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2.幼馴染のカグラちゃん


2. この私を転ばせたからにはタダで起き上がってくると思うな


「ユッキーーー!!!」
 昼休みに二組へ行くと、ほぼタックルと言って差し支えない要領で神楽に抱きつかれた。
「ふっ、ぐぇっ……」
 予想だにしない襲撃に、意図せず情けない呻き声が漏れる。
「ねぇユッキー、購買行こ? カグに桜餅買って欲しいのぉ」
 小柄で、俺の肩上辺りまでしか無い神楽は、身長の割にそこそこ胸があった。いや、そこそこではない、かなりあった。というか、なんか大きくなっている気がする。そういや最近、正しいサイズのブラを購入したとか言ってたっけ。そんな彼女がぎゅっと密着した状態で、こちらを見上げてきた。
「お、おぉ……」
 思わず俺は後退りする。
 嬉しいとか、ラッキーだとかそういった感情はほぼ無くて「こんなことするような子だったかな」という気持ちだけが頭を占めていた。
 二組の教室内にいた女子たちが色めきたって俺たちを見ている。逆に男子たちは、羨望に満ちた眼差しでこちらを眺めていた。
「なんでも買ってやるから、ちょっと離れてくれ、な?」
 神楽を引き剥がそうと肩に手をかけると、更に強く抱きついてきた。そのまま彼女は歩き出すと、俺を押すようにして教室の外に出た。
 ピシャッと後ろ手に扉を閉めた後、神楽は弾かれたように俺から離れた。
「いや、ごめんねユッキー」
 申し訳なさそうにそう言い、今まで自分が密着していた俺の胸や腹を手で払う。
「いいって、別にそんな菌みたいに思ってないし」
 そう返すと、彼女は少し嬉しそうに目を見開いて微笑んだ。
「ありがとう。付き合ってもない異性にこういうことするのは悪いって分かってるんだけどね」
 俺のベッドを勝手に使うのはノーカンなのだろうか……。
「男友達をベタベタ触るタイプの女子じゃないだろ、神楽は」
 二人して廊下を並びながら歩き始める。
「そうだよ。カグ、その辺りちゃんと気使ってるもん。触れても肩とかだよ」
「じゃあ何でやったんだよ」
 その問いに、神楽は飄々として答えた。
「この間の私可愛いマウント女がさ、なんかユッキーのこと好みのタイプとか、おほさぎあそばされていたのね」
 おほざきあそばされていたのか。
「だから見せつけて嫉妬煽ってやろうと思って。ああほんと……狂気の沙汰ほど気持ちいい感覚だわ」
 正気の沙汰とは思えない性格の悪さだ。
 恍惚とした表情で、僅かに紅潮した両頬を手を包む神楽。うっとりと目を細め、どこか明後日の方向を見つめている。
「神楽ね、そんなことしてクラスで大丈夫なの?」
「え?」
「虐められたくないんでしょ? てか、この前のアレの後、何か言われなかった?」
 この前のアレ、とは、教室のド真ん中で「私この中で一番可愛いです」マウントを取り、遠回しにクラス全員をブス呼ばわりした女に「何かコンプレックスでもあるの?」とツッコんだことだ。
「んー……なんかね、あの後うやむやになったの。皆んな優しく接してくれるよ」
「まじか」
 それは危険人物認定されて気を使われているのではないだろうか……。
 色々と不安な部分はあったが、神楽自身はそれ程気にしてなさそうなので何も言わないことにした。
「ユッキー」
「何?」
「桜餅買って欲しいのは本当」
「……」
 こういうところはちゃっかりしている。
「……いいよ、買ってあげるわ。その代わり半分ずつな」
「ほんとに?! ありがとう!!」
 そういや俺も丁度、購買へ行こうとしてたのを思い出した。わざわざ二組へ寄ったのは早藤でも誘おうかと思ったからだ。だから今、ポケットの中には財布が入っている。
「やったー! ユッキー大好きー!!」
 神楽はぴょんぴょん飛び跳ねると、赤ちゃんペンギンのような動きで廊下を駆け出した。その走り方のまま階段を降りようとしたので、真ん中で足を滑らせ、そのまま時代劇のようにゴロゴロと転げ落ちた。
「あ"ーーーーーーーーーい"っっった"い"!!!」
「大丈夫か!?」
 首を振る神楽の目には、うっすらと涙が滲んでいた。余程痛いのだろう。決して綺麗とは言えない階段下の床に寝転がった状態で、ギィィィィと謎の声を上げている。
「あーーほらもう、バ……」
 バチが当たった。そう言いかけて口を閉じた。流石に、泣くほど痛がっている相手にかける言葉ではない。
「バチが当たったって言おうとした?」
 しかし神楽は俺の心を読んだかのようにそう言った。
「……バレた?」
「分かるよ。バブーの頃から一緒にいるじゃん」
 彼女は痛みに顔を歪めながら、ゆっくりと上体を起こしてくる。
「何がバチよ。ユッキーに抱きついて川合萌恵を煽ったからってこと? 言っとくけどカグは然るべき報復をしただけだから。それでバチを与える神なんて、カグが崇めるに値しないわ」
 どういう根性してるんだこいつ。
「カグが階段から無様に転げ落ちたのは天罰でも何でもなく、ただ単にカグが不注意で鈍臭かったからよ」
「……そうか」
 横柄なのか謙虚なのか、よく分からない態度だった。
「そんなことより……保健室に行きたいの。なんだかほっぺが熱い……」
「マジ? すりむいたのかも。ちょっと見せてみ」
 神楽は髪をかき上げて、右頬の下の方を俺に見せた。案の定、その部分は皮が剥けて赤くなっており、所々血が滲んでいた。
「うわ、これは駄目だ。今すぐ保健室行こ。転んだ所が汚いから菌が入ると化膿する」
 立てるか、と手を差し出すと、遠慮なくその手に全体重をかけて立ち上がってきた。
「カグの顔が……真っ白すべすべのカグの肌が……」
「大丈夫、ちゃんとすればそんな傷すぐ治るよ」
 肩の動きが泣き出す直前の人のそれだった。そんな幼馴染を慰めながら、二人並んで保健室へと向かう。
「傷、完全に消えるかな」
「早く治したかったら皮膚科とか行ったほうが良いかも」
 階段から滑り落ちた時よりも辛そうな顔の神楽だった。

「応急処置はしたけど、すぐに皮膚科に行ってね。もう次からは階段降りる時ふざけちゃダメよ」
 保健室の女性教諭は、神楽の頬に絆創膏を貼りながらそう言った。
「放課後にでも行くわ」
「今日生徒会ある?」
「ない」
 回る椅子に座った神楽が俺の方を見て答える。
「家に保険証あるから、一度帰ってから行く」
「一人で行けるか?」
「行けるよっ」
 ぷんすか、とでも言いそうな顔をしていたので、なんとなく面白くて笑みが溢れた。
「一年生だよね? 今月末に校外学習があるでしょ。それまでに治るといいね」
「「えっ」」
 俺と神楽は同時にハモった。すっかり忘れていたのだ。
「ヤバい、ユッキー!!」
 神楽が慌てた様子で、椅子ごとこちらを振り返った。
「カグ、校外学習で撮った友達との盛れてる写真、ストーリーとLINEホーム画にして地元の友達に見せつける予定なのに! お前らよりも上のハイスクールライフ送ってますアピールが出来ないじゃん! 逆にこっちが憐れまれるわ、お前高校で顔面に根性焼きでもされたのか? って!!」
 保健室の先生が、これ以上ないくらいの苦笑いを浮かべていた。
「……うんうん、そういうことは二人だけの時に話そうな」
 俺は神楽の肩に手を置き、くるっと一回転させて先生の方を向かせた。
 その後、二人で先生に深々と頭を下げると、共に保健室を後にした。
「ユッキー今日部活あるの?」
「あるよ」
「じゃあ先に帰ってるね。気が向いたら部屋にでも行くわ」
「おう」
 昼休みもそろそろ終わる時間だった。俺たちはそんな会話を交わして、各々の教室へと帰った。

 八時頃、家に着いた。直行で自分の部屋へ行くと、頬にガーゼを貼った神楽がストレッチに勤しんでいた。彼女は両親が出張+一人っ子なので、頻繁に家に来るのだ。親も公認である。
「ああ、ユッキー。おかえりなたい」
 モコモコのパジャマを着て、頭には猫だか犬だかの耳がついたヘアバンドをつけていた。狭いおでこが剥き出しになっている。もう既にコンタクトを外したのか、デカい黒縁のメガネ姿だった。
「……寝る準備万端だな」
「当たり前じゃん」
 ストレッチが終了したかと思うと、神楽は俺のベッドに寝転び、垂直に上げた足を壁に立てかける姿勢をとった。
「あ、ごめん気にしないで」
 少し気にするだろ、流石に。
 不思議な格好のまま、神楽は皮膚科で言われたことを話した。
「毎日、患部にお薬塗ってガーゼ貼っておきなさいって言われた。あと、なんか特別なローションもくれたわ」
 はは、と笑い、眼球だけを上にして俺を見る。
「あと、これは医者に言われたことではないんだけど、早く寝ようと思って」
「早く寝る?」
「そう。睡眠はお肌にとって必要不可欠でしょ? いっぱい寝たら、治るのも早いかもしれない」
「じゃあビタミンとかもいっぱい摂取した方がいいんじゃない?」
 そう言うと、神楽は「その手があったか!」と手を打ち、ニンマリと笑みを浮かべた。
 俺は思った。明日からこの女は学校や家の至る所で、動物園の意地汚いボス猿の如く果物を貪り食い始めるだろう、と。
 校外学習は今月末だった。ざっと数えて、あと二週間強というところだ。神楽はどうしてもそれまでに顔の傷を治すつもりらしい。
 神楽は少しの間スマホで調べ物をしていたが、十分ほど経つとポイとベッドの端へと投げ捨てた。
「あれ、もういいのか」
「うん。寝る一時間前はスマホを触りたくないの。ブルーライトの影響で睡眠の質が下がるから」
「……す、すごいな……」
 相変わらずストイックだ。
「寝る前はリラックスすることが大事よね。最近夜に暗くした部屋でキャンドル焚くのにハマってるの。スリコで買ったアロマ数滴垂らして、YouTubeで睡眠用BGMとか流すともう、最高の空間の出来上がり。ばりエモい。こういうことの楽しさに気付けたっていう点では、怪我もあながち悪く無かったかも」
「睡眠用BGMってどんなの?」
「川のせせらぎとか、秋の虫の声とか」
 そのうちオーガニックコットンの下着を買ったり、米を土鍋で炊いたりし始めそうである。

 次の日の昼休み、二組へ顔を出した。
「あのな、お前俺に会うって名目でよくこっち来るけど、本当はあの子が気になるんだろ?」
 早藤が呆れたようにそう言ってくる。
「……否定できない自分がいる」
 神楽に恋慕しているとかそういうわけではないのだ、決して。俺は神楽に興味があるし、何をしているかが気になるが、それは好きな子の挙動が知りたいとかそういうタイプのものではない。どちらかというと身内がクラスで虐めになどあっていないかと心配する気持ち、また、予告なしで現れる神技の大道芸人を見逃したくないような気持ちに近いのだ。
「え、何、好きとかそういうわけではない?」
「うん」
「……まあ、俺もあんな面白い幼馴染いたら、お前みたいになってそうだわ」
 早藤は苦笑いをして、教室の端で昼食をとっている神楽を見た。案の定、神楽は茶色の紙袋から出したオレンジやバナナ、ライチなどを、皮を剥いて、美味しそうにパクパクと食べていた。それも一人で。
「ねぇ神楽なんで一人で食べてるの? 何かやらかした? ついにハブられた?」
「いつも食べてる子が今日は部活の招集でいないんだよ……」
 早藤の顔は引き攣っていた。漫画だったら額に棒線が四、五本入っていそうな顔だ。
「気になるんだったら話して来いよ。ハブられたのかって俺に聞かれても分からんわ」
「……それもそうだな」
 俺はその場で色々考えた末、早藤も連れて神楽の席まで行くことにした。
「ヘイ、神楽さん」
 声をかけると、神楽はパァッと顔を明るくしてこちらを見上げてきた。
「ユッキー! それと早藤くん!」
 手に持っていたオレンジを一旦袋の中へ入れる。
「調子はどう?」
 そう尋ねると、
「意外と悪くないの、それが」
 と、ニヤニヤしながら謎の決めポーズをして見せた。
「どこ歩いてても注目されるし、皆んな心配してくれるし、中々悪くない気分よ。アイドルとか海外アニメの主人公にでもなった気分」
 アイドルや海外アニメをなんだと思っているんだ、この人は。
「そうか。ランチも心なしかアメリカンでヨーロピアンな雰囲気だもんな」
 適当に相槌を打つ俺に、早藤がなんとも言え無さそうな苦笑いを浮かべていた。この後、俺は「お前らの会話はツッコミ不在過ぎる」だの「二人の世界が出来上がり過ぎていて中に入れない」などと言われることになる。
「ねえユッキー、今週末暇?」
 突如、そう尋ねられ、俺は早藤の方を見た。
「日曜部活あったっけ?」
「いや、無いよ今週は」
「じゃあさ」
 神楽はニッコリと笑って目を細めた。
「一緒に校外学習の買い出し行こ。お菓子……は、まだ早いかな。服とか見に行こ」
「どこ行くの?」
「うーん、そうだな。地元は田舎過ぎて多分そんなに良いのが無いから……河原町行こう」
 河原町とは、京都で一番の繁華街である。国内外問わず観光客が多く、常に多くの人で賑わっている場所だ。
「そこで良いのが無ければ、帰りに京都駅の地下街で探すわ。それかアバンティか」
 京都駅の地下には「Porta」と「CUBE」という名の地下街があり、そこにも沢山のショップが並んでいる。また、近隣の商業施設とも地下道で繋がっているので、地上へ出ずに最短距離で行くことができるのだ。
「分かった。じゃあまた集合時間とか相談しよ」
「おけ」
 そこまで約束をしてから、俺は今まで休日に神楽と二人で出掛けたことが無かったことに気がついた。学校帰りに寄り道をしたことは何度かある。しかし、わざわざ約束を取り付けて、私服の状態で二人で、といったのは今回が初めてだった。
 どうしよう、なんか緊張してきたな。
 クラスや部活が一緒でその場では頻繁に喋るが、いざ休日に二人で遊ぼうとはならないタイプの同性の友達に誘われた時のような気まずさがあった。何を話すべきだろうか、どんなノリで行けばいいのだろうか。そういや私服とか見られるの小学生以来なのではないか?
 学校以外でもしょっちゅう会いはするが、その時にお互いが着ているのは中学の頃のジャージや、観光地で買った訳のわからないTシャツなど、ほぼ家着ばかりである。
 手を抜きすぎても隣を歩く彼女が可哀想だし、かといって気合いを入れ過ぎて不気味がられても嫌だ。
 我ながら実に思春期らしい悩みに翻弄されているな、と自嘲せずにはいられなかった。結局その日は昼休みが終わるまで、三人で他愛もない話をし続けていた。

 あっという間に日曜日になった。
「家隣なんだから一緒に行けばいいじゃん」そう俺は言ったのだが、何故か彼女は最寄り駅で直接待ち合わせが良いと言って聞かなかった。いったい何のこだわりがあるというのだろう。バス停の前に突っ立ったまま、ボソリとそう溢す。
 しばらくしてバスが来た。未だ神楽の姿は無い。待ち合わせの時間に間に合う為には、どんなに遅くてもこのバスに乗らなければならない。
 遅刻だろうか。
 スマホを見た。通知はない。もし遅れるようなら神楽は連絡をくれるだろう。ぶっ飛んでるし自由人だが、そういう所はちゃんとしている子だ。
 怪訝に思いながらバスに揺られていると、何個か後のバス停で神楽が乗ってきた。
「おっ、ユッキーいるじゃん」
 その姿を見て、俺は顔をしかめた。
 真っ黒の髪の毛は緩くウェーブしており、丈の長い淡い色のブラウスは腹部だけジーンズに入れられていた。少し踵のあるサンダルに、文庫本くらいの小さな斜めがけのポーチ。細い腰が目立って、神楽のスタイルの良さが際立つファッションだったのだが。
「神楽、そんな服着るんだね」
「え?」
「なんか、全然イメージと違ったわ」
 ジーンズを履いてる神楽というのが、微妙に解釈違いだった。
 そう言うと、神楽はアハハと笑ってこう返してきた。
「普段はあんまり着ないよ。今日のテーマは『病弱な子風ファッション』だから」
「病弱な子風ファッション」
「そう。緩く巻いたふわふわ濡れ髪で儚げな印象を醸し出すの。それからオーバーサイズのブラウスとスキニージーンズで体の細さを演出。下がり眉と薄めのリップ、ほっぺのガーゼで完璧でしょ? 庇護欲そそらない?」
 俺は唸って首を傾げた。
「せっかく痛い思いして怪我したんだから、それが似合うようなファッションを楽しみたいの」
「よく分からんけど、転んでもただでは起きない精神が凄いな」
 『病弱な子風ファッション』の魅力はあまりよく分からなかったが、彼女の逞しい精神には感心する他なかった。

 最寄り駅に着くと、階段でホームへと上がる。俺たちが京都へ行く為に利用する湖西線は、高架上を走っている。その上、比良山地から「比良おろし」という強風が吹いていることもあり、頻繁に運転見合わせや列車の遅れが発生する。これのせいで、高校や大学から京都の私立に進学した湖西側に住む学生などは、頻繁に大きな被害を受ける。何も無い日や小テストがある日に遅れた時は、合法的に遅刻が出来たり、勉強時間が確保できたりなどメリットも多いのだが、最悪なのは重要な試験がある日や学校行事の日に遅延することである。これらの度重なる遅延を経験して、やがて学生たちはJRの運行情報を通知してくれるアプリをダウンロードするという知恵を得る。こうして「バスで駅まで行ったら遅延していて電車が来なかった」などという間抜けな事態は回避できるようになるのだ。しかし、電車通学初心者の高校一年生などはまだそれを知らない為、電車が遅延した日はごくたまにホームが中学の同窓会場と化すことがある。
 この日、湖西線は通常運転であった。休日の昼前ということもあり車内は空いていて、二人並んで座ることができた。あと二十分ほど揺られると、京都駅に着く。
「カバンちっさ」
 比叡山坂本を過ぎた頃、特に話題も思いつかなかったので、神楽の膝に乗せられたそれを見て、率直な感想を言った。
「ちゃんと財布入ってる? 俺に全部奢らせる気?」
 冗談のつもりだったのだが、彼女はほんの僅かに眉尻を上げた。
「確かめてみる?」
 神楽はカチッと音を立てて、ポーチの留め具を外す。そのまま中に手を突っ込むと、ずるりと財布を引きずり出した。それを俺の太ももの上に置くと、再び中に手を入れ、定期、手鏡、リップクリーム、目薬などを順々に取り出していく。そして最後に、一冊の本を取り出すと、少し強めに俺の上へと置いた。
「何、この本」
「読んでみたら?」
 ブックカバーがつけられたごく普通の本だった。サイズ的に文庫本だろう。とりわけ分厚いわけでも薄いわけでも無く、何の変哲もない、ただの本だ。そう思っていたのだが、
「……え、何これ……」
「BL小説」
 速読するようにパラパラとページを捲ると、ここでは口にできないような描写のオンパレードだった。
「ほぼ濡れ場じゃない? この本」
「そうだね」
「しかも結構……かなりドキツめな内容じゃない?」
「ドキツめとは?」
「……」
 言葉にして出したくなかった。
「ドキツめって何?」
 説明を促してくる下がり眉の幼馴染。
「……このさ」
「うん」
「襲われてる方の子がさ」
「ああ、受けね」
 いらない知識が増えた。
「嫌がり方が……もうガチじゃん」
「そうだね」
「イヤよイヤよも好きのうちとか、そういった次元じゃないじゃん。ガチで泣き叫んでるじゃん。可哀想だよ」
「無理矢理系とかユッキーも見るでしょ」
「いやっ……ちょっ……」
 流石に恥じらいがあった。神楽がここまで踏み込んだことを聞いてきたのは初めてだ。正直に答えるべきか悩んだが、考えてみれば神楽は自身の好きなエロ小説を俺に見せてきている訳である。即ち、己の性癖を暴露しているようなものだ。しかも、かなり倒錯的な。
「……見るの? 見ないの?」
「……見ます」
 それに比べれば大したことではない。そう思った。
「ほら、見るじゃん」
「見るとしても、そんな可哀想なのは見ないよ! 最初は嫌がるけど段々……ってヤツだから!」
「そんなの演技に決まってるじゃん」
「分かってるよそれくらい! ファンタジーとかフィクションやと思って楽しんでるわ。逆に神楽がそれほどリアリティを求めるタイプだとは思わなかったよ」
「いや、別にリアリティを求めてこういうのを読んでいる訳じゃないよ」
 神楽は例の本をパンパンと叩いた。
「受けが泣き叫んでいるのに無理やり行為を強いられて、可哀想で涙が出るんだけど尊厳を踏み躙られている様にエクスタシーを覚えるから読んでるの」
 俺は心底ドン引きした。
「ねぇ、何その顔。なんでちょっと離れて座るの、そんな犯罪者見るような顔やめて。ユッキーてば、ねぇ!」


 京都駅に着いた。
 河原町へ行く為には、ここから地下鉄に乗り換える必要がある。山科から地下鉄に乗り換えて行くこともできたのだが、神楽が京都駅で少し散策したいと言ったので、先にこっちへ来ることにした。
 京都駅周辺で服が売っているスポットは何ヶ所かある。まず、以前も述べた地下街の「Porta」と「CUBE」、西口を出てすぐの場所にある「伊勢丹」、それから地下道を通って十分ほど歩けば着く「京都アバンティ」、また、少し遠いが十五分ほど歩いた場所に建つ「京都イオンモール」である。
「どこ行こ? とりあえず地下街でも見る?」
 どこの店にどういったものがあるのかはまだ分からない。京都の高校に進学して二ヶ月が経ったとは言え、俺たちはまだ京都初心者である。
「放課後、部活が無い日にイオンとアバンティと伊勢丹は見てきた」
「えっまじ?」
「一緒に服を見ようと言いながら、申し訳ない」
「えっいや……別に」
 全然大丈夫なんだけどな。
「どうだった?」
「伊勢丹は高い。学生には手が届かない。でもアバンティは良かったよ! 何でも三百九十円で買える雑貨屋があって、アベイルって服屋さんも可愛いのに高校生に優しい値段だった! あとGUってお店もあって、服はそんなに好みじゃなかったけど、鞄とか靴が可愛い!」
「……良かったね」
 神楽は、俺が思っているよりも世間を知らなかった。意外だ。
「京都イオンは見たの?」
「見たよ。ただあそこは少し遠いし、何よりも沢山お店があって迷ったから、もう一日潰す覚悟で行った方が良いかも」
 そう言って腕を組む。
「なるほど」
「目当ての店が絞れてるなら良いけどね。私らは何がどこにあるかすら分からないから。それにどうせ目移りしちゃうよ」
「確かに」
 話し合った末、地下街のPortaとCUBEを一通り見てから河原町へ行き、そこで欲しい服が見つからなかった場合、再び京都駅の地下街に戻って目星をつけた服を購入する、というコースに決まった。こう言うと少し面倒に聞こえるかもしれないが、帰る際にはどちらにせよ京都駅に戻ることになるので、別に無駄足ではない。
 中央口を出ると、沢山の人がいた。休日だからだろうか、親子連れが多い。また、それと同じくらい外国人の観光客も多かった。大階段へ繋がる長いエスカレーターの横を通り、Portaへと続く階段を下る。Portaは、西エリア、東エリア、南エリアの構成になっており、この南エリアが「CUBE」である。西エリアの端っこの方にはダイニングが集中しており、あとのエリアは主にファッション、コスメ、雑貨などである。一通り見ようと思えば二十〜三十分くらいはかかるであろうか。俺と神楽は西、東、南エリアの順でウィンドウショッピングをすることにした。
「どう? 良い服あった?」
「……んー……」
 残すは南エリアだけとなった時、そう聞いてみると、
「キレイめというか……ターゲット層がカグ達よりも上だよね」
「じゃあ、CUBE見てそのまま地下鉄乗るか」
 そうして、南エリアへ向かうことにした。
 Portaを出て連絡通路を通り、CUBEへと入る自動ドアを通ると、石鹸の匂いが鼻腔をくすぐった。
「何ここ、めっちゃいい匂いする」
「めっちゃ可愛いんだけど」
「これ入浴剤だって!」
「入浴剤?! これが????」
 地元には絶対に無いオシャレな店にテンションが爆上がりする田舎者の俺たち。
 店の名前を見てみると、LUSHと書いてあった。説明書きを読んでみると、イギリス生まれのブランドらしい。主にスキンケアやヘアケア、バスアイテムを扱っているという。店内には動物や花の形を模した大きなバスボムが、所狭しと並べられていた。
「あっちの店見て、めっちゃ可愛い」
 宇宙を模した青色のバスボムを手に取って見ていると、神楽が反対方向の店を指差した。
「どこ?」
「あの服屋」
「服屋つったって、三軒くらいあるじゃんか。どの服屋だよ」
「あの韓国っぽい店」
 腕を引かれるままついていくと、まるでKPOPアイドルのような女性の店員さんがレジ打ちをしていた。
「この店見る?」
 そう尋ねると、
「本当にごめん、ここまで来る道中で、あっちにめちゃくちゃ美味しそうなパン屋さんあるの見えた」
「そっち行きたい?」
「待ってーーーー! そこのお店めっちゃコスメ売ってる!! パックもあるしリップもあるし、もう何もかも揃ってるじゃん! うわ、あそこのお店のカチューシャ可愛い……バレッタも可愛い……だけどカグの髪、バレッタすぐ取れちゃうんだよなぁ……って待って! あの人タピオカ飲んでんじゃん! どこで買ったんだろ??」
 神楽はひとしきり一人で喋った後、心底困ったといった様子で頭を抱え、ハァーーーと深い溜息をついた。
「……アカン……」
 何がアカンのやろうか。
「カグ、泣きそう……」
「どうした?!」
 泣きたくなるようなくだりはあっただろうか。
「マジで数ヶ月前の自分……受験勉強死ぬほど頑張ってくれてありがとう……」
 その言葉に、俺は全力で首肯した。
「くそわかる」
「落ちたら滋賀の私立やったもん」
「学年ほぼ全員が受ける滑り止めのな」
 その私立高校を悪く言っているわけでは決して無いが、流石に中学からの知り合いが多過ぎるのである。
 結局、CUBEで一時間ほど時間を消費し、やっと服の目星をつけて地下鉄に乗った時には、午後二時を過ぎていた。


 地下鉄四条駅の何番出口かを出れば、そこは三年後くらいには俺の庭になっているであろう、京都一の繁華街、四条河原町である。
 寺町通りを歩きながら、神楽は言った。
「学校帰りにも来れる距離だよね! 制服姿で、こんなオシャレな場所で遊べるとかマジで勝ち組JKすぎる!」
「……涙?」
 本当に嬉しいのだろう。神楽の目は潤んで光っているように見えた。
「……泣いてないから!!」
 そう言いながら、彼女はあからさまにズズっと鼻を啜った。
 神楽が高校生活の楽しさをこれ程噛み締めているのには理由がある。まず、俺たちの中学は荒れていた。それも田舎特有の訳のわからない荒れ方をしていたのだ。廊下で野球拳をする男子、爆音で音楽を流しながら廊下を滑走する自転車、定期テスト中に突如廊下に出て解答を叫び出す謎に学のある不良、トイレでタバコを吸いながら飲酒をする茶髪の女。さらにそこに中学生女子特有の劣等感や僻み嫉み、陰湿さなども加わっていた為、それはもう地獄だった。地獄としか言いようが無かったのだ。もし我が子が生まれた際には、人格形成が行われる十代の大切な時間を決してあんな所で過ごして欲しくはない。
 少し歩いた場所にタピオカの店があったので、二つ注文した。俺はほうじ茶ラテ、神楽はミルクティーである。
「ねぇユッキー」
「んー?」
「高校が楽しいか否かって、中学時代の環境とかも関係してくると思うの」
 タピオカを片手に歩きながら、神楽はそんなことを話し始めた。
「というと?」
「……カグが高校生活が楽しいって感じるのは、中学校が最悪だったからじゃん?」
「そうだね」
「でも中学校が最高に楽しかったら、同じ高校に進学していたとしてもきっと、今ほど楽しいとは感じないはずだよ」
「確かに」
「これがどういうことかわかる?」
 ストローを咥えた状態でこちらを見上げてくる。
「……え、なんだろ」
「当ててみて」
「急だな……」
 しばらく考えたのち、口を開いた。
「最悪を知っているからこそ、素晴らしいことがわかるようになる、みたいな?」
「もちろん! それもあるんだけどね」
 神楽はニヤーーっと意味深な笑顔を浮かべた。
「中学で我が物顔で好き放題イキリ散らかしてたあの頃の陽キャ共は、きっと今のカグほど楽しい高校生活を送れてはいないはずよ」
 彼女はそう言い放つと、映画のヴィランのような高笑いをした。
「性格わっる……」
 思わずそう溢したが、そんな今の彼女を作った要因にあの中学校が関わっていることも否めないのである。
 その後、女教師を殴っていた元帰宅部の男子は頭が悪過ぎて地元よりさらに田舎にある底辺高校にしか進めなかっただの、神楽のことをハブった女は受験勉強をサボったせいで制服がクソダサい女子校に行くことになっただの、さまざまな昔の同級生の噂話(というより悪口)に花を咲かせながら寺町通りを歩いていると、ふと自分好みの店を見つけた。
「神楽、俺この店見ていい?」
「マジ? カグ、あの店行こうと思ったんだけど」
 俺の言った店とは真反対にある店を指差す。
「あーー、どうしよ……先に一人で行ってても良いよ。後で迎えに行くから」
 そう言うと、少しだけ神楽の表情が不安げに揺れた。
「大丈夫?」
「えっ?! ああ、うん、全然大丈夫」
 あはは、と渇いた笑い声を残して、彼女は小走りに去っていった。
 本当に大丈夫なのだろうか。
 不安は残りつつも、俺の興味はあっという間に目の前の店へと移っていた。

「あ、ユッキー」
 例の店まで行くと、神楽が前で突っ立っていた。
「あれ、お店入らなかったの?」
「……」
 神楽は無言で俺を見つめた。右手にはスマートフォンを握りしめている。その手が震えていることに気付き、俺はただごとではないのを察知した。
「神楽、どうした? 何かあった?」
「……れ……の」
「なんて?」
「……入れないの」
 神楽の声は掠れ、目は焦点が合わずに虚空を彷徨っていた。
「こんな可愛いお店、カグ一人で入れない。狭いし、店員さん綺麗だし、こんな可愛い店、一人で入れない、怖い」
「はぁ?」
 伊勢丹とアバンティとイオンは一人で行ったんじゃなかったのか?
「……伊勢丹はもう見るからに高かったからすぐに引き返したの。アバンティはまだ行けた、大丈夫だった。イオンは……広い服屋は見れた、ユニセックスっぽい感じの。でもそれだけ、あとは本屋見て帰ってきただけ」
「……おう、そうか」
 俺は困惑した。励ますべきか慰めるべきか、はたまた笑い飛ばすべきか悩んでいた。見栄っ張りで好き放題生きてるタイプかと思いきや、変な所で繊細なのだ。こういう時は少しだけ扱いに困る。
「……俺と一緒に入る?」
 そう問うと、神楽はぱっと目を輝かせて頷いた。
「ユッキー……」
 まるで拾われた捨て犬みたいだ。
「何よ」
「……ありがとう」
「う"っ……ぐ」
 不覚にもきゅんとしてしまい、そんな自分が悔しかった。


 で、結局。
「可愛いのも大事だけど、結局高校生にとって一番重要なのって安さよね、安さ」
 その日の夜、俺の部屋にはアベイルで買った服を満足げに広げる神楽の姿があった。
「ごめんねユッキー。今日行った所で買わなくて」
「全然気にするな。めっちゃ楽しかったよ」
 あの後、結局河原町で服は買わなかった。代わりにメロンパンをテイクアウトで買った。餡子とバターが挟まれたもので、有名店のやつだ。そのまま俺たちは鴨川へと直行し、岸に座って食べた。こんな風に、鴨川沿いでまったりすることを京都の若者達の間では「鴨チル」と呼ぶ。
「あそこ処刑場だったんだよな、昔」
「だよね。イチャついてるカップル、アホだよね」
 側から見れば俺たちもカップルなのだろうが、そこは触れずにスルーした。
「……ねぇ神楽」
 ふと、神楽の頬を見て俺は声をかけた。
「ん?」
「顔、何か塗ってる?」
「いや、今ドすっぴんだよ。お風呂入ってきたからね。ガーゼは寝る直前に貼ろうと思って」
「まじか、傷跡薄くなってきたな」
 すると神楽は「本当!?」と目を輝かせながら俺に迫ってきた。
「薄くなってきた!? 日頃の努力の賜物ね!!」
 神楽はあれから毎日、果物などのビタミンを大量摂取し、夜十時にはスマホを見るのを辞め、十一時には就寝するという生活を繰り返していた。
「遠足まであと一週間だろ? それまでには余裕で治りそうだな」
 そう言うと、彼女は満面の笑みで頬に手をやった。
「生活習慣がよくなったせいか、お肌も前より綺麗になってる気がする! めちゃくちゃすべすべなの。怪我の功名とはこのことだわ」
「よかったよかった。あとは当日まで気をつけて過ごすだけだな」
「もう次は転ばないように、変な歩き方はしないようにするね」
 ここまで来て再び転倒でもして顔に傷など作られてしまったら、本当にこっちが見ていられない。
「頼むぞ、マジで」
「ふい」
 どこからか取り出した「1日分のビタミン」をジュージュー吸う神楽に「ドラえもんか」などとベタな突っ込みをし、笑い合った。この時はまだ知る由もなかった。想像すらしていなかった。このまま無事に、一週間後の校外学習を迎えられる。そう信じてやまなかったのだ。まさかあんなことか起きてしまうだなんて、夢にも思わなかった。


 三日後の放課後、部活へ行くと早藤が俺を見るなり表情を変えて走り寄ってきた。
「あのさあのさあのさ、アザミだっけ? カグラだっけ? どっちが下の名前?」
「神楽? どうかしたの?」
「そうだそうだ。両方下の名前みたいな名前だよな。カグラさん今日、教室でさ」
「うん」
「スマホ没収されてたぞ」
「は???!!!!」

 うちの学校はスマホ使用禁止である。しかしほとんどの生徒は休み時間に隠れて触っており、神楽もその一人だった。教師もそれを黙認しているところはあったが、授業時間となれば話は別である。触るなどはもってのほか、通知音が鳴っただけでも没収の対象だ。
「神楽!」
 家に帰って自分の部屋を開けると、神楽がベッドの上で読書をしていた。以前、湖西線の中で見せてきたBL本である。
「なぁに? 騒がしいねユッキー」
 風呂上がりの神楽は、中学の頃の半袖の体操服に、スウェットパンツといった格好だった。ヘアバンドで上げられた黒髪と大きな黒縁の眼鏡。
「スマホ没収されたんだって?」
「ああ……そのことね」
 神楽は澄ました声で本を横に置いた。その姿に、俺は拍子抜けした。
 元はと言えば、校外学習で友達と盛れてる写真を撮り、それをストーリーにアップしたりLINEのホーム画にしたりなどして地元の人間に見せつける為に怪我の治療を頑張っていたのだ。こんな顔では「お前らよりも上のハイスクールライフ送ってますアピール」が出来ないと嘆いていたではないか。「顔に根性焼きでもされたのか?」と逆に憐れまれるわ! と。
 意外とダメージを受けてなさそうな飄々さに、俺は心配して損した気分だった。
「スマホ触ってる所見られたの?」
「ううん。電源切り忘れて授業中に鳴っちゃった」
「はあ……そんなのしらばっくれたらよかったのに」
 その時、ズズッと聞き慣れた音が聞こえた。はっとして彼女の顔をよく見ると、その目から一筋の涙が伝っていた。
「神楽ゴメン!!!!! そうだよね!! ショックだったよね!!! うわーーごめんよ!! 泣かないで!!!!」
 慌てて駆け寄る俺に、どういったわけか更に神楽の顔が歪んだ。口がへの字になり、ううぅ、という嗚咽が喉から漏れる。
「り…う……が、う"っ……ある、の」
「何?」
「……理由が、あるの」
 それから彼女が語り出した話はこうだった。
 神楽のスマホが鳴ってしまったのは五時間目の数学の授業中だった。しかもよりにもよって数学の担当は面倒くさい性格で有名な、中年の女教師、槙野であった。
「はい、今鳴ったの誰? 名乗り出るまで授業再開しないから」
 突然のハプニングに騒めく教室。神楽以外の生徒は自分ではないことがわかりきっている為、若干楽しそうだった。中には「授業したくないから名乗り出ないでくれぇ」などと言い出す怠惰かつ自分勝手極まりない輩もいた。しかし神楽は笑って受け流した。鳴ったのが自分じゃなければ、間違いなく同じことを思っていたからである。
 彼女は内心ハラハラしていたが、ここでスマホを没収される訳にはいかなかった。理由は言わずもがなである。
「誰なの? 名乗り出ないせいでどんどん皆の授業時間奪われるよ、早くしてね」
「いらんいらん」
 やんちゃな男子が笑いながら言う。神楽の席は教壇の真ん前の列、前から三番目だった。
 その時、一番前の列の女子生徒が槙野と何かを話しているのが見えた。心拍数クレッシェンド、あれは川合萌恵である。槙野は川合と話し終えると、神楽の方を真っ直ぐに見据えて言った。
「皆の時間無駄にするつもり?」
 その台詞に、確信した。
 あの女、チクリやがったな。
 静かな教室でスマホが鳴ってしまった場合、周りの席の人間はその発生源がなんとなくわかるものだ。川合は神楽の二個前の席である。気付かれても何らおかしくはない距離だ。近所に恨みを買っている人間がいたことが運の尽きだった。
 神楽は槙野が自分を名指しした時のことを考えた。おそらくスマホを机の上に出せと言われるだろう、皆の前で。そこまで来るとしらばっくれるのは難しい。スマホは電源がついている。人狼を炙り出す為にクラス全員に向けた空メールなどを送られてしまえばもう終わりだ。冤罪ぶるのも不可能である。
 神楽はもう、どう足掻いても逃げ切ることは出来ないと悟った。ならばせめて恥をかくのだけは避けようと思った。このままではクラス全員の前で晒し者にされる、しかも川合の告げ口によってである。そんなのは絶対に許せない。そんな侮辱も屈辱も、決して許してたまるものか。そんなことをされるくらいなら、いっそ。
 決意を固めると、彼女はリュックを開け、スマホを掴んで立ち上がった。椅子を引く大きな音に、クラスが一瞬で静かになる。
 その時の神楽は、まるでランウェイを歩くモデルのように堂々としていたと早藤は語った。自身のスマホが鳴ったことを一ミリも恥じていないような表情で、髪をかき上げ、顎を上げ、教壇までの通路を颯爽と歩く。その姿は洗礼を終えたパティ・ブラデールさながらだったという。
「私です。電源、切り忘れました」
 神楽は、相手がスマホごときで大騒ぎした自分たちを愚かしく思うくらい、毅然たる態度を心掛けた。そしてスマホを教壇に置くと、真っ直ぐに教師の目を見据えた。
「……二週間後に取りに来なさい」
 槙野は低い声でそう言うとスマホをポケットに入れた。その後、神楽が着席して、授業は再開したという。
 俺はその話を聞き終えて思った。馬鹿じゃなかろうか、と。
 ギリギリまで粘れば良いのだ。例え晒し者になろうとも。スマホと自分のプライドを天秤にかけた時、俺ならどう考えてもスマホの方が重い。ひょっとしたら、電源を切れる僅かな隙が出来るかもしれない。または、そのままなあなあになって流れるかもしれないのだ。どれだけ僅かだとしても、その可能性に賭ける為なら、多少の恥なんて俺はいとわない。
 しかし、神楽は違うみたいだった。
「……何も悪いことばっかりじゃ無いわ。スマホなどといった媒体に依存していなかった無邪気な小学生の頃のような心で遠足を楽しめることができるもの」
 強がるその声は震えており、目には涙が滲んでいた。
「……それに、スマホを触っていた時間を違うことに回せるじゃない。せっかくだからクッキングでもしてみようかしら。植物を植えてみるのも良いわね。美味しいお米でも炊いてみようかしら、土鍋で」
「……」
 俺は心配と呆れの狭間にいた。とはいえ、神楽のこの「転んでもただでは起きない」どころか「地べたを這っている間に何がなんでも何かしらを掴んでやる」精神には最早感服していた。
「……校外学習、俺が写真撮ってあげるよ……」
 だから元気出して、と言いかけた所で、再び奇声が上がる。
「どうしたどうした」
「……本、あと二ページで読み終わっちゃう……」
「ああ……」
 スマホを触っていた時間が本を読む時間に変わった為、必然的に早く読み終わってしまうのか。
「カグのスマホ取られたからだ……」
 あんたが自分で出したんだろ。そう突っ込みたいのを寸前で飲み込む。
「……次の巻、本屋で買ってきてあげるよ」
「その本ネットでしか買えないのぉぉ」
「もう、俺のスマホ貸してやるから」
「ユッキー、こんな本が売ってるサイトにユッキーのスマホでログインしていいの? 変なメールいっぱい来るよ」
 出しかけたスマホを思わず引っ込めた。
 神楽はその後、「続編が気になりすぎて夜も眠れない」だの「同胞たちと感想を語りたいTwitterで」
などと喚き散らした後、泣き疲れたのかその場で死ぬように眠りに落ちた。
 ふてぶてしいトドのような寝姿の幼馴染を見下ろしながら、俺は今夜の寝場所が床になることを悟った。最早全ての努力が水泡に帰した今、見えるのはこの気位の高さ故に確実に損をするであろう将来の彼女と、向こう二週間、スマホを貸せとたかられる自分の姿のみであった。


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