子供の頃の習いごとを振り返る
最近は子供の頃を思い出して感傷的になることがある。小学生の時は結構色々な習い事に手を出した。それらの思い出とメリットデメリットを考えてみたいと思う。
水泳
最重要の習い事である。筆者はバタ足のセンスがなく、しぶきが立ってばかりで、ちっとも前に進まなかった。クロールは溺れそうなくらいであった。背泳ぎになってからはマシになった。クロールは未だにダメだ。ただ平泳ぎだけは人並みに泳げるので、困ったことはない。
筆者の水泳は全然うまくなかったし、下から数えたほうが早いと思う。そもそも水泳自体あまり好きではなかった。しかし、水泳の大事な点は「下手でも意味がある」ということである。人生のいつどこで水中に入るか判ったものではない。いざとなった時に水泳ができないと一気に死亡率が上昇する。昭和の紫雲丸事故では女児が多数犠牲になったという(男児は川遊びで泳ぎを習得している者が多かった)。こうした悲惨な事故がきっかけで小中学生の水泳は必須カリキュラムとなったのだ。
ピアノ
多分一番真面目にやっていた習い事である。一般論では男子はあまりピアノを習わないとされていたのだが、超進学校の同級生はピアノが引ける人間が異常に多かった。親が音大卒でピアノ教室をやっているという者もいた。学年の半分弱はピアノか何かしらの楽器を経験していたのではないか。
筆者もそこそこは習得したほうだと思う。バッハが好きな先生に習っていたため、インベンション・シンフォニア辺りはだいたい弾いたことがある。すべての音階で楽曲を作るという発想が筆者にとっては面白かった。一方、黒鍵の譜読みが面倒という理由でショパンはあまりやる気が起きなかった。誰に通じるのかは不明だが、ショパンは私立大の入試問題、バッハは国立大の入試問題のような雰囲気がある。やはりシンプルなのは良い。クラシック音楽の原点にして頂点は未だにパッヘルベルのカノンである。
筆者の心残りなのは幻想即興曲を練習しようとしたまさにその時に受験やら何やらで忙しくなってしまい、未完になっていることである。あれほど「映える」曲はない。子犬のワルツなら未だに弾けるが、「映え」では一弾劣るし、筆者自身が手が小さく打鍵ミスが多いので、技量がバレてしまう。
筆者は受験が忙しくてピアノを辞めたということにしているのだが、これは誤魔化しである。本当の理由は超進学校の同級生があまりに上手過ぎて、自身を失ってしまったからだ。それ以降、人前でピアノ演奏したことはない。芸術系は見上げれば果てしなく上がいるし、勉強に比べて辛口評論文化があるから、挫折者は多いだろう。合格最低点さえ取れば許される受験のほうが楽だ。
サッカー
黒歴史である。筆者は間違えて地元の少年サッカーチームに入ってしまい、色々大変だったことがある。ボールをドリブルしたり、トラップしたり、全然ついていけなかった。こればかりは生まれながらの才能の問題があると思う。筆者はもともとスポーツは苦手だが、サッカーは特に苦手な部類だった。まだ柔道とか体操のほうがセンスがあったのではないかと思う。
唯一役に立ったことがあるとすれば、陽キャや体育会系の生態を若干は学べたことである。これらは人間観察系の記事を書くうえで役に立っている。集団競技のプレイヤーを見ていると、致命的にやばい人間はあまりいないように思える。筆者が人生で見た危険人物はだいたい個人競技を好んでいた。
余談だが、そのチームに筆者と同じくらい下手なやつがいて、結構親近感を感じていた。時は流れ、某進学塾の最上位クラスでそいつの姿を見て、ちょっと安心したことがある。
卓球
習い事というより部活なのだが、中学校で何か運動部に入らないといけないと思い、入った部活である。構成員はガリ勉系が多く、筆者としては安心であった。ただ、筆者はあまりセンスを感じなかった。世間体のために所属していた部活である。
あの時真面目に練習を頑張っていた同級生は医科歯科や横市医辺りに進学して医者になっていたので、医学部の部活文化との親和性はあるのだろう。
テニス
一時期習っていたことがある。全くダメというわけではないが、やはりセンスは感じなかった。球技系は全般的に苦手なようである。周囲の男子がどんどん上手くなっていって、恥ずかしくなって辞めた。テニス教室で良く話していた相手を高校時代に見かけたのだが、その時初めて歳下だったことを知った。
バイオリン
一瞬だけ習っていたことがあるが、ピアノを既にやっていて、余裕がなかったので辞めた。あまり記憶がない。バイオリンを習っていた同級生はギターにも汎用性があるようで羨ましい。
余談だが、ピアノやバイオリンは幼少期から教育熱心な家庭で仕込まれるものというイメージがあるのに対し、ギターやバンドはむしろ思春期の自立した自我というイメージが有る。この違いを作り出しているものは何なんだろうか。
苦悶式
未だにトラウマになる習い事である。近所の苦悶式の教室に通っていたのだが、ひたすら計算問題が続き、本当にしんどかった。一年ちょっと続いただけでも自分を褒めてあげたいくらいである。周りの同級生はどんどん進んでいくのに、自分はいつまでも四則演算で停滞していて、自分は勉強ができないという劣等感を抱いていた。ただ、勉強が難しくなってくるとだんだんと周りを追い抜くようになり、中学生になると大差が付いていた。思考力当武器が使えるようになった途端、見える景色がずいぶんと違ってきた。
ただ、こうした基礎的な計算力の積み重ねが後々大きな差になることも事実で、筆者は処理能力の低さが足を引っ張っていた。難関校は思考力重視なので誤魔化しが効いたが、どうにもならなかったのはセンター試験である。2次試験のほうが点数が高かった。理科三類に合格するような生徒はこういうところに抜かりがないのだろう。
実は子供の頃の習い事の中で一番社会人の書類仕事に近いのは苦悶式なのではないかと思っている。実際、ブルシットジョブに関して「苦悶式を思い出す」と言っていた人もいた。思考力を要さない単純処理を毎日長期間ミスなく続ける。これこそが社会人に必要なスキルなのだろう。むしろ思考力重視の難関校の試験のほうが特殊で潰しが効かないのかもしれない。
習い事と社会適合度
親が子供に習い事をさせるのは、自分の適性を見極めたり、社会生活上の適合度を考えたりするためだと思う。筆者の子供時代を振り返ってみると、習い事で特に大きな挫折はしなかったというのが実情だ。最も苦手意識が強かったのはサッカーだったが、小学校の同級生の半分くらいはセンスがなかったと思うから、そこまで気にしていなかった。人間関係でトラブったということも無かった。
正直、当時の筆者はあまり社会不適合的な要素が顕在化していなかったというのが実情である。勉強にせよ、スポーツにせよ、芸術にせよ、メイン層は子供だ。大人になってからも続けているプロは一握りで、99.9%はどこかの段階で挫折してサラリーマンの世界に入っていく。そこで求められる能力はまた違ったものだ。ビジネスセンスにせよ、根回しの能力にせよ、ブルシットジョブの処理力にせよ、子供が打ち込む「競技」的なものではなかなか適性を図ることはできないのではないかと思う。部活適性と社会人適性の強さは良く指摘されるが、これは部活の価値が競技それ自体ではないということだろう。