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部活経験者はなぜ社会に出ると強いのか?

 筆者は今まで性格分類や学歴などを軸にサラリーマンに適性のある人や社会に出てから活躍できる人について考えてきた。しかし、今まであまり言及していなかったファクターがある。それは「部活」だ。

 筆者の周囲にもサラリーマンに向かない性格タイプだったり、ASD傾向を抱える人間は多数存在したが、彼らのうち、社会に出てからなんとか頑張れている人間の共通項を抜き出すと、明らかに部活経験者が多いのである。

 部活経験者の強さは巷でも薄っすらとは認識されていると思う。しかし、今まであまりインターネットでは言語化されていなかった印象もある。これはおそらく部活経験者とインターネットでの配信を好む層があまり被っていないことが一因かもしれない。

 今回はネット空間ではあまり光が当たらなかった部活経験者の強みについて考えてみたいと思う。

部活と受験

 部活経験者の強みといっても、具体的なスポーツの技能が仕事で生きるわけではない。彼らの強みとして真っ先に挙げられるのは「部活経験者は与えられたテーマを頑張ることができる」というものだ。確かにこれは正しい。何もしてない人よりも何かに打ち込んだ人の方が優秀なのは当たり前である。しかし、これでは部活経験者の本質の半分しか言い表せていない。50点の回答である。

 部活でなくても、学生が頑張るべきものはいくらでも存在する。その代表格は受験勉強だ。受験勉強を通して培われる特性は多数存在する。毎日の鍛錬、壁にぶち当たった時の乗り越え方、本番前のメンタル管理、才能で自分を上回る者と遭遇した時の対処、他にもいくらでも挙げられるだろう。これらの要素は部活でも勉強でも得ることができる。

 公立中学校の部活が顧問が過労死するレベルでハードなのに対し、上位進学校はどこも部活にあまり力が入っていないことが多い。その理由は上位進学校においては受験が部活の代わりに非行防止になっているからである。エネルギーを持て余す中高生にとって、エネルギーをぶつける対象は必要だ。この観点でも部活と受験は代替可能な存在ということになる。

 しかし、もし受験で部活がイコールであれば、受験勉強で多くを達成した人(例えば東大合格者など)は全員サラリーマン適性があるということになる。高学歴難民が巷に蔓延していることからも判るように、この結論は間違いである。実は部活には勉強では代替できない要素が存在し、サラリーマンに適応できない高学歴が引っかかるのはここの部分なのだ。

 ちなみにピアノ等の習い事も部活の代替にはならないと思う。筆者は受験の辺りまで真面目にピアノを習っていたのだが、この経験から考えると、必要とされる要素は勉強のほうが近い。

部活経験者の範囲

 一概に部活といっても色々な形態が存在する。このあたりの定義を一度はっきりさせておこう。

 まず五輪に出場する選手など、いわゆるトップアスリートは今回の議論からは完全に外れるものとする。これらの選手は幼少期から英才教育を受けており、一般人とは全く違う世界にいる人達だ。公立中学校の部活からステップアップして五輪に出場したなんて人は(最近は特に)聞いたことがない。時間の無駄になってしまうだろう。むしろアスリートはサピックスとの類似性の方が多いと思う。

 確かにPL学園とか、その他のスポーツの強豪校の部活は存在するし、集団競技のトップ選手であれば、これらの部活から出ることも多い。しかし、こうした強豪校の部活も今回の対象から外すものとする。このレベルになってしまうと、サラリーマンとして役立つレベルを超越してしまっていて、むしろ東大卒オーバースペック論との類似性の方が増えてきてしまう。突出した能力が社会に出てから役に立たないという悩みは何も高学歴難民だけの問題ではなく、アスリートのほうも深刻だったりするのだ。

 ここで考える部活経験者は普通の公立中高の運動部や強豪校でない大学体育会系のレベルで良い。アスリートやプロ選手には遠く及ばないが、趣味や遊びにしてはキツイと感じるが、プロ入りは遠く及ばない位の間合いが良い。サラリーマンにとって必要な部活経験とは、こういった「普通の人」にとっての部活である。

 文化部の扱いは難しい。吹奏楽部など、体育会系要素の強い部活も存在するだろう。一方で、サークル感覚の部活や、幽霊部員の多い部活も存在する。強豪であっても、例えば進学校の数学研究部のように通常の運動部の要素が欠落している場合もある。一部の文化部を含めても問題はないが、一応今回の議論は運動部を念頭に置くことにする。

 それでは受験勉強では得ることのできない、部活経験者の真の強みとは一体どんなものなのだろうか。これらはピアノやその他の習い事とも性質が異なるし、意外に社会に出るまで経験することのない活動なのである。

1.OJT適性

 受験勉強を振り返ってみてほしい。基本的にやり方は大きく分けて2種類だと思う。プロの指導を受けるか、一人で勉強するかだ。これはピアノであっても同様だし、スポーツの場合もトップアスリートにおいてはやはり同様の構造が存在するだろう。

 ところが、部活はどちらでもない第3の方法論が存在する。それは「周囲から学ぶ」というやり方である。私立の強豪校は別かもしれないが、普通の部活はプロの指導者が手取り足取りとはいかない。かといって、個人で黙々と練習するものでもない。多くの部活経験者は周囲のやり方を見て学んだり、自主練で同級生や先輩後輩で教え合って上達していくのである。これは教育機関に所属している場合、明らかに部活特有のものだ。

 この「周囲から学ぶ」という要素は仕事の間合いに近い。要するにOJTというやつである。大企業の場合は研修も充実しているが、やはり現場に出て実際に仕事をしながら学ぶことのほうが大半だろう。学校と違って、周囲の同僚や上司はプロの指導者ではないので、教えを請う時の間合いも全く異なっている。同じ内容を何度も聞かないとか、相手の手を止めさせてはいけないとか、ギブアンドテイクを意識するといった要素は学習塾よりも部活のほうがはるかに類似性があるだろう。

2.集団行動

 自称進学校では「受験は集団戦」などといった世迷い言がはびこっているが、断言する。受験はどこまで行っても個人戦である。受験勉強が部活と違って青春の一コマにならないのは、勉強が個人戦で、むしろ周囲とのコミュニケーションを遮断していく方向の努力であるという事情がある。これは資格試験で長期の浪人を余儀なくされたタイプが社会であまり好まれない事情とも関連していると思う。

 一方、部活はそうは行かない。部活はコミュニティであり、そこには濃密な人間関係が存在する。周囲に迷惑をかけないように協調性を持たないといけないし、先輩後輩関係だってある。集団競技は言うまでもないが、個人競技の部活であっても、部活である以上はコミュニティとしての性質は絶対に存在する。これが学習塾との違いだ。

 部活はコミュニケーション能力の涵養にも役に立つ。部活におけるコミュニケーションの軸になるのは「みんなで同じ目標を目指し、同じ作業をする」という要素だからだ。純粋な遊びでもなければ、マニアックな趣味の会話でもない。もちろん議論でも授業でもない。これが身につけられればサラリーマンとしてのコミュ力はクリアできるだろう。

 部活の頑張りは集団ベースの頑張りである。受験とは違う。集団と成果を分かち合い、苦楽を共にし、自分もその一員となって頑張っていく。これが中高で経験できるのは大きな財産だ。この適性がないと、サラリーマンとしては厳しい。仕事に意欲があったとしても、「自分がどうしたいか」が先に来てしまい、会社や部署への貢献という一番大事なマインドが欠落してしまうのだ。業後の(事実上強制参加の)飲み会や、お土産の送り合いといったサラリーマン文化も部活の集団行動との親和性が高い。

3.上下関係

 前項と被る面も大きいのだが、部活で特徴的な要素の1つが先輩後輩関係である。日本文化において年上に敬語を使うという慣習は中学校から始まるのだが、それは部活動が始まることとも関連していると思う。目上の人間の前でどのように振る舞うための様式や、後輩にどのような指導をすべきかという間合いなど、部活で得られるものはあまりにも多い。

 意外にも、社会に出るまで濃密な上下関係が必須とされる場面は経験しにくい。同級生との関係はヨコの関係だし、受験勉強には先輩後輩関係は一切存在しない。先生と生徒の関係も、コミュニティ的ではないので、やはり部活のタテ社会とは異なるだろう。バイトは一応上下関係はあるかもしれないが、部活のような綿密さもなければ長期的でもない。年次が細かく分かれ、メンバーが固定的で、かつ一定以上の頑張りを要求される活動は部活を置いて他にない。

 また、部活の良いところは上下関係を数年間で一通り経験できることでもある。自分は先輩に可愛がられるタイプとか、自分は後輩に対して厳しいタイプといった認識を深めることができるのである。

 しばしば運動部の上下関係は体育会系理不尽と言い換えられることも多いのだが、これに関する耐性はサラリーマンにとっては必須である。内心疑問を感じることがあっても、組織内の上下関係を守り、上位者に恥をかかせないことは必須のスキルである。サラリーマン適性の低い人は、好き勝手なやり方に固執したり、目上の人のメンツを尊重しなかったりして、トラブルになることがある。

 ちなみに日大タックル事件が良い例だが、体育会系の不祥事は集団全体が不適切な方向にいったケースが多い。まともな大企業の場合は違法行為は考えにくいし、仮に会社が間違った路線に突き進んでいても、責任を取るのは役員であって一般社員ではない。組織人として必要なのは、自己判断で勝手なことをすることではなく、上に忠実に責務を全うすることなのだ。

4.体力

 必ずしも部活だけで涵養されるというわけではないが、体力も重要である。運動部はそれなりにハードな練習をすることも多いし、朝練もある。部活経験者の場合は高校三年間は結構忙しいという実感があったのではないか。大学体育会系の場合はそれでも時間的に余裕があるかもしれないが、サークルにしか所属していない学生に比べれば大変だと思う。運動部の人間はこうした忙しい生活や、日頃の鍛錬により、体力面での優位は確実に存在していると思う。

 社会人として成功する上で体力は最重要だ。偉い人ほど忙しいというのは常識だし、何らかの点で抜きん出るには体力は必要不可欠だ。体力があれば残業で成果を挙げたり、退勤後に英会話教室や大学院に通ったり、休日に趣味を充実させることもできる。体力が無い場合は休日は仕事の疲れでぐったりしてしまい、仕事面でも特に評価されないという悲惨なことになってしまう。仕事だけではなく、家庭や役所の手続きなどさまざまなことを同時並行で頑張らねばならない社会人にとって、体力がないと致命傷になりうる。

 これに関して勉強は部活の代わりにならないのかという意見があるかもしれないが、多分ならない。確かに受験勉強をやり切るのは体力も必要である。しかし、受験勉強の多くは座学であり、頭の中での出来事だ。仕事においては頭で考えることよりも行動することのほうが重要性が高いことが多い。海外出張や炎天下での営業など、実際に体を動かす機会も受験よりも多い。普通のサラリーマンの場合は身体的な体力もかなり重要になってくる。

 筆者はまさに体力のなさが致命傷となったパターンで、いつも慢性的に疲れていて、平日も休日もぐったりとした状態である。社会人になってからロクに旅行に行けてないし、休日に趣味の活動をする余裕もない。ただ、インドアでできるnoteという趣味を見つけたので、嬉しい限りである。いくら疲れてもネタが浮かばなくなったり、情報収集能力が落ちることはないので、脳の体力と体の体力は全く別なのだろう。

部活はサラリーマンの練習

 部活経験者が社会に出てから強い理由はこんなものだろうか。日本の就活において最強なのは高学歴の体育会系である。確かに受験勉強で養われる胆力も重要なのだが、それだけではサラリーマンとして十分ではない。いくら頭は良くても、集団に順応できなかったり、頭でっかちになってしまっては能力を発揮することはできないだろう。

 他にも部活のメリットを上げればキリがない。ここで言う部活はアスリートでも強豪校でもなく、普通の中高の部活に過ぎないが、それらはまさに「優秀な普通の人」であることが求められるサラリーマンに大変有用だ。中高に部活に打ち込んだ人の大半は五輪代表にもプロ野球選手にもなれず、普通の人として社会に出ていく。しかし、部活の強みが生きるのはむしろ社会に出てからなのである。部活経験者はそこまで挫折感を抱える人が多くないのも、両者の相性の良さを物語っている。スラムダンクなど、スポーツをテーマにした作品は多いが、彼らがプロになれずに就職したとしても、そこまで鬱屈した感情を抱えるとは思えない。これが研究者崩れとなれば全く違う人生観が待っているだろう。

 部活適性がない人はどうすれば良いんだという話だが、そういった場合は何らかの専門性を獲得するしかないだろう。専門職であってもコミュ力や協調性は必要だが、足切りラインをクリアしてしまえば、別の強みで点数を稼ぐということが可能かもしれない。この点、普通のサラリーマンの場合は求められる能力が多岐に渡るし、得意分野で得点を稼ぐということが難しいので、部活適性は相応に求められるようである。

あとがき

 筆者は部活が全くダメだった人である。そもそも部活に盛んでない学校ばかりに通っていたというのもあるのだが、どうにも部活という間合いに興味が持てなかったというのもある。一応運動部に入っていたこともあるが、筆者は五輪観戦とスキー以外のスポーツに興味がないので、あまり面白くなかった。

 筆者はいわゆる「経験貧乏」では決してなく、勉強もそれなりに頑張ったし、合唱の伴奏をやったこともある。サークルにもたくさん入っていた。学生時代はほぼ意識しなかったが、社会人になると運動部経験者が非常に多くて驚いた。こんなに体育会系っていたっけ?という感想である。運動部は就活に有利なのか、筆者の交友関係が偏っていたのか、おそらくはその両方である。

 社会人になってから、自分に欠けていた項目は何かと振り返ってみると、やはり部活だと思う。筆者の周囲を見ていても、部活経験者であれば発達障害を抱えた人間でもなんとかJTCでうまくやっていけることが多いようだ。筆者の元上司はうっかり備品を破壊するような人だったが、体育会上がりの根性と体力、それに上下関係耐性によって乗り切っていた。他の人も似たようなものだろう。

 しばしば部活を巡る論争はアスリートや一部の強豪校を念頭に置かれることがあるのだが、これは明らかに偏っている。多くの人間にとって役に立つ部活とは、公立中学校の部活で良い。遊びや友達付き合いにしては厳しいが、プロの厳しい世界ではないといったレベル感である。別に部活内部で上位に入る必要はなく、普通についていく程度で良い。部活はいわば社会人の練習なのだ。このあたりの心理的背景についても考察できそうな気はするが、またの機会にする。



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