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人魚の入り江

小学生から中学生くらいにかけて、父方の祖母の家に行くのが苦痛だった。ドがつく田舎の、歩いて十秒で山と海、秘境のような場所。そこに親戚一同が集まり、親族団らんをする。当時「フルハウス」のようなアメリカンファミリーや、「リトルマーメイド」のようなファンタジー、そして「赤毛のアン」のような美しく尊い世界がこの世にある事を知ってしまっていた私は、現実との差に落胆した。魚と線香くさいおばあちゃんち、鍋、きつい方言でのよくわからないとりとめのないおしゃべり、いい子にしてなさい、もっと食べなさい、こら食べすぎだ、早くお風呂入りなさい。

当時はまだカセットテープが主流の時代。父が持っていたバカでかいラジカセを使って、私はVHSに録画していた「フルハウス」の音源を録音し、おばあちゃん家の離れで一心不乱に聞いていた。現実を忘れたくてたまらなかった。
昼間は歩いて徒歩10秒の海に行った。奥の方に人気のない岩場を発見し、そこを赤毛のアンばりに「人魚の入り江」と名付けて(ア痛タタタタ…)、一人で歌を歌った。外で一人で歌うなんてはじめてだったけど、本当に人がいなくて、たった一人の世界で少し曇った空がより孤独度を高め、ヒロインのような気分になったのを覚えてる。そこで「リトルマーメイド」のアリエルになったつもりで歌を歌ったのだ。遠慮がちだった声もだんだん大声になって、少し手ぶりも加えてミュージカル調に。田舎くさいおばあちゃんちにいる事も忘れて熱中した。
ひとしきり楽しんだあとおばあちゃん家に戻ると母が苦虫踏みつぶしたような顔で待っていた。
「あんた、何歌ってるん。そこら中に丸聞こえやったで。恥ずかしいわ~」

現実なんてクソだなと心から思った瞬間だった。そこからはもう二度と入り江には行かなかった。

しかし親というものは、なんでいつも最悪なタイミングで私たちの夢をぶち壊しに来るんだろうか。
実家の自室で穏やかな晴れた日曜日の昼下がりに、CDコンポでマライア・キャリーの大好きな「always be my baby」を聞いていると毎回、必ずと言っていいほどの最悪なタイミング、曲の後半の一番好きな盛り上がりの部分で母親が、ノックもなしにバーンと部屋を勢いよくあけて
「イオン行くで、はよ用意しなさい!」だの
「いい加減部屋片づけなさい!」だの
「あんたの部屋におかあさんのスカーフ置いてない?」だの
「梨むいたけど食べる?」だの
クソほどどうでもいい事を言ってくるんだもんな。(いや、梨は食いたいが)

実家を出てはや12年くらい。今は夫と二人暮らし。子どもはいないしできるかも分からないが、どうやら私はその「現実を見せつけてくる、うっとおしかった大人」側の年齢になってしまったよう。いわゆる「厨二病」ではいかんと思いつつも、感受性がすりへるのもとても怖い今日この頃です。


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