こうして向き合う時間
「働く」って何だろう
無職になって、ボーっと考えてる
人が動くということ?
ならば、わたしも日々多少は動いている
食事する、トイレに行く、散歩をする・・・
でも、そういう動きのことは「働く」とは言わない
労働とか作用のことだ
たとえば、人や会社のために仕事をしたり、機能させるために何かが動くこと
わたしは今、何かのために動いてはいない
働いていない
長い間、会社の利益のために働いてきたけど(多分)、そこから動く決心をした。人のために動く=働くという日々から、ただ自分の意志で動いていいという環境に一歩踏み出した
そこには何かまったく違う世界があるような気がしたのだ
わたしがただ「わたし」として生きるだけで、それでいいと思える世界
人や会社のためじゃなく、湧いてくる衝動のまま、動きたいように動くということをしてみたかった。そこにワクワクとした喜びがあるなら、それでいいと思っていた
でも
自分が踏み出したその世界はなんだか視界が悪くて、
どこに進んでもいいのに、どこに向かえばいいのか分からない
誰かが示してくれる標識のようなものを、わたしはまた探ってしまっている
外側の答えにすがって見つけた気になっても、それは一時の言い訳のようなものが持てるだけで、根底にある不安感はなくならないのに。
「誰かがこの世界は視界が悪いと言ったわけじゃない。アナタが見たいようにこの世界を見てるだけ。解き放たれて自由になったことを喜びと捉えることはできるんだよ」
何度も自分にそう言い聞かせる
ひとのためや周りの目を気にして次を選択するんじゃなく、自らの喜びのための活動を見つけられたら
自分の在り方に本当に「これでいい」と思える気がする。
イメージはなんとなくつかめているのに。
不安感はしつこい
何故いつも、喜びではなく不安感を選んでしまうのだろう?
これからどうするの?働かないの?就職活動は?
いや、ちゃんと考えます、申し込みました、何もしてないわけじゃないです、わたしも不安なんです・・・
苦しんでいるわたしをアピールして自分で自分を罰しているんだ、そうしないと生きていてはいけないような気さえして。
そうやって生きてきたから、それが当たり前だったから、それを手放すのが怖い。いつまで同じようなことを繰り返すの?
たぶん、できることは一つ。
それでもただ生きて、もがくしかない。
自分の中にある不安感をとことんまで見つめて、向き合って、気が済むまで心と対話する。それが今は働かないことなら、もう少しこうしててもいーんじゃない?
目を閉じてゆっくり深い息をする。深く深くゆっくりと。
心臓の鼓動も、血液が巡っていることも自分の意志でやっていることじゃない。見えないけど自分の中に「いのち」があって、わたしはこうしてる。
そこに意識を向けると不思議なくらい落ち着く
いーんだな、これで。大丈夫。
次の動きが決まったら
働くことをまた選んだら
自分の中にその安全な場所があることをきっと忘れてしまうから
この時間に感謝しよう
流れを信頼して。