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「脳外科医竹田くん」の殺人行為はなぜ許されていたのか?

 以前の記事で脳外科医竹田くんについて紹介した。竹田くんとは赤穂市民病院で多数の医療事故を起こし、転院先の別の病院でも死亡事故を起こしたため、訴訟を提起されている人物である。

 このように多数の人が死亡しているのにもかかわらず、竹田くんのような人物が存在を許されてきたのはなぜなのだろうか。例えばバスの運転手が死亡事故を繰り返したら普通は廃業となってしまうだろう。しかし、竹田くんは赤穂市民病院の事件の後も医業を続けていたし、刑事訴追や医師免許剥奪には及んでいない。これは医師の特権性なのだろうか。いや、違う。それは人間の生き死にに関わるある1つの要因が関わっているのである。

 それは期待値だ。

 人間の幸福度は実のところ、期待値と実際のギャップによって成り立っていることが多い。だから人間の絶対的な地位で幸福度を図るのは難しいことになる。例えばA判定で大学に落ちるのと、D判定で大学の落ちるのでは全く痛みが異なるだろう。50代男性の幸福度が著しく低いのも、社会で最も強大な力を持っているのが50代男性であることと無関係ではないのだろう。

 バスに乗っている時は基本的に「死なないのが当たり前」ということになる。だから死亡事故が起きたら遺族は激怒するし、社会的にも厳しい制裁が加えられる。刑事訴追されることも多いだろう。

 一方で竹田くんはどうか。病院という場所は日常的に人が死ぬ場所である。最近の病院の例に漏れず、竹田くんの担当患者は高齢者が多く、認知症の人もいたようだ。認知症の高齢者が難しい病気にかかって死亡したとしても、社会的には「仕方ないよね」という扱いになり、特に注意を引くことはない。遺族の側も流石に元気いっぱいに戻って10年20年と活躍する様子を期待しているわけではないだろう。

 なお、これは「高齢者の命より若者の命の方が重要」という議論とは別物である。例えば戦争になれば多数の若者が動員され、命を落とすことになるが、このことに対する忌避感が強いとは思えない。もし忌避感を抱いていれば戦争などできないはずだ。戦争で死ぬのは当たり前だと思っているからこそ、若者は意気揚々と戦争に赴くのである。指揮官の作戦ミスで兵士数人が余計に命を落としたとしても、死亡事故を起こしたバスの運転手と同列には扱われないだろう。

 つい最近まで人間の乳児死亡率は高く、生まれた子供の半分しか成人できなかった。こうした社会では子供に関する死生観が異なっていたことは否めない。祖父母世代の話を聞いていると、戦前の日本であっても幼児が食中毒などで命を落とす頃は珍しくなかったようだ。ところが現代社会では子供は死なないのが当たり前となったため、子供が命を落とすような事態は誰もが同情する悲劇となりうるのだろう。

 これは門外漢の私の想像に過ぎないのだが、もし竹田くんが産科のような「死なないのが当たり前」の業種であれば、もっと早く問題となっていたのかもしれない。ただ社会的に80代90代の老人が死ぬのは仕方ないと思われているから、竹田くんはそこまで目立たなかった。2016年の大口病院の事件では緩和ケア病棟でやはり後期高齢者が多数殺害された事案のため、被害が拡大するまで全く気が付かれなかった。介護施設で起きる殺人も同様である。

 人間の得失の感覚は期待値で決まる。これは人命であっても同様だ。死亡率が低い場合は人命の損失は恐ろしい悲劇だ。ところが、元から死亡率が高い状態であれば1人や2人が余計に死んでも重大とは扱われない。重病人や高齢者が死亡した場合は遺族も期待値が低いため、医者に対して感謝することも多い。現代文明で死はどんどん排除されているが、例外となっているのが病院と介護施設だ。竹田くん事件はこうした特殊な環境で起こった大量死事件と言えるだろう。

 

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