりにくい。大変面倒なことにヨーロッパ言語は基本的に屈折語だ。特にその特徴が強く現れているのがラテン語である。ラテン語はどのような特徴があるだろうか。例えばラテン語で「友達」を表す男性名詞のamicusの単数の格変化を見ていこう。
主格 amicus
属格 amici
与格 amico
対格 amicum
奪格 amico
主格は「〇〇は〜」、属格は「〇〇の〜」、与格は「〇〇に〜」、対格は「〇〇を〜」という意味である。奪格は前置詞と主に使ったり副詞的に使ったりする特殊な格である。
ラテン語は「てにおは」的要素が単語の中に不可分に埋め込まれているのだ。「私 は」のような形でamicusを「amic us」などと分離することはできないのである。
このような面倒な名詞の格変化はヨーロッパ言語のあちこちで見られる。ドイツ語やロシア語もラテン語ほど面倒ではないだけで、格変化をマスターするのは大変だ。
動詞の活用も似たようなものだ。ドイツ語を見てみよう。
ドイツ語の動詞は一人称単数ichの後では 〜e、二人称単数のduの後では〜stなどとやはり活用によって動詞の形が変わってしまう。穿った見方をするとドイツ語では一人称を表す符号が一人称のich以外に動詞の語尾の〜eにも分離して埋め込まれているいるのである。これは屈折語の特徴だ。
ちなみにラテン語にもなるとそもそも一人称や二人称自体が通常使われない。ラテン語で愛する(amo)を例に取ろう。
一人称単数のamoは単独で「私は愛する」という意味だし、二人称単数のamasは単独で「あなたは愛する」という意味である。語尾の〜asが「あなた」を意味するわけではなく、amasで「あなたは愛する」という単語なのである。屈折語は日本人の感覚だと本当にわかりにくい。
(余談だが、ラテン語の一人称単数主格をあらわすegoは強調表現だ。日本語に訳すと「私は」よりも「私が」だろう。あんまり「私が」「私が」と強調すると文字通りエゴイストと思われてしまうかもしれない。)
孤立語
3つ目の分類は孤立語である。孤立語というのは孤立した言語のことではない。山岳地帯に残っていがちなマニアックな言語のことは「孤立言語」という。大変紛らわしい。どれもこれもネーミング悪すぎないか。
孤立語の典型例として挙げられるのが中国語である。現代中国語だと崩れてきているが、元々の中国語は一つの漢字が一つの単語に相当する。当然主語の人称や格によって漢字が「活用」されるわけではない。「〇〇に」であろうが「〇〇が」であろうが単語の形が変形することはないのである。
例を挙げる
我愛你(私はあなたを愛する)
你愛我 (あなたは私を愛する)
主語であろうと目的語であろうと我は我であり、你は你である。勝手に発音が変わったり語尾がくっつくことはない。
孤立語で大事なのは語順である。「我愛你」と「你愛我」では単語は同じでも意味は全く異なってしまう。これは膠着語や屈折語には見られない特徴だ。
膠着語の日本語は語順の自由度が高い。「私は八時に学校へ行く」と書いても「学校へ八時に私は行く」と書いても問題はない。「私は」「学校に」といった文節が語順と無関係に文法上の意味を示しているからである。
屈折語のラテン語も同様だ。「少女は薔薇を愛す」をpuella amat rosas と書いても rosas amat puellaと書いても問題ない。(puellaは少女の単数主格、amatは愛するの三人称単数型、rosasは薔薇の複数対格である。)なぜなら活用を見れば直ちにその単語が主語か目的語か判明するからである。(別の見方をするとラテン語は活用形をきちんと覚えてないと主語か目的語か全くわからないということになる。本当に面倒だ。)
まとめ
さて、長々と特徴を見てきた。これらの言語の特徴を端的にまとめるとどうなるだろう。各タイプの一人称を表にまとめると以下のようになる
主語 目的語
日本語 私は 私を
ラテン語 ( ego) ( me)
中国語 我 我
「私」を主語にしたい時、日本語は膠着語だから助詞をくっつければ良い。「私は」とすれば主語であることを示せる。目的語にしたい時は「私を」にすれば良い。
ラテン語は屈折語だった。だから主語は動詞の活用の中に織り込まれている。amoだけで「私は愛する」という意味になるのである。あえて「私が」と明示したい時はegoという単語を使う。これが目的語になるとmeという全く違う単語になる。単語自体が変わってしまうのが屈折語の特徴だ。
中国語は孤立語だ。だから「我」という単語は絶対に変化しない。「我」が主語や目的語であることを示すには語順を工夫するしかないのである。
英語
あえて触れなかったのが世界最強のメジャー言語、英語だ。なぜなら英語はヨーロッパ言語の中でも異端的な存在だからだ。ヨーロッパ言語の特徴である動詞の人称変化は英語では三人称単数現在形を除いて消え失せている。名詞の性別も消滅しているし、格変化も人称代名詞くらいだ。英語は屈折語的な面倒臭い特徴がほとんど消え失せているのである。
その代わり英語は語順にうるさい。大学受験を経験した者ならば、英語の並び替え問題は絶対にやったことがあるだろう。あのような問題は屈折語だったら本来ありえないはずだ。英語は屈折語の特徴を失って孤立語に近づきつつあると言われる。
どの言語が「簡単」か?
私は日本人なので、膠着語のヨーロッパ言語はとにかく難しく感じる。ドイツ語やロシア語の格変化はいつまで経っても暗記できそうにないし、その場でミスなく使うなんて夢のまた夢だ。ラテン語やギリシャ語は更に複雑だ。決まったパーツを組み合わせればいい膠着語のほうが絶対簡単に思える。そう思って調べてみると興味深いものを見つけた。人工言語エスペラントである。
エスペラントはヨーロッパの言語をベースに文法を極限まで簡単にして、誰でも習得できるようにした人工言語である。そのため動詞の人称活用なんて面倒なものはないし、現在形・過去形・未来形・進行形などの活用を数パターン覚えるだけで良い。面倒な格変化は存在しないし、単語も接辞を組み合わせた合成語ばかりである。だから覚える語彙の量も少ない。
さて、エスペラントは膠着語に分類されるらしい。ヨーロッパ言語をベースに作ったにもかかわらずである。やっぱり屈折語の複雑怪奇な活用はヨーロッパ人の感覚からしても非効率なのではないか?と思わずにはいられない。
孤立語と膠着語はどうだろうか。私は孤立語のほうが簡単に思えてならない。日本語が上手でない外国人の片言を聞いていると助詞をすっ飛ばしているのが多い。こういう日本語は孤立語的である。「ワタシ、カレ、ナグル」と「カレ、ワタシ、ナグル」では別の意味に聞こえるだろう。
このように「てにをは」がメチャクチャな外国人は沢山散見するが、語順がおかしい外国人っているんだろうか。中国語は発音は激ムズだが文法は簡単だと聞く。ヨーロッパ言語の中で明らかに文法が簡単な英語も孤立語モドキだ。英語学習に苦戦する日本人は多いが、語順に苦戦しているという話は聞かない。
やっぱり孤立語って膠着語よりも簡単なんじゃないか?という疑惑が浮かんでくる。今度ベトナム語にハマっている友達に質問してみよう。