かがわの道「志度街道探訪」
道が大好き。
香川県在住のだるまです。
趣味で気になる道を調べる30代、道歴の短い若輩者です。
好きな言葉は「寄り道」。
東讃生まれ東讃育ちの私としては「長尾街道」は昔から馴染みのある街道で、現在もその呼称は一般的に使用されていて標識等で見かけることも多い。
しかし「志度街道」の名称はあまり使われておらず、年配の方に聞いても「どこなの?」と返答されてきた。
そこで今回は「志度街道」を高松藩五街道の起点である常盤橋から探ってみようと思う。結論から言うと途中で断念したので最後はあくまでも予想で終わります。
起点、常盤橋
上空から見るとわかりやすいのだが、ちょうど片原町商店街の北側に商店が並んでいる東西に長い土地がある。これが玉藻城の外濠跡で、商店街の通りは当時からの道である。今回はこれを東へ向かう志度街道をたどっていく。
片原町商店街
片原町商店街は令和の現在において何やらノスタルジーを感じる商店街である。そもそも外濠に面していて「片方が原っぱ」だったので「片原町」という名がついたとされる。
片原町駅付近の踏切には「コトデン(カタカナ表記は珍しい)自販機コーナー」があり「mTKR」が何の略なのか…マルヨシセンター高松片原町駅(Maruyoshi Takamatsu Kataharamachi Railway)とか?*片原町駅構内にはマルヨシセンターが入っている。
今橋
そんな寄り道をしながらも志度街道と思しきルートをたどっていく。外濠沿いを東へ歩き、フェリー通りを南下し、通町・塩屋町を経由して今橋へと向かう。
しかしながら不思議な点があった。今橋駅付近で若干道が直結していないように見える。少しではあるが鍵型になっているのだ。
なんだか解せないと思いながら「幕末の城下町屋敷割図」を見てみると、この頃からクランクしているのである。ははあ、志度街道と言いながらも高松あたりは志度街道としての道ではなかったのかもしれないなあ。となんともわかりにくい表現で無理やり結論づけてみた。
白鳥街道
しかし、この幕末の地図をよーく見てみると不思議なことに気がついてしまった。「白鳥街道」と書いてあるではないか。「屋島八栗本道」はわかる。屋島や八栗につながる道であって高松から東へ向かう主要ルートなのだ。解せないのは「志度街道」ではなく「白鳥街道」と書いてある点。
白鳥とは現在の東かがわ市にある地名で、志度よりもさらに東に位置している。つまり「志度へつながる道ですよ〜」の「志度街道」ではなく「志度を越えて白鳥へつながる道ですよ〜」という意味で「白鳥街道」という呼称を幕末では使用していたのではないか?
「志度街道」と呼ばれるようになったのがいつからなのか。これは今後の課題である。
何はともあれ、今橋があったところを通りながら(高松琴平電気鉄道の志度線今橋駅は橋の名称から来ている)東へ向かってみる。ここからは松島町である。
松島十丁
前回の記事でもご紹介したと思うが、松島は非常に歴史について上手に紹介している。史跡紹介が楽しみでルンルンである。
今橋〜千代橋までは「松島十丁」と呼ばれる通りで、幕末から昭和まで多くの商店が軒を連ねていたそうである。(その多くは高松空襲の被害を受けた。)
「向良(こうら)神社」や「御坊川(ごぼうがわ・ごぼがわ)の井堰(いせき)跡」によりつつ千代橋まで向かった。
向良神社
向良神社は向山周慶(さきやましゅうけい)と関良介(せきりょうすけ)が30年に及ぶ苦労の末に立派な白砂糖を生産できたので、両名の功労を讃えて玉藻城内にお祀りをしたそうだ。明治18年(1885)にこの地に移転したらしい。
ここで、松島地区地域おこし事業推進委員会さまのおかげで少し謎が解けた。
さてさて、ここにも「志度街道」という呼称は出てこない。「浜街道」「東下道(ひがししもみち)」と呼ばれていたらしい。
ということは「志度街道」呼びは比較的近年になって定着した呼称なのかも。
向良神社を超えると国道11号が出現する。これを横断して道が続いている。国道11号が後からできてぶった斬ったわけだ。この景色に興奮を覚えるのは私だけではないはず。
御坊川の井堰跡
御坊川に出ると、井堰跡の紹介を発見。この辺りは満ち潮によって御坊がわの水は田畑には使えず、給水を受けるための池もなかったため、農作物が育てられない土地だったそうだ。そこで明治32年(1899)に井堰を築造して稲作までできるようになった。昭和30年(1955)頃から都市化によって役目が薄らぎ、平成3年(1991)に撤去…意外と最近まであったのね!!身近に知ってる人いるかも。
千代橋を渡って東へ
ここからが難所である。なぜならば地図を見ても明らかなように詰田川(つめたがわ)にぶつかるのだ。分かってはいたが、志度街道恐るべし。
屋島への道標
千代橋を渡ってすぐのところに道標がある。「👉右やしま」と書いてある。前回の記事で書いた「野間道」であり、長尾街道につながっている。つまり、屋島に向かうには遠回りじゃ!おっかしいな〜と思って道標を眺めてみると・・・
道標の上にはこんな矢印が!!!誰が貼ったかわからないが、右ではなくこのまま真っ直ぐに行きなさい…という意味だろう。もしかするとこの道標はもともと別の場所にあって、何かしらの事情で現在の場所に移されたのかも。
というわけでまっすぐ進む。多分この道が正解だろう。なぜかって?車一台通るには広く、車がすれ違うには狭い道路だから!旧道らしい道幅なのだ。嗅覚がこっちだと言っている。
洲端神社
途中で洲端(すべり)神社に寄り道しながら、洲端ってことはこの辺りが海岸線だったんかな〜と思いを馳せてみる。
詰田川沿岸
詰田川に突き当たってからはヒントを探すために、詰田川沿岸で史跡が残っていないか探してみることにした。結構広いエリア(詰田川沿岸はホテル街としても有名)をウロチョロしていると…
4箇所の渡し
発見しました史跡等案内図!大興奮ですが、史跡の番号が薄くなっていて見づらい…江戸時代にこの辺りは橋がなかったと仮定して渡り場がないか探してみた。
4箇所発見!(①丹波の渡し、②宝蔵院渡し、③弥平次渡し、④次平次渡し)ここで暗礁に乗り上げる。志度街道だと思って進んだ結果、詰田川に突き当たったがそのあたりに渡しはない。①丹波の渡し、②宝蔵院渡しの2つはあるが近いとは言い難い。むむ…多分③④は長尾街道が近いからそちらがメインだろう。
とりあえずどちらも行ってはみたが、志度街道につながるヒントは得られなかった。
予想できる志度街道
私が2箇所あるが志度街道を辿って行き着いた先から少し南北に離れていた。そこで志度に至る道として考えられるのは2つ、国道11号と県道155号である。おおよそ県道155号だろう、と予測はできるのだがはっきりとした根拠が得られなかった。次は文献にあたってみる必要がありそうだ。
結論と課題
長くなりましたが、今回はここまで。台風一過のタイミングに自転車でうろうろしたが天気はピーカンだったので、続きは次回。次は県道155号沿いに探訪してみる必要がありそうだ。
涼を求めて喫茶ポッポでモーニング(ホットドックセット650円)をいただき帰路に着くことにした。
志度街道につながる情報、お待ちしております。
8年前のブログ記事ではありますが、ジェームス吉田さまの記事も参考になります。ここでも、以下のように書いてあることから県道155号線が志度街道なのでしょう。しかし私としては気持ちよく道がつながっていないので、自力で詳細調べてみようと思います。