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心についての価値観に関して回答してみた。

このような記事を発見した。

 筆者はこの手の問題に関して日頃から考えているので、自分なりの答えを書いてみたいと思う。叙情的な回答や常識的な回答は他の人がすでにしているだろうし、同じことを答えても面白くないので、ここぞとばかりに濃い回答を考えてみたい。

Q1:人の心を動かすには何が大切だと考えますか?

 大昔の記事で書いたところによると、人間の行動のインセンティブは利益・共感・規範の3つだと考えている。ただ、これらの考察は現実の生活に落とし込むにはやや規範的すぎるかもしれない。

 しばしばこの手の言説で言われるのは、人間は理屈ではなく、気持ちで動くというものだ。筆者もこの意見に賛同したいと思う。ネット上の言論でしばしば相手を論破しようとする人がいるが、あれは完全に悪手だと思う。自分に対して攻撃的・侮辱的な人間の主張に耳を貸そうとする人がいるだろうか?数学や自然科学の議論であれば答えが一意に定まるので論破も可能だが、現実の世界には正解は存在せず、自分に都合の良いロジックは無限に作ることができる。人間は無数にあるロジックの中から自分の「気持ち」に合致するロジックを選んでいるだけだ。だから論理的な人間同士の議論は正しいことを言ってるのに、噛み合わないのだ。(火の鳥太陽編でそんな感じのセリフがあった気がする)

 自分の意見を広めたいのであれば、論破ではなく感化をすべきである。したがって、情報発信能力という点ではしばしばNT型よりもNF型の方が強かったりする。ヒトラーも然り、小泉進次郎も然り、論理はめちゃくちゃでも、どこか心を動かすような話をできる人間は、なんだかんだファンが増えてくるのだ。

 しばしば誤解されるのだが、F型=感情で動くというのは間違いである。T型も実は感情で動いているのだが、他者交流の方法として論理を用いているので、あまり「心」に関してフォーカスしないだけである。人によっては自分に「心」があることすら認めない人がいる。だが、それではいけない。論理を盲信する人間は、人間が「心」で動いていることを理解すべきだし、同時に自分の「心」に関してもメタ認知すべきだと思う。不機嫌な顔をして、人の意見をロジックで粉砕したとしても、相手は間違いを認めることはないし、自分の味方にもなってくれないだろう。

Q2:人の心のどこに不思議を感じる(感じない)か教えてください。

 人間の心というのは不思議なことがいっぱいだ。心理学実験とか脳科学実験をすれば数々の興味深い知見が得られるのだろうが、筆者はそういった分野の専門家ではないので、詳しいことはわからない。ラマチャンドランの「脳の中の幽霊」といった書籍を読むと良いかもしれない。

 筆者が人間の「心」のどこに不思議さを感じるかと言うと、「心」は物質世界から独立しているかのように見えて、全くそうではないということである。特に影響が大きいのは身体だ。筆者はこれを書いている時は寝不足なので、非常にネガティブな思考回路である。睡眠というのは身体の概念なのか、「心」の概念なのかと考えていると、ますます眠れなくなってしまう。現在は心身二元論は時代遅れになって久しい。睡眠とか、向精神薬とか、心身二元論では捉えきれない存在もある。

Q3:「心のこもった」とはどのような状態か説明してください。

「心のこもった」という概念はひとえに相手に共感性を呼び起こすかという問題に繋がるだろう。T型の人間はこの要素を軽視しがちである。筆者がこの問題に関して、いつも連想するのが千羽鶴論争である。

 T型の人間は千羽鶴を送っても問題解決に役に立つどころかマイナスだから、止めてしまえという。中には千羽鶴を送る姿を見て笑う人間も存在するだろう。なぜなら、T型100%の価値観だと、千羽鶴を折るという非合理的な行動に一生懸命になる人間は「奇行」を行っているからだ。

 一方、F型はそうは考えないだろう。一生懸命自分のことを思ってくれる人がいれば、それだけで嬉しいと感じるし、仮に問題解決に役に立たなくても、精神的な力になると考えるかもしれない。

 T型とF型のどちらが正しいかというと、筆者の見解としては優劣は無いと思う。というより、バランスを欠いていることのほうが問題だ。T型とF型はおそらく相互補完関係にあり、どちらか一方に偏っている状態は危険である。

Q4:人の心の声を聴ける能力(オン/オフは自由自在)は欲しいですか?手に入れたらどうしますか?

 個人的な想像に過ぎないのだが、他人の心を聴けたとしても、理解できないんじゃないかと思う。いわば外国語を聞いているような感じになるのではないか。あるいは無数のフラッシュとか雑音が飛び交っていて、到底理解できるようなものではないかもしれない。

 人間の振る舞いには「思考」と「行動」の二段階がある。「こいつムカつくから殴りたいなあ」と考えるのが「思考」であり、実際に相手を殴るのが「行動」である。一般に精神論においては思考のほうが人間の本質であり、そこに規範意識や周囲の目が影響して行動が制限されるという考え方になるだろう。例えば行動面では上司を褒め称えていても、思考面で上司を嫌っている場合、一般論で言えばこの人と上司の相性は悪いだろう。したがって、後者のほうが本質という扱いになる。

 ただ、最近のSNSの荒れ方を見ていると、人間はそんな単純ではない気がしてくる。思考が行動に反映されるだけではなく、その逆もあるのではないかと思う。SNSは人間のどす黒い心の中をさらけ出したと同時に、そういった空間に影響されてどす黒い方向に誘導されていったという側面もあるのではないか。性格が悪いから悪口を言うのではなく、悪口を言うから性格が悪くなったということである。

 冗長になってしまったが、人間の「心」というのは思われているよりも外形的な行動によって左右されていて、「本心」というものの重要性は高くないのではないかと考えている。「心を読む」シーンは大概が相手の考えていることが日本語になって感知されるわけだが、言語化という作業自体が他者に伝えるためのツールとして発達した。だから、仮に他者の心を読んで辛辣な内容を受け取ったとしても、それを行動に出さない限りは本当の意味で人間性に影響しているとは言えないのではないか。やはり行動はそれ自体が人間性の本質なのだ。「やらない善より、やる偽善」というのは本当に良い言葉であると思う。

Q5:人の心よりも価値のあるものを2つ挙げてください。(存在しないも可)

 唯物論的な立場であれば、世界というのは人間の存在とは無関係に「ある」ものであり、人間は単なる付属品に過ぎないということになるだろう。しかし、唯心論的な立場で考えると、人間の「心」が認識という形で世界を捉えなければ、世界は今の姿ではいられないということになる。印象に残ったのはエルンスト・マッハの一元論だ。マッハは日本では音速で知られるが、哲学者としての功績も大きい。マッハによれば、世界というのは人間の認識によって捉えられる「何か」に過ぎない。科学者なのに唯物論全否定というのが面白い。

 MBTI考察もそうだが、筆者の興味の対象は人間にある。科学的真理なるものも、実のところ本当に人間の存在なくして成立するのか怪しい。太陽が黄色いのだって、人間の色覚ないしはクオリアなくして成立しえないはずだ。物理学は普遍的真理の象徴とされる数式を通して現象を理解しているが、それは世界という「ありのままの姿」を数式という人間に理解できるスキームに転換して記述しているだけで、あくまで観測主体は人間ではないか。これはかなり挑戦的な価値観だが、言語に生成文法が存在するのなら、数式も実は人間の認知機能の影響を受けているのではないか。だから筆者は人間の心は最重要であると確信している。

 むしろ筆者にとって二項対立となるのはその「心」が自分の心なのか、他人の心なのかという点である。独我論的な価値観の人間であれば自分の心が最優先であり、他人の心はモノと同列である。しかし、人間は本当に他者なくして自我が維持できるのかという疑問も湧いてくる。他人軸で生きている人間の場合、基準となっているのは物質世界というより他人の「心」である。この場合は世界の姿は客観的な存在というわけでもなければ、自分の心によって作り出された虚像というわけでもなく、社会によって作り出されるものとなる。こうなると社会構成主義に近い要素が生じるだろう。

Q6:あなたの考える心の正体について説明してください。

 筆者の持論なのだが、人間の心はいわゆるクオリアではないかと思う。物質的に見れば人間の脳の内部で無数の電気信号が行き来しているだけで、精神なんてものは単なる機械のはずだ。しかし、赤い光は「赤」という実感を持って感じることができる。より露骨なのは痛みだ。痛みは単なる身体の危機を伝えるセンサーにもかかわらず、我々の「心」には実感を持ったものとして現れる。この実感こそがクオリアである。

 更に拡張し、筆者は「心」そのものに関しても色の感覚や痛みの感覚と同じ文脈で議論できると思う。神経伝達物質云々という理屈を説明されても、気持ちや認識といった「実感」はまた別のものとして存在するからだ。なぜか心や意識そのものをクオリアであるという主張はめったに見かけないのだが、不思議である。

 人間の主観はいまのところ解明できない謎だし、物質的な世界観における特異点となっている。近代において認識問題が取りざたされるのも、科学的世界観と「心」が同列に語ることができないからだろう。概ね認識問題とか心身問題の類は、主観的な「心」と客観的な「物質世界」が二項対立になっており、中間領域として「他者」と「身体」があるという構造になっている。きちんと調べた訳では無いが、だいたいこの構造をベースに似たような議論が繰り返されているのではないか。18世紀辺りまでは「神」というアクターも存在していたのだが、19世紀になると一気に見なくなった。当時の欧州では脱宗教化が進んでいて、「神は死んだ」と騒ぎ回る危ないオッサンまで出てきている。

 自分の「心」を重んじた場合、独我論的な世界観を構築することも可能だ。しかし、それでは他者の存在は単なる哲学的ゾンビと化してしまう。筆者のMBTI考察の前提には他者も自分と同じ「心」を持つ人間であるというものがあり、自分の「心」と同様の洞察を他人の「心」にも適用できるだろうと信じている。逆もまた然りである。それが正しいかは分からないが、とりあえず正しいと仮定しないと議論は始まらないのだ。

Q7:動物、植物、機械、物など、人間以外に心は存在すると思いますか?

 筆者は事実上存在しないと考えている。仮に似たようなものがあったとしても、我々の感覚で共感不能なので、存在しないのと同じ扱いにして問題無いだろう。

 人間観察を繰り返して思うのだが、「常識」は非常に大切である。人間は群れから孤立すると、あっという間に常識をなくしてしまう。そうなると、他の人間との共感が難しくなっていって「ズレて」いくのだ。意味不明なことを1日中つぶやいている麻薬中毒者を見て、親近感が湧くとか、友達になりたいとか思う人はいないだろう。

 人間の個性の重要性に反発しているようだが、一定程度の均質性はむしろ個性を維持するために必要である。MBTI考察もまさにそれで、筆者の考察はなるべく自分との社会的距離が近い人間との比較に用いるべきと考えている。例えばアフリカの農村の文字の読めない老人と自分を比較すると、MBTI以外の差異が大きすぎて、スキームがうまく働かないだろう。一般人の言う個性とか性格というのはあくまで学校のクラスのような環境を念頭においていて、均質性が崩れるとそれどころではなくなってしまうのだ。

 というわけで、同じ人間であっても環境が違い過ぎると感覚が通じなくなってしまうのだから、動植物であれば言うまでもないと思う。共感的な人間は確かに他人に優しいかもしれないが、思いの外に共感というのはシビアである。同じ絶滅危惧種でも見た目が「かわいい」パンダに寄付が集中するのは好例だ。NF型であればビジュアルの比重が下がるかもしれないが(イルカやクジラを好む印象)やはりSF型とは別のこだわりが存在し、共感の恣意性は健在だろう。

 筆者は幽霊の類に関してもこれは同様だと考える。若者と老人ですら感覚は大きく異なるのだから、ましてや身体を失った亡霊と生きている人間が何かしらの点で共感可能とは思えない。死者と交信できたとしても、ゾッとするほどの差を感じてしまうだろう。人間の心の重要な本質に他者との共感があるとするならば、動植物や亡霊は「心」が無いのに等しい状態だと思う。

 一方、筆者が実は「心」があってもおかしくないのでは?と思うのがAIである。今はまだ未熟だが、将来完全に人間と見分けのつかないAIが存在すればそこに「心」を見出すことは可能かもしれない。確かにAIは人間の言動を学習して機械的に吐き出しているだけだという、いわゆる「中国語の部屋」論争はあるのだけど、それを言うなら我々人間の脳だって機械的な側面は強い。それに人間は架空のものに「心」を見出してきた。2次元のキャラクターに恋するオタクがいるのはそのためだ。ここまで極端ではなくても、可愛いぬいぐるみを目の前でビリビリに引き裂いたら嫌な気持ちになる人はいるだろう。AIが高度化したら、更にこの性質は強くなる。

 見方を変えれば他者だって精巧なAIのようなものかもしれない。いわゆる哲学的ゾンビである可能性だってあるわけだ。ただし、その仮定を元に人間関係を考えても、うまく行かないだろう。やはり人間は同じ人間を他者という自分と対等の存在として考えるようにデザインされているのだ。だから高度なAIは「他者」と変わることがないだろう。ドラえもんを登場人物としてカウントしてもあまり疑問を持たれないのと同じである。

Q8:心に関することを普段から考えていますか?その中で1〜7に近いテーマはありますか?

 全部のテーマについて日頃考えている。こんなテーマについて議論する機会は社会人になるとまずないので、自分の考えを好きなだけ書けるnoteは貴重な媒体である。

 筆者は元々人間中心主義的なところがあり、自然VS人間の二項対立では常に人間側に共感することが多かった。だが、最近は見方が代わり、そもそも世界というものは人間の認知を通してしか存在しないのではないかと思うようになった。確かに宇宙とか地球といった物質的な話も興味深くはあるものの、やはりnoteを見ていても多数派の人間が興味を持つのは人生や人間関係のあり方である。

まとめ

 月並みな答えでは面白くないだろうと思って、張り切って書いてしまった。疲れた。深夜テンションで書いたので、脈絡はおかしいかもしれないが、御愛嬌。

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