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<徹底考察!>五輪に誹謗中傷や炎上が多い究極的要因を探る

 今回のパリ五輪ではネット上の誹謗中傷が結構話題になったことが印象的である。例えば阿部詩選手が敗退の際に号泣したことは大きな批判を呼び、ネット上で大きな議論になっている。それ以外にも心無い中傷コメントは多かった。このような事態は五輪に特有であると考えている。今回はなぜ五輪で誹謗中傷や炎上が起きやすいのかという点を考えてみたいと思う。

五輪はマイナー競技ばかり

 まず最初に押さえておきたいのが、五輪は「アマチュア競技・マイナー競技」の祭典であるという点である。五輪で取り上げられる競技を見ていれば分かるが、多くはプロスポーツのような収益性が期待できない競技ばかりである。野球やサッカーといったプロスポーツと同様の収益を水泳や陸上が挙げられるとは思えない。それでもこの2つは競技人口がまだ多いほうだ。フェンシングとか、レスリングに至っては競技の認識すら怪しい状態である。五輪競技の多くはアマチュア競技であり、収益性はかなり疑わしいのである。

 五輪の商業化については度々批判が上がるが、そうはいっても五輪はアマチュア競技の祭典であるという基本的な性質は変わらないのだ。野球やサッカーのトップ選手が巨額の年俸を稼いでいるのに対し、五輪選手の多くは苦しい生活を強いられている。CM等で稼げる一部の選手は良いが、そうした選手の存在が「食えない」という競技の基本的性質を変えるわけではない。内村航平がプロ化した時は業界で初めてと言われたが、体操会の帝王ですらなかなかプロ化できないということである。

 それにも関わらず、五輪の注目度は高い。これは集積の利益があるからでもあり、国威発揚という要素が絡むからでもある。これは通常のスポーツイベントとはかなり様相を異ににする。これが五輪の特殊な性質を裏付けているのだ。

五輪視聴者の多くはライト層

 五輪は国威発揚が絡む極めて特殊なスポーツイベントであるため、視聴者の性質もかなり特殊である。五輪の視聴者の多くは普段その競技に関心を持っていない人物である。柔道の試合とか、フェンシングの試合をわざわざテレビで見たり、金を払って会場に行きたいというファン層はかなり少ない。ほぼ競技経験者に限られるのではないかと思われる。多数のファンを獲得している野球やサッカーに比べて、コア層は弱体なのだ。

 更にいうと、メジャースポーツのファンの多くは五輪への関心度が高くない。同時期にプロ野球が放映されていれば、そちらを見ている人間の方が多い印象である。東京大会の時ですらそうだった。スポーツファンはあくまで「競技」に関心があるので、興味の無い種目を五輪という理由で見るということはあまり盛んではない。もちろん一般の人間よりは見ているだろうが、野球やサッカーといった競技に比べて絶対的な関心は低いだろう。

 したがってマイナー競技の多くは五輪だけが突出して注目され、それ以外はほとんど関心を持たれないという状態になる。これは選手がしばしば嘆いていることである。吉田沙保里や伊調馨がメダルを取っていなければ、女子レスリングという超マイナー競技の選手を世間が知ることは無かっただろう。アマチュア競技の殆どは五輪だけが突出して世間に評価され、それ以外は閑古鳥が鳴くという様相なのである。

 五輪視聴者の多くはその時だけ競技を見る「にわか」とも言えるだろう。五輪競技は浅く広く関心を持たれることが多い。野球やサッカーのような分厚いファン層を持たないため、少数の競技関係者と大多数のライト層という2極化した分布になりがちである。スピードスケートの金メダリストである高木菜那いわく、メダルを取って一番変わることはテレビに呼ばれることだという。業界内での評価の上がり幅よりも、世間一般での評価の上がり幅の方が圧倒的に大きいということである。

 アマチュア競技という特殊性により、国威発揚的な要素が絡んでくるのも特徴だ。こうなると、スポーツに普段興味が無い層であっても五輪関係の言論には参加してくることが多い。東京五輪について政治的に批判したり、フランスの人種差別について論じたり、メダル数で国家のパワーを評価したりといった具合である。政治家やインテリ層による言及も目立つ。普段スポーツに関心がなかったり、嫌っている人間であっても、東京五輪関係の不祥事や資金問題への関心は強いといった事態は多数目撃した。こうした見方は通常のスポーツファンからするとかなり異様となるだろう。プロスポーツの多くが自力で収益化できる「民間」の存在であるのに対し、五輪は公的支援がなければ活動が難しい「公共」の存在であり、本質的に政治性をはらむと言えるだろう。

ライト層による誹謗中傷

 五輪に関して誹謗中傷を繰り返している人間の多くはライト層であると思われる。普段その競技に関心を持っているわけでもなければ、競技経験があるわけでもないが、ニュースで取り上げられているため、メダリストの存在を認知しているといった人々である。

 なぜそう言えるかというと、誹謗中傷の多くがその競技の業界的な慣行から外れていることが多いからだ。野球やサッカーのようなプロスポーツ出会っても誹謗中傷は多い。ただし、その多くは打てない選手にヤジを飛ばしたり、監督の采配を批判するといった具合である。ここで重要なのは業界での価値観と世間での価値観はズレうるということだ。例えば斎藤佑樹は野球の関係者やファンといった「業界」ではひどい評価だが、未だに野球に強い関心を持たない「世間」ではそこまで忌み嫌われていない。人間の評価は業界内と業界外で食い違いうるのである。

 メダルを取るような選手の多くはその業界内で大変な尊敬をされていることが多い。仮にメダルを取れなかったとしても、業界内で絶対的な立ち位置にいることがほとんどだ。したがって、競技のファン層が五輪代表を叩く可能性は低い。仮に叩いたとしても、その文脈は業界の価値観に沿ったものとなるはずだ。

 ところが五輪関係の誹謗中傷や炎上は全く違った観点から来るものだ。水谷隼選手が東京五輪の際に誹謗中傷の被害を訴えたが、史上初の金メダルを獲得した水谷選手に殺害予告を送るのはどう考えても卓球界の価値観からは反するだろう。スポーツ界の価値観の沿った中傷は「銀メダルなのに喜ぶな」といったものになりそうである。この誹謗中傷はおそらく卓球界の外の何者かによって送られたものだろう。

 政治性や国籍ネタの絡んだ騒動もスポーツ界の価値観からは異質だ。例えば今回の柔道のルーレットはフランスに有利な形で行われたのではないかといった騒動があったが、このようなルールや審判を疑うような態度はスポーツ界では好まれないことが多い。シドニー五輪の篠原信一が「弱かったから負けた、それまでです」といったように、スポーツ界は潔さが強く求められる傾向にある。この点、五輪の場合はライト層が多く、普段スポーツに興味はないが、政治ネタは好きという層も絡んでくるため、この手の政治性を絡めたネタは尽きないのだ。宮田選手の出場辞退事件に関しても議論好きのインフルエンサーが多数言及したが、彼らの多くは体操競技はおろか、スポーツにすら関心がない可能性が高い。

 というわけで、五輪に関する誹謗中傷や炎上はその競技のファンではないライト層によって行われている可能性が高い。日頃の鬱憤を誰でもいいから目立っている人間にぶつけたいのだろう。現代日本において「ただ目立つこと」は多大なリスクをはらむものとなっている。

五輪はどうあるべきか?

 というわけで、五輪に誹謗中傷や炎上が起こりやすい原因は五輪に関心を持つ人々が普通のスポーツイベントとかけ離れているから、というのが理由ではないかと筆者は考えている。これはアマチュア競技かつ国家的関与が必要とされるという五輪の性質から必然的に生じるものだ。アマチュア競技の多くはファン層が少ないため、五輪という形でライト層に関心を持ってもらう他に無い。五輪のメダルだけが競技にスポットライトを当てる唯一の機会という競技も少なくないのである。

 筆者の持論ではあるが、人間の評価は「コミュニティ内部での評価」「業界での評価」「世間一般での評価」という三段階があると考えている。五輪の場合は世間一般での評価が突出して高いという異質なイベントとなっている。マイナー競技であっても五輪でメダルを取った瞬間に国家的英雄になるし、CMに出演したりテレビのコメンテーターになることも可能になるのだ。これらは全て評価が「世間一般」にフォーカスしたものである。

 したがって、五輪に関する誹謗中傷や炎上は良くも悪くも芸能人に近いものになる。普段何やっているか知らないが、メディアで良く取り上げられるので、顔と名前は知っているという状態である。このような立場の人間はここ最近のSNS社会において誹謗中傷のリスクにさらされる可能性が極めて高い。

 じゃあ五輪はどうするべきかという話なのだが、現行の状態を続ける以外の方策は乏しいだろう。マイナー競技の多くは五輪以外に注目が殆ど当たらないため、五輪でいかにメダルを取って注目されるかが生命線となる。したがって、誹謗中傷のリスクを負ってでも、発信を続けていくしか無いだろう。

 目立っていることがリスクになるという点は、五輪に限らず世間一般で今後も続く可能性が高い。もはや「世間一般で評価されること」に大した価値がない時代になっていくのではないか。以前は「有名になりたい」という願望が上昇志向の一つのパターンになっていたが、現在は有名になる人物はむしろ、その業界で出世できずに開き直った人や、普通のキャリアからドロップアウトした人物になっている。例えば「元〇〇商事」を売りにしているインフルエンサーがいたとして、その人は間違いなく会社をドロップアウトした人間である。会社で出世している人間は間違いなく世間での知名度が上がることはないだろう。世間一般の評価よりも業界内部や会社の同僚から評価されることの方が重要なのである。

 


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