夢
絵を描いた。
畑に、クソデカい大根とニンジンを抱えた、誰だろう、俺かもしれないし、あるいは誰かかもしれない。
もう25年も前のことだと思う。
テーマが何だったかもはっきりしないが、俺はそんな絵を、描いた覚えがある。勿論実家にかざってある訳でもないし、机の中にしまってあるわけでもない、図工か美術かの授業で描いた、たわいもない絵。
その、なんの価値もない、カタチにも残らない1枚の絵が、人生を左右することになるとは…。
第一の選択
人には多かれ少なかれ、選択を強いられる場面があると思う。子供だからといって、なかなかきちんとしたレールが敷かれることは無い。
自分が進路を考えた時に、どう進むべきか悩んだのは、まず高校生の時だ。
中学から高校に進学する時は考えていなかったが、「どの大学のどの学部、学科に出願する」ということを考えなければならなかった。
1番はじめは、特になんのこだわりもなく、現実感もないまま地元の教育学部と書いた。
2年生になると、そうもいかない。文理の選択があるからだ。
16歳の自分には、全く将来が見えていなかった。何も分からない。何がしたいもない。親に相談したかは覚えていないが、とりあえず男だし、進路を広げるために理系を選択した。
いざ進路を書くとなると、浮かんできたのは冒頭の絵だった。現実味はないが、やりたいかもしれない。俺は生物系の学部を志望することにした。
3年生になった。やはり将来の夢は固まらなかった。それでもそのまま生物系を志望し続け、紆余曲折あったがほぼそのまま大学を選んだ。
第二の選択
崖っぷちの状況になりながらも奇跡的に第一志望に通り、農学部生となった。父親から謎の反対を受け、バイオではなく生物化学科の専攻になったが、あまり深くは考えていなかった。
1、2年次は怠惰に過ごしたが、3年次は実験等で忙しい日々を過ごした。そしてまた選択を迫られる。研究室だ。
ここでは迷いはなかった。室内で白衣を着る姿が想像できなかったので、選択肢がひとつしか無かった。やり冒頭の絵が頭に過ぎるのである。ここまで来たら、もうやりたいことをやろうと思った。
研究室では周りの皆が真っ白な白衣を着て白い肌で研究をしている中、1人だけ農場に出て真っ黒になっていた。色々あって大変な目にあったが、症には合っていた。
ぼんやりと大学院進学するものだと思っていたが、劣等生だったため単位が足りなかった。そこでインターンシップに行き単位の足しにしようと考えたが、学力不足(努力不足でもあったのだろう)で研究室で苦労していたこともあって、あ、俺は実務の方がしたいかもしれない、と就職を決意した。
第三の選択
次は就職先の選択である。セオリーなら食品系や化学系のメーカーなどが候補に上がるが、自分はとにかくそこに興味がなかった。一応説明会などには行ったが、あまり熱心にはなれなかったと思う。
1番考えていたのは農協だった。たまたまパイプもあって、それなりにいいなと思っていた。
もうひとつ、興味があった交通系の仕事があった。(今となっては本当にたまたまなのだが)造園の仕事の募集があった。考えた結果、「緑ならいいか」という雑な考えでそこも受けることにした。
最終的には以上の二択になった。造園職の方は最初に説明会を(間違えて)ブッチし、筆記試験はほぼ白紙みたいなめちゃくちゃな出来だったのに、なぜか内定が出た。
その内定が出た1週間後くらいに、農協の最終面接があった。確か15/20くらいの確率で受かるくらいの、ほぼ意思確認みたいな面接だった。正直「どっちにしようか迷いたくないなぁ」と思っていたらそれを見抜かれたのか、それなりに圧迫された。俺はやる気を無くし、無事お祈りをされることになる。
結果
かくして、俺はクソデカい大根もニンジンも拝めないことが決まったわけだが、結果としてはクソデカい木の面倒を見ることになった。俺の頭には片隅にいつも緑があって、いまでもそれを追いかけて、生業にしているわけである。
今日、音楽活動をきちんとしている人に会ったわけですよ。そういう人には色々聞きたくなるじゃないですか。なんで始めたのか、とか、これからも続けたい?とか。
色々話してくれたけど、そうなると俺の話になるわけですよ。なんでその仕事をしているのか?と。
やっぱり「緑が好きだから」なんですよね。で、なんで緑が好きなのか、と言ったら、冒頭のあの絵なんですよ。
名古屋生まれ名古屋育ちの自分は緑に触れ合って育っていません。どうしてあの絵を描いたのか、今となっては全く分かりませんが、ずっとあの絵に影響されてきました。
それでも、生活のための仕事が、「やりたかったこと」を実現していることを思うと、俺は幸せ者かもな、と思いました。
おわり