特攻隊と少子高齢化
今年も8月15日がやってきた。日本人にとって忘れられない、宿命の日だろう。今日も外出先で右翼団体と思われる街宣が行われていた。というか、筆者の家の前は街宣車の通り道になっており、毎年メモリアル的な日になると必ず街宣車が家の前でなにかをわめき出すのである。そんな8月15日、筆者は久しぶりに戦争について考えてしまった。
特攻隊という狂気
さて、卓球の早田ひな選手が鹿児島の特攻資料館に行きたいと言っていたことで、話題になった。筆者も鹿児島の特攻資料館には行ったことがあるのだが、色々と興味深い展示がなされていた。戦後80年近くが経ち、戦争を知る人間はいよいよ少なくなってきた感があり、最近は戦争が昔の出来事というよりも歴史上の出来事として扱われ始めた印象である。
それにしても特攻というのは現代的な感覚では狂気の沙汰である。人権も何もあったものではない。社会的に特攻を肯定するような風潮があるのは本当に異常としか思えない。まず親が反対するだろう。自分の大切な子供が特攻に行きたいと行ったら賛成するだろうか?そうは思えない。憲兵に捕まっても良いから、どうにか回避しろと指南するのが普通だと思われる。
しかし、それでも当時の人は特攻に赴いたのだ。強制もあったかもしれないが、実のところ強制だけでは兵士の士気は維持できない。やはりある程度やる気を持って戦っていたのだろう。そうでなければ大戦末期の激しい抵抗は説明できない。昔の人はどうしてあれほどやる気があったのか。その要因として筆者が挙げたいのが人口動態である。
人口余剰と戦争
人口動態と戦争には関係性があるのではないかという議論は以前から存在した。人口余剰であれば、多少人が死んでも社会的に対してダメージがないので、人名を粗末に扱っても問題ないのではないか?というものである。
筆者は以前の記事でも戦争と人口動態について論じている。
20世紀前半のヨーロッパは血みどろの殺戮を繰り広げた。しかし、20世紀後半になるとウソのように平和な地域になった。核戦争の危機はあったとしても、大規模動員戦争が戦われることはなかった。変わってアジアで激しい戦争が行われるようになったが、冷戦終結と同時にやはり静かになっている。現在はイスラム世界で40年にわたって紛争が起き続けているが、ヨーロッパとアジアの例に則ると、そろそろ静かになってもおかしくないだろう。
さて、興味深いのは少子化傾向に向かった国で大規模動員戦争を行っている国が極めて少ないことである。ヨーロッパや東アジアは戦後に出生率が下がり、現在に至るまで紛争は皆無である。紛争地帯の中東やアフリカは未だに出生率が高い。1990年代のユーゴはまだギリギリ出生率が高かった時期だ。チェチェン紛争もチェチェン側の出生率は高かった。今のところ、少子化状態で紛争を抱えているのはコーカサスとウクライナのみである。
ウクライナ戦争を見ていると、思ったよりも動員率が低く、士気が低いのではないかと思われる。ウクライナでは数万人が戦死したとされるが、これは日露戦争よりも緩慢なペースである。徴兵忌避もかなり多いようだ。雰囲気は国家総力戦なのだが、どうにも実際に戦場に行って殺し合いをしたいという人は多くないようなのだ。これはロシア側も同様である。
一方、イスラエルはそうではない。イスラエル国防軍の徴兵忌避の話はウクライナよりも明らかに少ない。イスラエルの方が報道の自由度は高いにも関わらずである。ウクライナと比べるとイスラエルの方が士気は高いようである。同様にハマスも士気が高い。戦争の発端となった2023年10月7日の「アルアクサの洪水作戦」ではイスラエル人1200人が殺害されたが、同時に1600人のハマス戦闘員も戦死した。イスラエルと戦って死にたいという若者が溢れかえってなければ、ここまで自爆的な作戦は難しかったはずだ。
両者の違いは出生率と思われる。ロシアやウクライナの出生率は2を切っており、特にウクライナは地域でかなり少子化が深刻な部類の国である。一方、イスラエルは先進国にも関わらず出生率が3をキープしており、ガザ地区は更に高い状態である。
若者の価値・高齢者の価値
若者と高齢者には異なる価値がある。ここで重要になるのは需要と供給のバランスである。若者が多い社会は若者が供給過多となっているので、相対的に価値は低い。高齢者の多い社会は高齢者が供給過多になっているので、高齢者の価値は低い。これは経済の法則から必然的に派生してくるもので、社会規範でどうこうできる問題ではない。
日本の人口ピラミッドはツボ型、いや、キノコ型である。高齢者が溢れかえっており、価値は非常に下落している。はっきり行って「敬若社会」がやってきているのではないか。最近の日本は高齢者叩きが蔓延しているが、あの風潮は以前の「近頃の若いものは〜」的なバッシングと非常に良く似ているのである。日本では若者と老人が完全に逆転しているのではないかと思われる。一方、若者の価値は非常に高くなっている。貴重な若者の命を無駄にするなど、現代日本では考えられないだろう。
こう考えると特攻隊やその他の若者の命を犠牲にした歴史の感覚が判るかもしれない。当時の若者は現在の老人の立ち位置だったのだ。
仮に日本に敵国が攻めてきたとしよう。60代や70代の老人が子や孫を守るために進んで志願し、自爆特攻で国を守ったとしよう。現代日本社会の価値観でこれは非難されるだろうか?なんとなく、肯定されるのではないかと思われる。
長年自衛隊のパイロットとして勤務し、2人の子供と3人の孫に囲まれ、来年に定年を控えている64歳のベテランが、「最後のご奉公だ」とばかりに特攻に志願する。その目的は愛する子や孫の住む日本国を守るためである。妻は残されるが、その代わりにたっぷりと年金が出るように手配されている。老いて若い頃のような活躍はできなくなったが、どうせ死ぬのなら最後に一花咲かせて死にたい。そういった覚悟で戦地に赴くのである。
遺族は複雑な思いかもしれないが、日本社会としてそこまで「人命を粗末にしている」といった感覚は抱かないのではないか。少なくとも20代に特攻させるよりは社会的なストレスが少ないような気がする。
逆に若者余りの社会の場合は高齢者を特攻させるのはかなりの抵抗感を伴ったはずだ。50代60代に特攻させることは、むしろ国や軍に貢献した人に対する裏切り行為と映ったのではないかと思う。当時は敬老精神が強かったと思われるから、考えにくいだろう。
ゴジラとインディペンデンス・デイ
やや本題から外れるが、特攻で筆者が思い出すのが大ヒットとなったゴジラマイナスワンである。この作品は特攻崩れの主人公がテーマであり、戦争をひとり生き残ってしまったことへの罪悪感への向き合い方を描いている。現代的な目線だと若年労働力に自爆させるのは狂気の沙汰なのだが、当時はそういった人命を粗末にするのが当たり前だったのだ。最後は人命を粗末にしたことへの反省として誰一人として犠牲を出さないように作戦は遂行されている。なんとも現代的な感覚である。
一方、筆者は似たような自爆特攻で最後を締めくくった作品として印象に残った映画がある。それはインディペンデンス・デイである。この作品では地球侵略に来た宇宙人の母船に最後自爆特攻をして撃退するのだが、そのパイロットの背景はゴジラとちょっと似ている。そのキャラ(名前は覚えていない)はベトナム戦争帰りのオジサンで、同じく戦争によって心の傷を抱えており、最後は今度こそ英雄になろうと自爆特攻して宇宙人を撃退するのである。最後はオジサンに対して全員が敬礼して終わりだ。めちゃくちゃゴジラに似ている。というか、モデルにしているのか?
で、インディペンデンス・デイの方はオジサンは死亡しているのだが、日本社会の感覚として特攻隊ほど悲劇には映らないのではないかと思っている。人口動態の変化により、日本のオジサンの価値は下落しているからだ。ましてや作中のように戦争帰りでロクに仕事もしていない50代に対する見方は厳しいだろう。だったら国のために特攻してくれた方が社会のためと主張するインフルエンサーが登場しても全くおかしくないと思う。
インディペンデンス・デイはなかなか面白い映画なのだが、戦勝国のアメリカであってもベトナム帰りはなかなか厳しい立場にあるのだと考えさせられた。ランボーなど、ベトナム帰りを描いた名作映画は多い。どこの国であっても戦争に負けるというのはそういうことなのである。
まとめ
現代人の感覚ではなんで日本があれほど若者を犠牲にしたのかという疑問が湧いてくるが、その答えは人口ピラミッドにあるかもしれない。戦前の日本は若者で溢れかえっていたので、現在ほど若者の命が貴重では無かったのだ。むしろ現在の老人のように、うっすらと邪魔な存在として扱われることもあったかもしれない。
現代を見ても、イスラエルやパレスチナのように若者が多数存在する地域では若者の命は軽い。社会的な雰囲気が全く違うのではないかとも思われる。自分の子供が死んで嬉しい親はいないと思うが、それでも一人っ子をサピックスに重課金する時代と農家の次男三男がくすぶっている時代では全く死生観は違うだろう。ガザ地区では仕事の無い若者が溢れかえっており、イスラエルへの攻撃に進んで参加したいという若者には事欠かないのである。
今回は特攻がテーマだったが、筆者は日本が「敬若社会」になっていくのではないかと考えており、若者と老人の逆転現象に関しては今後も論じていきたいところである。