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<MBTI>イエス・キリストINFJ説は本当なのか?

 大好評のMBTIシリーズだが、今回は人類史上最も崇拝された男、イエス・キリストについて考えてみたいと思う。一般的にイエスの性格タイプはINFJと言われる。INFJの教祖イメージは多くがイエスに由来しているのではないかとも思う。しかし、肝心なイエスの人物像はあまりにも後世に脚色されているため、曖昧なままだ。今回はMBTIの観点からイエス・キリストという人物(あるいは神)について考察してみよう。

 筆者の視点は一般的なキリスト教の観点からは逸脱しているし、オリジナリティは高いと思う。しかし、イエス・キリストの人間性(あるいは神性)について考えることで2000年前の真実がおぼろげながら浮かび上がるのではないかと思っている。

 キリスト教の熱心な信者の方がいれば、世迷い言と思って直ちにUターンして欲しい。そもそもイブリースというアカウント名は神の名を語るのにふさわしいネーミングではない。

そもそも人間なのか?神なのか?

 この議論を行うにはそもそもイエス・キリストとは何かという根本的な疑問について解決しなければならない。イエスが神か人間かという議論はキリスト教の成立当初から始まっていたし、今でもキリスト教の根幹を占めるドグマである。

 イエスと言う人間は2000年前に生きていたとされるユダヤ教徒の男性である。その正体は謎に包まれていて、実際はどのような人物だったのか確かめるすべはない。イエスの人物像は現在まで伝わるキリスト教の記述しかソースが存在しないのだ。

 一方、イエスの諸々の記述を鵜呑みにするわけにも行かない。神としての性質が強調されすぎているからだ。全知全能の万能の神、これではMBTI考察などできるわけがない。それは我々が捉えることも理解することもできない天上の領域である。

 ここが重要な点なのだが、イエス・キリストとは完全な神というわけでもない。十字架の上で苦しむイエスの姿はまるで人間のようだ。イエスは人間としての苦しみを味わい、だからこそ後世の人間が苦しみに共感できるのだ。イエスが万能の神であれば十字架刑は意味を持たないだろう。ここにイエスの本質を巡る神学論争が巻き起こる。アタナシウス派はこれを三位一体論で解釈した。イエスは人間かつ神であるということだ。

キャラクターとしてのイエス

 現在まで伝わるイエスは実在人物としてのイエスでもなければ、神としてのイエスでもない。その性質を決定するのなら、おそらく現存の聖書の記述から垣間見え、長年にわたって存在してきたキャラクターとしてのイエスである。結局人間か神か曖昧な存在になってしまったが、この二重性こそがキリストの本質なのかもしれない。

 キリストの正体については様々な論争がなされている。そこについて議論をしてもよいのだが、長くなるので割愛する。我々の知っているキリストはもはや2000年前にナザレにいたイエスという男性ではなく、西洋の文化を通して二重三重にキャラクター性を付与されたイエス・キリストである。西洋の絵画や哲学を触れるうえではどうしてもキリストへの知識は必要になる。聖書の中には後の芸術作品の元ネタとなった逸話があれこれ転がっている。

 キャラクターとしてのイエス・キリストはINFJの権化である。人の罪をともに感じ、自らそれを背負うという自己犠牲精神はINFJ特有である。ESFJやISFJも確かに自己犠牲精神はあるのだが、あくまで日常の親切といった間合いである。以前の記事で書いたマルタとマリアの逸話がまさに当てはまる。マルタは料理を作ってイエスをもてなしたが、マリアはじっとイエスの耳に声を傾けたのだ。 そしてイエスが評価したのは後者である。

 何より、原罪思想がINFJの価値観に親和性が高い。筆者の印象論ではあるが、INFJはどうにも自己肯定感が低く、自罰的な人間が多いように思える。ISFJと比べるとその次元がかなり抽象的な領域にまたがっている。INFJの漠然とした人生の悩みは原罪思想とかなり関係が強いのではないか。INFJという人種の苦悩を言語化すると原罪思想になるのではないか。筆者はそう感じる時がある。

 しかし、これはあくまで後世の記述によって大いに脚色されたイエスである。本当のイエスはどのような人物だったのだろうか。それを探る手がかりはあるだろうか。

マルコによる福音書の記述

 筆者はイエスの実像をあぶり出す上で頼りになるソースはたった一つしか無いと考えている。それはマルコによる福音書である。

 4つの福音書の中でも最短のこの文書はイエスの実像を最も的確に炙り出している可能性が高い。伝統的に最も権威が高いとされていたのはマタイによる福音書だが、筆者はマルコのほうが信頼性が高いと考えている。

 まず現在に伝わる新約聖書の記述の多くは使徒パウロやその他の初期の信者によって書かれた伝聞である。その多くは誇張されていたり、付け足されている可能性が高い。イエスの死後半世紀近くが経ち、新たなエピソードがローマ人によって掘り起こされることはあまりにも考えにくい。パウロは生前のイエスに会ったことすら無かったのだ。

 やはり立ち返るべきは福音書の記述である。この中で真っ先に疑うべきはヨハネによる福音書である。この福音書は残りの3つとは明らかに源流が異なっており、イエスの死後かなりの時間が立ってから執筆されたと思われる。内容はどうにも誇張が多いような印象を受ける。残りの3つの福音書のうち、ルカとマタイはある程度の信頼度があるものの、個別のエピソードに限られるのではないか。ルカとマタイの冒頭を読んでみると、イエスの誕生秘話が長々と書いてある。これらが実際にあったとは思えない。東方の三博士や、長々と書いてあるイエスの家系図は付け足しだろう。イエスどころかマリアの誕生秘話すら書いてあるが、聖書の中にマリアの具体的な記述が皆無であることを考えると、明らかに怪しい。

 筆者が拠り所にできると考えるのはマルコによる福音書のみだ。この福音書には誇張らしきものは少なく、実際のイエスの行状を素直に記載しているのではないかと考えられるからである。おそらく共観福音書の源流となったQ文書はマルコによる福音書と並立する存在になっていて、マタイやルカの福音書はQ文書を脚色して受け継がれているものと思われる。マルコ⇒マタイ⇒ルカ⇒ヨハネの順番に福音書を読むと、イエスの逸話が少しづつ脚色されていくさまを感じることができるだろう。

 いずれにしても一世紀の出来事を今から再検証するのは不可能であるので、マルコに関しては「そういうもの」として受け入れることにする。

人間としてのイエス

 マルコによる福音書を読んだ感想だが、イエスは実在した人間だと思う。イエスが架空の人物だったという説もあるが、だとすれば架空の人物の処刑話をキリスト教徒は長年にわたって捏造したということになる。筆者はそうは思わない。やはりイエスは実在した人物で、実際にローマ帝国によって処刑され、人々の心に焼き付いたのだ。そのインパクトは大きかった。だからこそ初期キリスト教は宗教として広まったのだろう。

 それに、マルコによる福音書で描かれるイエスは架空の人物にしては妙に現実味があるのである。もし架空の人物であればヨハネによる福音書のように脚色された人物像だったはずだ。しかし、マルコによる福音書は証言集のように淡々としていて、教義に関係ないディテールもある。だから、本当にそのような人間がいたとしか思えないのである。

 例えばイエスが故郷の村に帰ると彼を幼少期から知っていた村人は「あれ?大工のイエスじゃないの?」と話しかけ、イエスの説法を滑稽だと取ったようだ。イエスは「預言者は自分の故郷では敬われない」と弁解し、あまり奇蹟を行わず、そそくさと故郷を去った。信者の方には怒られるかもしれないが、筆者の頭の中には佐村河内守やショーンKといった人物が思い浮かぶ。捏造の人物にしてはあまりにもリアルではないか!

 マタイによる福音書でもこのエピソードは収録されているが、村人の不信心を戒める一文が追加されており、やはり脚色を感じさせる。

 イエスの行動を見ていると、どうにもパレスチナの周辺を回って霊媒師のようなことをしていたようである。イエスが悪霊を払うと途端に体調が回復するといった記述が多い。こういう宗教は現在も結構ある。近代医学など存在しなかったから、当時は宗教にすがるしかなかっただろう。

 イエスの特徴はとにかく例え話が多いところである。その一つ一つが結構言いえて妙だったため、何年も経って覚えている人が多かったのだろう。イエスがN型であることはほぼ確実だと思われる。

 残りの3つの性格軸に関しては実はあまり確かなことは言えない。イエスは逮捕以降はほとんど弁解をしていない辺りを考えると、NT型では無かったのではないかと思う。以前のオウム真理教の記事を振り返っても、NT型は裁判で自己保身に走るか、少なくとも自説を断固主張する傾向があるからだ。イエスがENTPだとすれば、もっと政治的主張がはっきりした人物なのではないかと思う。また、イエスは隣人愛を常に説いていたし、政治に距離をおいている。このあたりもNT型というよりはNF型の特性に近いように思える。

 言い切り型の表現が多いことや、ペテロに比べれば明らかにJ型に寄っている辺りを考えると、J型と言っても良いかもしれない。だが、その場その場で調子の良いことを言っていた可能性もある。P型でも違和感はない。イエスの実際の活動は霊媒師に近い印象もあり、ENFPといっても通用するような気がする。ただその割には静かかもしれない。確実なことは何も言えない。

 ただ、大まかな当たりを付けることはできる。ナザレのイエスの性格タイプはENFPあるいはENFJだったのではないか。人前に立ちたがり、いろいろな例え話で場を沸かせ、人として結構好かれていたのだろう。同じ処刑された宗教家でも、権力欲と独善が目立った麻原彰晃とは人望があまりにも違っていた。

 2000年前に生きていたイエスは、当初は霊媒師のような活動を通して病に悩める人間に癒やしを与えていた。しかし、次第にどんどん弟子が付くようになり、あまりにも目立ってしまった。そしてユダヤ教司祭の逆鱗に触れた。

 イエスはちょっと胡散臭いところがあったかもしれないが、それでも十字架刑に掛けられるほど悪い人物ではなかった。ENFPやENFJといったタイプを思い浮かべれば想像しやすい。だから彼が十字架で残酷な死を遂げたとすれば、信者はもちろん、周囲の人間もトラウマだ。信じたく無かったに違いない。それこそがすべての始まりだったのだ。

2000年前の神へ

 ここからは全て筆者の妄想であり、何の根拠もない。異端の論説である。

 マルコによる福音書は妙に細部にリアリティがあり、イエスその人の伝承をある程度伝えている可能性が高い。筆者はそう考えている。だから、マルコによる福音書の記述から当時のイエスを取り巻く人間模様を探ることもできる。

 先ほど述べたように、イエスの磔刑はかなりのショッキングな出来事だっただろう。だから周囲の人たちはイエスの死を受け入れられなかった。きっとイエスのことだから、突然ひょっこり返ってくるに違いない。残された人々はそう信じたかったはずだ。

 キリスト教の教義の中心にキリストの復活がある。最重要の奇蹟だ。キリストは死の3日後に復活し、40日間にわたって地上に滞在し、そして天に召された。合計43日間だ。仏教の四十九日に近い。おそらくこの期間は残されたものが個人の死に折り合いを付ける期間なのだろう。

 マタイやルカの福音書では復活したイエスの具体的な描写がある。その雰囲気は明らかに生前のものとは異なっている。例えるならば、竹取物語のかぐや姫が天女の羽衣を来た途端に冷淡になった描写に近いものを感じてしまう。あまりにも人間離れしている。イエスは既にこの世の存在ではないということだろう。

 興味深いことに、マルコによる福音書には復活したキリストの具体的な描写はない。他の福音書においても、これほどの異常事態が起こっているのに、どこか復活したイエスの描写は淡白だ。このことから伺われるのは、キリストの復活が伝説であるということである。イエスが復活したという噂が存在し、そこから尾ひれがついて焼き魚を食べた等の逸話が創作されたのだ。

 マルコによる福音書の結末は短い。磔刑に処されたキリストは十字架から降ろされ、その亡骸はヨセフという老人によって引き取られ、埋葬されることになった。キリストの死を見届けていたマグダラのマリアと女たちはイエスの体にオイルを塗るつもりだった。数日経ってイエスの墓に行ってみると、なぜか墓石が転がされていて、イエスの死体が消えていた。近くに謎の青年が立っており、イエスが復活し、もうここにはいないという旨を告げた。女たちは恐ろしくなり、急いでその場から逃げ出した。

 復活の関する福音書の記述は実はこのようなものだった。イエスに関する具体的な描写はない。それどころかホラーのような雰囲気である。なぜかイエスの墓から死体が消えていた。だから復活したはずだということだ。謎の青年の正体は天使とされるが、実際のところは良くわからない。有名人の生存説を見てみると、死体が発見されない場合に顕著である。

 筆者の個人的推察だが、伝説の震源地はマグダラのマリアである。勘違いなのか墓泥棒なのか、とにかくイエスの遺体は墓石の下には存在しなかった。パニックに陥った彼女はイエスの墓の近くで青年を見たような気がした。周囲の女たちがそれを信じ、信徒の間で噂になった。キリストが復活したという伝説は、キリストの死を信じたくなかった人々に訴えかける力を持っていた。そこにパウロという天才的伝道師が現れた。パウロの手によってキリスト教となったイエスの伝説は爆発的に拡大し、ローマ帝国も揺るがす大勢力になり、史上最大の世界宗教が生まれた。これが真相ではないか。

 筆者はマグダラのマリアを娼婦とも思わなければ、イエスの妻とも思わない。ベタニアのマリアと同一かもわからない。おそらく当時の女性信者の中で比較的目立っていた人物だったのだろう。そのマグダラのマリアが言い始めた噂話が発端だったのではないか。磔刑に比べれば些細なことに思えるキリストの復活が、キリスト教で最重要とされているのは、マグダラのマリアの言い始めた復活の噂話が、実際にキリスト教の原点になったからではないか。筆者にはそう思えてならない。


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