ネット世論がオールドメディアに勝る日は、たぶん来ない
大荒れとなった兵庫県知事選挙は前職の斎藤元彦が勝利し、再び斎藤元彦が兵庫県知事として返り咲くことになった。斎藤知事は元々パワハラで二名の自殺者を出したことを議会に糾弾され、知事の職を追われていた。その斎藤元彦が再び知事に返り咲いたのだから、驚きである。
さて、この選挙で話題となったのがSNSを中心とするネットの声がテレビを中心とする既成のマスメディアを打ち破ったという点だった。テレビが斎藤元彦を「不祥事を起こした人」として報道したのに対し、ネット上は斎藤元彦がハメられたという主張が拡散され、それが後押しとなって斎藤元彦が再選したという経緯があった。N国党の立花孝志による後援も決定打になったとされる。
兵庫県知事選挙でマスメディアに袋叩きにされていた斎藤元彦が再選したように、ネットの声がオールドメディアを上回っているのであれば、もはや両者の力関係は逆転してしまうのではないか。そういった声も聞かれるようになった。既存のメディアの敗北であるという論評も目立っている。
しかし、筆者は断言する。オールドメディアをネットが上回る日はおそらく永久に来ない。両者の性質は根本的に異なっており、競合関係にあるかすら、怪しいからだ。筆者は日々ネット上に駄文を投稿している立場であるため、両者の力関係は感覚的に把握しているということもある。それではネットがオールドメディアに決して勝てない理由について探っていきたい。
プロとアマチュアの違い
最大の違いはオールドメディアがプロによる発信なのに対し、いわゆるネットの声は所詮はアマチュアによるものであるということだ。一応YouTuberなど専業の者もいるが、人数と影響力は大きく劣る。
ネットの利用者がテレビを上回ったことを持ってネットがオールドメディアに勝利したという主張があるが、これはおそらく誤りである。ここで言うネットの声はあくまでSNSを中心とする一般人の投稿であり、Yahooニュースや日経電子版のことを指すわけではないと思う。テレビが衰退したとしても、発信者としての新聞社やテレビ局の地位は以前として安泰であり、仮に脅かしたとしても、それはネット中心の別のメディアであって、SNSの真偽不明の声ではないのである。
要するに、この議論の本質は地上波とネットの争いではなく、プロのメディアと一般人の書き込みの争いということである。若者のテレビ離れは別問題だ。媒体の話と発信源の話が混同されている。
社会的地位の有無
オールドメディアはプロの集団であり、記者にしても映像制作者にしても、非常に高度な技術を持っている。それに組織としての統一性や知恵の出し合いもしているだろう。テレビの呼ばれる人も一部怪しい人はいるのだが、基本は学者やそれなりの専門家であることが多い。それに大企業である以上は公的な立場も意識しないといけないし、相応の社会的責任を負うことになる。これらは全て情報の信頼性に繋がるはずだ。
一方、ネットはというと、無名の一般人であることが多い。確かに専門家や有名人が「ネットの声」に賛同することはあるかもしれないが、彼ら全体の中では少数派だと思う。それに有名人であってもネット上での主張は私的な行為であることも多く、到底オールドメディアのような責任を取るようなスタンスではない。
マスメディアはプロの集団であり、元々の技能が高い上に、誤報を出した場合は社会的な責任を追うことになる。ネット上の書き込みは真偽不明であるばかりか、誤報だった場合に責任を追求されることもない。両者の信頼性は明白である。マスコミだって誤報は多いが、ネットの情報はそれ以上に誤報が多いのではないだろうか。
匿名性と責任
社会的地位の有無と関わってくるのだが、そもそもネット上の投稿は匿名であることが多い。この時点で信頼性という観点では論外である。あなたは名前を明かさない相手と金融取引をしたいと思うだろうか?思わないと思う。
もちろんメディアが全て実名とは言わない。個々人の記者の名前が表に出るとは限らないし、作家であれば本名非公開の人間だって多いと思う。とはいえ、やはりメディアと言う業界という業界の内部では実名で動いているだろうし、匿名化されたネット言論とはまるで違うのではないか。
匿名であるということは、その人物が投稿に対して責任を取らないということである。ネットはだからこそ気軽に投稿できるのだが、言い換えると信頼性は低いということだ。
現地に行っているか?
メディア関係の人から聞いた話だが、メディアにとって情報を掴むこと以上に大変なのは、その情報の裏を取ることらしい。実際、テレビや新聞に比べればかなり周辺的なメディアである週刊誌ですら、誤報を出すと訴えられてしまうので、慎重に裏を取っているようだ。週刊文春を訴えたが、敗訴したという話はいくらでもあると思う。
もしネット上の匿名の配信が関係者による表に出ることのできない暴露なのであれば、この配信は一定の意味があるだろう。ジャニーズ事務所のように既存のメディアが使い物にならない場合、この方策は強力だと思う。だから、一概にネット上での告発を否定する気はない。
ところが、今回の兵庫県知事選挙のような場合、本当にネットの声が事情に精通している人間によるものなのかという点には疑問が付く。マスコミ不信を熱狂的に叫ぶネットの声は県庁の関係者どころか、兵庫県民なのかすら怪しい始末だ。ちゃんと現地に行って取材しているジャーナリストや関係者からの匿名の暴露ではなく、無関係な一般人による炎上騒ぎなのではないかという指摘は可能だろう。
統一性と多様性
これはちょっと性質が異なる点なのだが、オールドメディアはテレビや新聞というみんなが見ることを前提とした発信であるため、それなりに万人受けする視点で情報を発信している。オールドメディアは信頼性が高いので、言っていることもどの会社も変わらない。それは現実という一点を共有しているからでもある。
ところが、ネットの場合はコンテンツの種類が多く、現実性にもあまりとらわれないので、人によって全く違うものを見ているということが多い。もはや共有している前提すら存在しないこともある。
マスコミを信用しないという人は多いが、だからといって信頼性が更に低いネットを信用するというのは矛盾である。マスコミを信用しないがネットを信用するという人は、既に確立された考えをより強固にするだけになることが多い。となると、ネットの声は皆が好きなものを見ているがゆえに、分極化を促すことはあっても、個々人の意見の方向性を変えさせることはできないということになるだろう。ネット上の陰謀論は反ワクに近く、広まって問題を起こすことはあっても、既存の近代医学に取って代わるとは到底思えない。
ネットはあくまで「従」の存在
こうして考えてみると、ネットの声はオールドメディアに比べて信頼性が低いという単純な理由により、主従関係が存在する。ネットの声がオールドメディアを上回るとは到底考えられない。例えるならば、国勢調査とウェブ上のアンケートのようなものだ。
だからといって、ネットでの配信が無意味とはいえない。むしろネットの声は信頼性が低くも良いが故に、普通の人でも気軽に配信することができ、面白さがある。これが既成のメディアと同様に取材し、校正し、社会的責任を負うとなれば、到底普通の人は楽しむことができないだろう。そうなればネット空間は論文の検索サイトのように「つまらない」ものになってしまうはずだ。
ただ、ネットはあくまで表のマスコミが存在しているがゆえに価値を持つ、従属的な存在であるということである。会議と飲み会の関係性と同じだ。会議で言えない非公式のことがあるからこそ、飲み会によるコミュニケーションがあるのであって、飲み会がメインになっては元も子もないだろう。仮にそうなったとしたら、酒を飲むことはできない。したがって、ネット言論の存在感がいくら大きくなっても、主従関係が覆ることはない。ネットの声とはオールドメディアが扱うことができないネタを取り扱うものであり、オールドメディアに取って代わるものではないのである。
兵庫県では何が起きたのか
それならオールドメディアから干された斎藤元彦が再選されたのはなぜかということになる。あの選挙は有権者がマスコミ報道よりもネットの書き込みに賛同した結果ではないかという主張は考えられるだろう。
ただ、筆者は斎藤元彦がネットの陰謀論によって当選したとは考えていない。メディアはおそらくメディアの影響力を過大評価しがちなのだろう。有検査はマスコミ報道にもネットの声にも興味がなかった可能性が高い。
ヒントは同じ兵庫県の明石市長だった泉房穂にある。泉房穂は一度パワハラで告発され、市長を降りたが、選挙で圧倒的勝利を収めた。それは泉房穂の市政がきちんと結果を出していたからだ。有権者は泉房穂のパワハラを特に問題とは思っておらず、実績と政策で選んだということだ。死者が出ているか否かという違いはあるものの、驚くほど経緯は似ている。
メディアが非難轟々でも、実際の世論は正反対という例はいくらでもある。安保闘争のさなかでも自民党は政権を保っていた。同時期のパリ五月革命でも、いざ選挙となるとシャルル・ド・ゴールの圧勝だった。ベトナム反戦運動の時もニクソンは大統領選挙で圧勝し、「サイレントマジョリティ」という発言が注目された。
兵庫県のサイレントマジョリティはメディアには影響されなかったが、かといってネットにも対して影響されていなかったという辺りではないか。もしN国党に選挙結果を左右させる力があったら、もっと大量に議席を獲得しているはずだ。それに、ネット世論が実社会を上回る力があるのだったら、東京オリンピックは中止になっているはずである。
兵庫県の有権者は斎藤元彦の政治を評価し、前回と同様に投票しただけなのだ。ネットの騒ぎは多少は助けになったかもしれないが、それだけでは当選は難しかったと思う。
本当の問題点
今回の真の問題点とは、ネット世論が錦の御旗を得たと考えて、過激化することである。兵庫県議会の議員に対する脅迫行為がエスカレートしていることが問題になっている。また、自殺した職員の私生活をネット上にばらまくことの是非もある。知事に対する公益通報と同等の行為とは思えない。今後、ネット上での騒ぎが選挙に波及することが常態化したら、大きな問題になるだろう。
以前、ネットの声が原因で殺人犯に仕立て上げられた、スマイリーキクチ事件を知っている人は多いと思う。ある日突然、ネットで自分が悪者にされ、私生活や職業上の地位が脅かされる危険性は高まっているだろう。今回の騒ぎでメインだったと思われるN国党は、以前にマツコ・デラックスに対する執拗な攻撃を行っていた。ネットの声は選挙結果を動かすことはできないが、個人の人生をめちゃくちゃにするのには十分な力を持っている。議員の脅迫も考えると、現在の日本でN国党を批判することは、「第二のマツコ・デラックス」になる危険を伴うかもしれない。
また、一連のパワハラ問題が解決していないということもある。どちらが真相かは分からないが、少なくとも知事と職員の関係は対称的ではない。本来なら知事の辞職で幕引きだった話が、当選によって問題が複雑化してしまった印象を受ける。仮に斎藤知事のパワハラを肯定する立場から見ると、被害者の前に再び加害者が強化された状態で舞い戻って来るわけで、責任追及どころか「再犯」を誘発している状態になる。流石に斎藤元彦も余計なリスクは取らないと思うが、そうなるとは限らない。一方、斎藤知事の政策を評価する立場から見ても、知事と議会や職員との関係があまりにも悪く、これでは円滑な県政が期待できなくなってしまう。
まとめ
センシティブなネタではあるのだが、ついつい書いてしまった。やはり人間は書きたいという衝動を抑えられるものではないらしい。
筆者はオールドメディアとネットの声には明確な主従関係があると考えており、後者が前者を凌駕することは考えられない。仮にメディア不信があったとしても、この関係は変わらない。教師と不良の関係を考えてみれば良い。不良は教師に反抗したとしても、自らが新しい教師としてクラスを運営することはない。不良は単に教師に従いたくないだけで教科の知識があるわけでも、指導者として責任を取りたいわけでもないからだ。
メディアの人間はSNSの声をおそらく過大評価している。実際の選挙にマスコミが及ぼせる影響は小さく、SNSの言論は更に小さい。人格的報道によって選挙が左右されるのは、ある意味で重大な政治問題が存在せず、誰がやっても同じ状態だからとも言える。実生活に影響が及んだり、思想的に重要な政治論争であれば、スキャンダルの1つや2つで当否が決まるとは到底思えない。極端な例であれば、ゼレンスキーが不倫しても、支持者がプーチン側に鞍替えすることはないだろう。
というわけで、筆者としてはネットの声が実社会に及ぼせる影響は限界があるのではないかと考えている。
おまけ
坂道グループ最高傑作と筆者が勝手に崇めている作品がサイレントマジョリティーである。作中の「どこかの国の大統領」とはニクソンのことを指していると思われる。秋元康は1958年生まれなので、まさに思春期にベトナム反戦暴動とウォーターゲート事件を目にしたはずだ。
「うっせえわ」が流行したように、「社会への反抗」というテーマはいつの時代にも一定の共感を得るテーマである。ただ、反抗とはあくまで社会が存在するからこそ反抗できるのであって、自らが既存の社会に取って代わるのは、別の問題である。反権力とは自らが権力の側にいないからこそ機能するマインドなのだ。