「良く生きる」についての論証


前提
 1 絶対的な倫理的な価値判断の基準があるのか、それとも任意の倫理的な価値判断の基準は相対的なのかは不明である
 2 「良く生きる」ことに対する接近性動機(対象に接近する方向に働く動機、感情や義務感など)を保持しているが、その具体的な基準の一切が定まっていない
 3 絶対的な倫理的な価値判断の基準がある場合、それを満たしながら生きることは「良く生きる」ことに該当する
 4 絶対的な倫理的な価値判断の基準がある場合、自分はそれを知る術を持たない

推論
 1 任意の倫理的な価値判断の基準が相対的であるとした場合、何らかの倫理的な価値判断の基準に従い生きたとき、それが「良く生きる」ということに該当するのかを判断することはできない(∵基準不定)
 2 任意の倫理的な価値判断の基準が相対的であるとした場合、「良く生きる」ことに対する接近性動機を満たしながらその基準を定めることは不可能である(∵基準不定)
 3 任意の倫理的な価値判断の基準が相対的であるとした場合、「良く生きる」ことに対する接近性動機を満たすことはできない(∵1、2)

 4 絶対的な倫理的な価値判断の基準があるとした場合、何らかの倫理的な価値判断の基準に従い生きたとき、それがたまたま「良く生きる」ことに該当する可能性はあるが、自分はその絶対的な倫理的な価値判断の基準を知る術を持たないため、意図して「良く生きる」ことはできず、また自身の生き方が「良く生きる」ことに該当するかがわからず「良く生きる」ことに対する接近性動機を満たすことができない(∵前提3、4)

 5 何らかの倫理的な価値判断の基準に従い生きたとき、「良く生きる」ことに対する接近性動機を満たすことはできない

 
上の議論によれば、自身が倫理的に生きるためには倫理的な価値判断の基準が絶対的であることに賭けなんらかの生き方を実行しそれがたまたま絶対的な倫理的な価値判断の基準に該当するのを期待することしかできない。
つまりそれが唯一解であり最適解なのだ。
快楽主義に従ったり、自己の成長を至上とする価値観に従ったりすることもそのひとつである。

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