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「東大合格は才能・努力・環境のどれなのか問題」に決着を付けよう

 度々ネット上で議論の対象となるのが「東大合格は才能・努力・環境のそれなのか」というものがある。この手の話題は昔から幾度となく繰り返されており、毎回議論が紛糾して終わる。それぞれの意見を主張する人にはそれぞれの価値観があり、多かれ少なかれ説得力がある。

 先日、東大卒アイドルの「なつぴなつ」さんがこんなツイートをして炎上したようだ。

 典型的な努力至上主義論であり、当然、色々と議論を呼ぶこととなった。このテーマの紛糾のパターンはある程度決まっており、その人の倫理観によって多様な評価がなされるのがなんとも興味深い。

 社会的成功と才能・努力・環境の関係については複雑極まりない議論がされてきたので、到底私の手には負えない。ロールズやサンデルの本を読んだこともあったが、国によっても事情が違うし、政治的信条によっても議論が異なる。今回は東大合格という点に絞って考えを述べたいと思う。なお、東大合格と社会的成功は無関係ではないが、本質的に別のものである。

東大に合格するための条件

 東大に合格するために必要な要素は才能・努力・環境のどれだろうか。

 結論から先に言ってしまおう。「全部」である。どれか一つが欠けてもダメだ。東大に合格するのに必要な英語・数学・理科の関係に等しい。「東大は英語が全てだ」とか「数学を捨てても東大は受かる」という言説が間違っているのと同じで、才能・努力・環境のどれか一つが致命的にマイナスだと東大は合格できない。一つ苦手な要素があっても他で補うことは可能だが、バランスが悪すぎたり、全体的に低すぎれば合格は不可能だ。

(ちなみに数学0点で東大に合格した大宮エリーさんという方がいたのだが、良い受験生のみんなは絶対にマネをしないように!!)

才能だけでは受からない

 まず才能に恵まれた群を見てみよう。中学受験で開成や灘に合格するような生徒は基本的に才能に恵まれていると考えて良い。あれほど難しい問題を普通の人が時間内に解き切るのは不可能だ。東大生ですら大半は開成や灘に落ちているか、受けられる水準に達していない。彼らは天才だと考えて良いだろう。

 ところが、大学受験の段階になると、彼らの天才ぶりは見る影もなくなる。開成や灘であっても現役で東大に受かるのは半分だ。残り半分は中高6年間で勉強を怠ったため、東大には合格できない。浪人しても手が届かない人も多い。こうした「深海魚」問題は私立中高の関係者には良く知られていることだ。開成や灘から東大に進学している人間は、結局鉄緑会などでしっかりカリキュラムをこなしていることが多い。一方で、中学受験で難関校に全く手の届かない人間が現役で東大にボコボコ合格する。才能だけでは限界があることは明らかだ。

努力だけでは受からない

 努力だけは取り柄という人間もいる。努力さえ怠らなければ東大には合格するのだろうか。結論から言うとNOだ。東大の合格者は有名進学校の生徒ばかりだ。灘や開成ばかりに注目が集まるが、地方の方が偏りが酷いと思う。岐阜出身の東大生は決まって岐阜高校の出身だったし、岡山県出身の東大生は決まって岡山朝日高校の出身だった。大学入試の前の段階ですでに地頭で頭角を表している生徒でないと東大は無理だ。

 努力に恵まれた群を考えてみよう。旧司法試験は「現代の科挙」と言われる異常な難易度だった。5年10年と浪人を続けるのは当たり前の世界だ。この試験に合格した人間は例外なく努力家だと言える。実際に旧司法試験の合格者の勉強量は東大受験などとは比べ物にならないだろう。

 ところが旧司法試験の合格者を見てみると、中央大を筆頭に、早稲田や慶応など、私大文系の人間が多い。これほどの努力ができる人間が、なぜ東大法学部に行けなかったのか。単純に興味が無かったのかもしれないが、それだけではないだろう。数学が苦手だったとか、中高生の時に親が教育に無関心だったとか、色々理由はあるだろうが、努力だけでは受からないのは明らかだ。

環境だけでは受からない

 最後に環境に恵まれた群を見てみよう。受験の中で最も環境が物を言うのは小学校受験だ。小学校から私立に行ける子供は例外なく親が裕福で、教育に関心が高い家庭だろう。中にはべらぼうに学費が高い学校もある。こうした家庭はその気になれば小さい頃から家庭教師を付けて英才教育することは可能だし、実際にそうした家庭は多いだろう。

 ところが小学校受験の名門校、例えば暁星とか雙葉といった学校から東大に行く人間は多くない。小学校受験組はせいぜい数人だろう。環境が整っていても受からない人の方がほとんどなのだ。国立附属の場合は更にえげつない。成績が規定を満たさない場合は中学校や高校への内部進学ができずに放り出されてしまう。中学校に上がって勉強が難しくなると、残酷なまでに成績の格差が出てくる。親が裕福で、子供を手塩に掛けて育てても、勉強ができない生徒は沢山存在するのだ。

 とは言え、東大は受からなくても問題のない大学なのでマシだ。この構図がクローズアップされるのは私大医学部だろう。親が巨万の富を持っていても医学部に受からない子供がいる。こうした家庭は地獄のようだ。親は子供をなんとしても医学部に入れたくて子供に投資するが、本人は才能か努力かその両方が及ばずに、医学部に受からない。そして自分の病院を継がせるという夢は雲散霧消する。

理科三類というスーパーマン

 共通テストと同じで、上位に行けば行くほどバランスが大事になる。学歴社会の頂点に君臨する東京大学理科三類に合格するような人間は、例外なくこの3つが高い位置で揃っている。

 東大理三の合格者をまとめた理三本を読んでみれば分かる。まず親の職業は医師が多く、残りは大半が高級サラリーマンだ。彼らは私立中高一貫校の出身ばかりだ。環境的に優れていることは明らかだ。そしてその多くは灘・開成・筑駒・桜蔭といった超難関校の生徒である。こうした環境と素質に恵まれた生徒が鉄緑会に6年間通うことによって始めて東大理三に合格することができる。理三生の努力家ぶりは入ってからの駒場の点数を見れば分かる。理一や理二の平均点よりも遥かに高い。やっぱり彼らは全て揃っているのである。

 理三に合格するために必要な三要素はどれくらいか。才能・努力・環境が全て上位5%に入っていれば、日本人の上位0.01%に入ることになる。従って、理論の上では東大理三に合格できるだろう。上位5%といえば普通の公立小のクラスで一番か二番だ。上位であることには変わりがないが、天才かと言われると微妙だと思う。「理三は環境が良ければ普通の人でも受かる」と理三の人が主張するのは感覚として分からんではない。(なお、確率の独立云々と言った話は無視する)

 以前、努力に努力を重ねて五浪で東大に合格した阿修羅さんという人がいた。この人の粘り強さは本当にすごいし、大学受験に関してはマスターだと思う。ただ、普通の理三合格者よりも努力の比重は大きいかもしれないが、それでも人並み以上に才能と環境に恵まれたことは間違いない。

 まず私立中高に通って5年も浪人が許される時点で環境的にかなり恵まれている。それにこの人は広島県トップの広島学院の出身だし、一浪の時に東大理一にギリ受かる点数を取っている。何もしなければ阿修羅さんは「普通の東大生」だっただろう。阿修羅さんの「努力で合格した」という物語は、普通の東大生目線では正しい言説なのだが、世間一般から見れば阿修羅さんは十分に天才の部類なのだ。(余談だが、阿修羅さんが教授になったら「財前五浪」になるのかな)

「努力中心主義」という一見優しい社会

 才能・努力・環境、本当は全て大切だ。ところが、特定の要素だけを取り出して絶対視する人がいる。彼らの心理的背景を考えてみよう。

 環境で全てが決まる世界があるとすれば、それはきっと残酷だろう。中世の封建制身分社会と何も変わらないからだ。貴族に生まれた人間は貴族になり、貧農の生まれた人間はどう頑張っても貧農のままだ。安定こそしているが、閉塞感が覆い尽くしている。この社会に希望はないだろう。

 才能で全てが決まる世界も同様に残酷だ。環境と比べてわかりにくいだけで、実質的に身分社会と変わらないからだ。しばしば国民のDNAを分析し、新たな身分制社会を作るというディストピア作品が登場する。非合理な考えではないが、読者の多くはこれを暗黒時代と考えることが多いだろう。「親ガチャ」が「遺伝子ガチャ」に変わっただけだ。

 これに対して努力で全てが決まる社会は優しい世界に思える。まず、才能や環境に関わらず全ての人間に成功の道が開かれているという世界観は、人々に希望をもたらす。「ウジウジしてないで頑張ろう」という気にさせるのである。例えばさんきゅう倉田さんという芸人は日大に内部進学で入った「低偏差値」にも関わらず、一念発起して38歳で東大に合格した。こうした姿を見て「自分も東大に合格できるかもしれない」とか、「38歳の自分もリスキリングしてみよう」とか、色々な活力が湧いてくるのだ。

 人生の幸福感において重要なのは「コントロールできること」だという。自分で運転できる自動車よりも、他人が運転する飛行機を危険視する人が多いのはこのためだ。飛行機を運転するのがプロであるという事実を示しても、心のクセは変わらない。努力は才能や環境に比べてコントロールしやすいと考えられているので、精神衛生上もプラスとされることが多い。

 努力中心主義はある種の公平感も生み出す。なぜならこの世界ではノーブレス・オブリージュが機能しているからだ。上位者はそれなりに辛い思いをする一方で下位者は相応の楽をしている。例えば早慶辺りの大学の女性は総合職を選ぶ者と一般職を選ぶ者に分かれる。ここは選択の問題だ。総合職は給料が高いが、非常にハードだ。一般職は楽だが、給料は安く、役職も低い。お互いが自分の価値観で進路を選択し、信じる道を行く。総合職の女性と一般職の女性で大きな差が付いたとしても、一般職の女性はきっと納得するだろう。

「上位者は上位者で大変だよね」という認識は公平感を生み、納得に繋がる。組織だってそうだ。上に立つ人間の責任は重く、部下の前で弱音を吐くことはできないだろう。優れたリーダーは誰よりも率先して頑張る人間であり、一兵卒よりも重いものを背負っている。だからこそ、部下はリーダーを尊敬するし、喜んで指示に従うようになる。

「努力教信者」という倒錯

 ところが、実際の努力至上主義者はそこまで優しい人間ではないケースがある。努力中心の世界観が倒錯して使われている場合だ。この世界観の場合、成功者は全て努力した人間であり、失敗者は努力を怠った人間ということになる。失敗者の苦難は過去の自分の選択の結果であり、文句を言うなという結論が導かれる。成功者と失敗者にいつしか道徳上の優劣が生まれてしまうのだ。これを黒子のバスケ脅迫事件の犯人は「努力教信者」と呼んだ。大変わかりやすいので、この語は気に入っている。

 こうした倒錯が生まれる背景には「公正世界仮説」がある。これは「正しく生きている人間には良い人生が与えられ、悪徳に満ちた人間にはしっぺ返しが起きる」という信念のことだ。民話や童話にもこのタイプの話は無数に存在するので、人類共通のアーキタイプのようなものなのだろう。昔話において、成功するのは決まって「正直じいさん」であり、失敗するのは決まって「欲張りじいさん」である。

「公正世界仮説」は被害者叩きの心理的背景を説明する上で使われることが多い。可哀想な人を叩くなんて残酷な奴だと思うかもしれないが、違うのだ。心の弱い人は自分がある日突然不幸な目に遭うかもしれないという現実に耐えられない。心理的な逃げ道として「被害者は悪いことをしていたに違いない」と信じ込む。そして「自分は悪いことをしていないから安泰だ」と不安を鎮める。若い女性がレイプされるのは「ふしだらな格好をしたせい」であり、オジサンが糖尿病で苦しむのは「後先考えずに暴飲暴食したせい」ということになる。

「努力教信者」も根は同じだろう。彼らは自分が死ぬほど努力すれば大谷翔平になれると信じているし、そうなっていないのは自分の選択の結果だと納得している。だから人生の敗北者を見ても同情しない。「お前自信の選択の結果じゃないか」というわけである。「努力教信者」は世の中に才能や環境や運に恵まれずに落ちこぼれた人間がいると信じたくないので、敗北者を道徳的に劣った存在だとみなす。だから失敗者を叩くのだ。

東大生叩きに使われる「環境中心主義」

「努力教信者」の存在を前提とし、今度は「環境中心主義」という人種について考えてみよう。「環境中心主義」というのはシーシェパードのことではなく、「勝ち負けは環境で全てが決定される」という信念の持ち主のこととする。「東大合格は環境のお陰」という主張する人間は多い。その主張者は東大生であることもあれば、東大など橋にも棒にもかからない人間のこともある。環境中心主義は中世の封建社会と何ら変わらないので、基本的にはネガティブな世界観である。

 環境中心主義が主張される時は大概が否定的な文脈だ。「お前が東大に合格したのは親の与えた環境のお陰であって、お前自身は偉くもなんともないだろう」という訳である。ここで言う「偉い」とは「努力教信者」の価値観を前提としている。恵まれない環境から努力で成り上がった人物は「偉い」のに対し、最初から環境に恵まれていた人間は「ズルい」のである。この手の階級的反感は日本よりも格差の大きい国ではありふれたものだ。

 なつぴなつ氏の炎上はまさにこのパターンであり、同様のケースは以前にも存在した。学歴コンプの人間は環境中心主義を主張し、東大生の道徳性を否定する。一方の東大生は自分の品位が汚されたと感じ、「努力教信者」と同様の主張をする。環境中心主義の人間にとっては、東大生を含むあらゆる成功者は「親ガチャ」の産物であり、やや非道徳な存在だ。努力中心主義の人間にとっては成功者は道徳的な高潔さの結果だ。東大に入れない人間は自らの怠惰の結果と向き合うべきということになる。この相克が今回の炎上の根底にあるのである。

 ちなみに環境中心主義は努力を否定しているわけではない。むしろ肯定していることが多い。環境中心主義と努力中心主義の違いは、努力した人間が現代の社会で報われていないと考えているか、すでに報われていると考えるかの違いである。

環境の意義に関する誤解

 この手の議論に関しては実は常に一つの見落としがある。東大生も成り上がり主義者も見落としている点だ。それは「環境が良いこと」はそれ自体が評価の対象になる、ということだ。人間は「育ちがいい人間」を肯定的に評価するのである。環境中心主義は実は肯定的な意味で使われることも多い。ただ、自分から自慢する項目ではない。

 東大生は過酷な競争社会を生き抜いているので、いつも努力と才能ばかりに目が向く。学歴は「与えられたもの」ではなく「勝ち取ったもの」だ。東大のカルチャーは競争社会の勝者が作り上げており、偏差値エリートの価値観はすべてがこの調子だ。だから「お前が東大に入れたのは環境のお陰だ」と言われると、自分の才能と努力が過小評価されているみたいで、イラッとするのである。

 ところが世の中にはブルジョワエリートという存在がいる。例えば高額な学費を払ってお嬢様校に子供を通わせる親がいる。これは子供にいい環境を与えたいからでもあるが、いい環境で育ったということそれ自体が価値を持つからでもある。この手の学校の最高峰は慶応幼稚舎だろう。幼稚舎から慶応に進むことに特段の才能も努力もいらないが、それでも幼稚舎上がりというのは特有の魅力を持つ。それは彼らの環境それ自体が評価されているからだ。「お前が慶応幼稚舎に入れたのは環境が良いからだ」と言われても彼らは「はい。そうです」と認めるだけだろう。

 海外は格差が大きいので、環境が良いことの価値は露骨だ。富裕層の住む地域は治安が良く、貧困層の住む地域は治安が悪い。見た目が富裕層の人は信用されやすいし、見た目が貧困層の人は信用されにくい。自分の会社で人を雇いたい時はやっぱり富裕層の人間を優先するだろう。そちらの方が安全だからだ。貧困層は途中でバックレるかもしれないし、手癖が悪いかもしれないし、犯罪組織と繋がっているかもしれない。育ちのいい人間と一緒に働きたいというのは万国共通の価値観だと思う。

 東大生が社会で評価される要因の一つに「環境の良さ」は確実にある。東大生は全く意識していないだろうが。社会に出る上で「身元がしっかりとしている人間」というステータスは馬鹿にならないと思う。東大を出ていれば、多分半グレではないだろうという信頼が成り立つ。肯定形の環境中心主義者であれば「やっぱり育ちのいい人はいざとなると強いねえ」ということになるだろう。こうした認識はネット論客が使わないだけで、世間には無意識に存在している。

才能中心主義はディストピア

 残るは才能中心主義である。ネット上の議論ですらこれを主張する人間は少ない。生まれ持った才能ですべてが決まっている社会はあまりにも残酷すぎるからだ。東大生の多くは自分の才能を信じているだろうが、まさにその理由によって才能中心主義的な言動を控える傾向が強い。それは自分の能力の限界を認めたくないからであり、相手に気を遣っているからであり、他の東大生からの目を恐れているからだろう。

 才能中心主義の世界観は、東大生にとってすら、どこか不快だ。自分は運良く才能に恵まれたから良かったが、もし才能がなければどうなっていたのか。才能が枯れてしまったらどうなるのか。より上の才能の人間が現れたらどうしたら良いのか。東大生であってもこうした不安からは逃れられない。だから東大生にとっても、才能中心主義に関してはあまり触れたくないのだ。ましてや人に自慢することはできない。

 実は東大生にも「東大合格は環境のお陰」と主張する人は多い。これは東大生を叩く側に賛同しているからというよりも、才能格差という現実から目を逸らすためだと思う。東大生にとっては才能中心主義を掲げることは相手に失礼だと思っているし、自身にとっても愉快な世界観ではない。東大は努力だけで入れないことを知っているが、「才能格差のせい」とは言えない。だから「環境のお陰」ということに表向きしておくのである。

 東大生を叩く側の人間が才能について言及することはまずない。自分の環境が悪いことは開けっ広げにできても、自分の才能が無いことは主張したくないからだ。ある程度の年齢になれば環境の影響は軽減できるし、外部からの援助があれば子供であっても変えられる。しかし、才能というものは全く動かす余地が無いので、環境以上にカースト化の要素が強い。人間は未来志向の生き物なので、まだ改善可能な方向に意識を向けたほうがマシだと考えるのかもしれない。

才能はあなたの所有物?

 本来「努力教信者」にとっては才能も環境も違いはない。どちらも自分の努力で勝ち取ったものではないからだ。しかし、実際の言論を見てみると、才能と環境は異なった扱いがされているように思える。「あなたが東大に入れたのは環境のお陰だ。だからあなたは偉くない」という言説はよく見る。ところが「あなたが東大に入れたのは才能のお陰だ。だからあなたは偉くない」という言説はそこまで多くない。これはちょっと不思議な現象だ。

 才能は自分のモノだが、環境は親から与えられるものだという前提が、才能と環境の違いを生み出しているようだ。才能を持っていることは「ズル」とは思われにくいのである。環境格差を是正しろという声は常に聞こえてくるが、才能格差を是正しろという声は聞いたことがない。むしろ「才能を活かせ」という意見の方が大半だと思う。才能格差を是正するには、大谷翔平は重りを付けて出場し、広瀬すずは顔に落書きをして芸能活動をするべきだが、誰もそんなことを望んではいないだろう。環境是正論者は環境を平等にすることで「真に才能のある人間」が「勝ち組」になれるように配慮すべきと主張する。才能格差の是正に関しては無関心どころか、むしろ格差を助長する傾向が見て取れる。残念ながら、才能無き者には救いはないらしい。「自分が負けたのは環境が悪かったからなんだ!」という人は賛同が得られても、「自分が負けたのは才能が無かったからなんだ」という人は憐れまれるだけだ。「努力教信者」も、才能ある人間にはなぜか甘いのである。

 環境格差を是正して埋もれた才能を掘り起こせば社会全体の生産性は上昇する。ところが才能格差を是正しても大して生産性は上がらない。環境と才能で扱いが違う理由はこの辺りかもしれない。

才能・努力・環境は切り分け不可能?

 今までの議論は才能・努力・環境が切り分け可能であることを前提にして考えてきた。しかし、実際はこの3つはそもそも独立の存在ではないことが多い。

 例えば努力をするには相応の体力や集中力が必要だ。「興味を持てること」も才能の一つと言えなくもない。努力ができる人間は、実は才能のお陰かもしれない。

 努力と環境も負けじと関連性がある。実は環境が悪いと努力はできなくなる。東大生であっても、大学で孤立し、留年を繰り返す学生は後を絶たない。精神状態の悪化によって努力すれば簡単に取れる単位が取れなくなってしまうのだ。

 環境と才能が相関しているという見方もある。活字を読む才能がある人間は親から本を買い与えられやすいという研究結果があるようだ。それに、中学生くらいになると、勉強の才能のある人間は秀才と仲良くなって切磋琢磨するようになるし、不良の素質がある人間はやっぱりガラの悪い人間と付き合ってシンナーを吸うようになったりする。

 せっかく開成や灘に受かったのに、周囲のレベルが高すぎて落ちこぼれてしまう生徒がいる。いわゆる「深海魚」だ。この原因はなんなのか。本人の才能が無かったせいなのか、本人が中高6年間勉強をサボったせいなのか、学校の環境が合わなかったせいなのか。この場合、才能・努力・環境はお互いに深く連関しあっており、どれか一つで説明するのは難しいだろう。

 実のところ、才能・努力・環境の三要素は人間が思考実験で編み出した作り物だ。本当の意味で独立して存在しているわけではない。マルクスが人間社会を何でも階級闘争で解釈しようとしたように、才能も努力も環境も、現実に対する解釈の方策に過ぎない。例えば、努力とは「自由意志で制御できる行動」を指している。しかし、そんなものが実在するかは分からない。メンタルが弱って努力できないケースは本当に自由意志の産物なのだろうか?

自由意志という難問

 あまりにも議論が錯綜するので省いたのだが、ここに第四の要素として「運」がある。これを入れるとまたまた大混乱となってしまう。人種・ジェンダー・経済的左右の問題も省いた。

 今までの要素を更に単純化してみよう。「努力教信者」の原点に戻ると、重要な要因は「自分でコントロールできるか」という点だった。単純化を重ねると、結局は「人間に自由意志を認めるか否か」という古典的な問いに行き着くのである。

 自由意志の働かない項目、例えば才能や環境や運は本人が制御できないので本人の責任とは無関係とされる。努力は自由意志が働くという前提で定義されるので、努力しない人間は自己責任となる。ただし、最近は精神疾患や発達障害が注目されており、努力すらも実は自由意志ではないのではないかという解釈がされ始めている。「努力」に自由意志を認めない場合、うつ病は甘えではなく、病気ということになる。

 自由意志が働く余地が少ないと考えてしまうと、成功しようが失敗しようが本人の責めに帰すべきものはほとんど存在しないことになる。罪悪感からは逃れられるが、そうなると人類は予定説の中で生きていくのか?東大に受かるか落ちるかは全て神の思し召しなのか?

 こうした予定説の世界は一見自分の運命に責任を持たなくても良い社会ということになる。東大に受からないのは神がそう決めたからで、自分の選択ではない。ましてやネットで叩かれる筋合いはない。こういうことになる。

 ところが面白いことに、カルヴァン派の人々は予定説によって返って勤勉になった。うまく行ってない人=神に愛されていない悪い人、という価値観が作られたからだ。これでは「努力教信者」と大して変わらんではないか。人間の価値観とはかくも複雑で難解であり、いつの時代も考察が尽きることは無さそうだ。



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