ばあちゃんの話#04~学校に行かなくなった時のこと①~
『ばあちゃんの話』をシリーズで書こうと決めた理由は、いくつかあると思います。まず第一に、祖母が亡くなって1年が経とうとしている今、祖母を思い出すことが多くなったということです。
とは言っても、それまで忘れていたわけではありません。ただ、ある時期から急に、整理整頓して仕舞われていたはずの記憶と共に次々と、しかも、ある意味ではとても強烈な形で心の中に現れ出したのです。
しかしそれは、終わったはずの思い出が、実は消化しきれていなかったのだと主張しているわけではなく、むしろ、次に進む準備が整ったからこそ、これらの出来事は自分が認識しているよりもさらに「既に」終わっていたのだと伝えるためのものだったのです。
これが正に、このシリーズを書こうと思った第二の理由でした。
川沿いをジョギングしていたあの時、向かい風を受けながら感じたのです。少しだけ格好つけて「風の便り」とでもしておきましょう。つまりは、今まで話したこと、そしてこれから話すことはすべて、もう既に終わったことなのです。だからこそ、こうして note に書いているわけです。
1.不登校という幸運
中学に入ってからは環境の変化についていけず、1年2学期から卒業するまで不登校が続きました。もちろん当時は、この世界は完全な地獄だと感じながら生きていたわけで、これ以上はないくらいの絶望に浸っていました。
しかし今考えると、あれはあれでとても幸福な時間だったと思うのです。理由は至極単純で、とにかく魂の底から休むことができたからです。
もしあのまま学校に通っていたら、今頃はどうなっていたのでしょうね。ひょっとしたら生きていないかもしれないし、生きていたとしても、この世を恨み嘆きながら毎日を送っていたかもしれません。しかし、人生というのは案外分からないものなので、意外にも「人生は最高だ! お~いぇ~い!」なんて歓喜の雄叫びを上げている可能性も、無きにしも非ずです。
いづれにせよ、生き続けるためには、人生のどこかの段階で休養が必要になっていたのは確かです。それが12歳という早い段階でできたのですから、正に幸運以外の何ものでもありません。
2.逃げる勇気
学校を休むきっかけを作ってくれたのは祖母でした。両親が共働きだったこと、また2人同時に家を1,2週間ほど離れる用事ができたため、代わりに祖母と祖母の姉(大伯母)が来てくれたのです。
これが、祖母が来ると聞いた時の率直な感想でした。
夏休みの終わり、学校では全員必須の補習授業が始まっていました。恐怖の中で始まった補修ですが、それでもきっと時間が経てば少しずつ良くなるだろうと期待したい心がありました。しかし、時間は何も解決してくれず、焦燥感と疲労は日に日に増し、気がつけば、悲しくもないのに学校に行くと思うだけで涙が出るようになりました。
そんなある日、授業の途中で急遽全校集会が開かれたことがありました。校長先生曰く、「3年3組の長田さん(仮名)が、学校に行くと言って家を出たきり、行方が分からなくなっています」と言うのです。
長田先輩とは保育園が一緒でした。別の小学校に通い、中学の部活で再会した先輩は優しく、穏やかな雰囲気をまとっていました。しかし先輩も学校に馴染めなかったのか、不登校とまではいかないも学校を頻繁に休んでいました。今思うと、その状態は不登校よりも先輩を苦しめたのだと思います。だから校長先生の話を聞いてすぐに、先輩は事故や事件に巻き込まれたのではなく、自分の意志で別の場所に向かったのだと思いました。
私は話を聞きながら、「先生たちは、この行動から先輩の気持ちを汲み取ってくれるのだろうか(=理解してくれる先生がいたなら、嘘をついてまで学校に来ないことはなかったはず)」という不信感に近い感情と、「ちゃんと逃げた先輩はすごい」という賞賛に近い気持ちを抱きました。
(※2,3時間後、先輩は無事見つかりました)
結局このことが、私の考えを少しずつ変えることになります。
先輩の行動を知り、自分は逃げることすらできない臆病者なのだと感じつつ、「でも・・・少しくらいなら逃げても・・・」と思い始めたのです。
それから暫くせず、祖母たちはやって来ました。
3.今だから分かること
最初で最後、唯一のチャンス(と思っていた)ーー。
祖母が来たら、1,2日だけ休んで元気を取り戻し、それからまた学校に行こうと、ほんの少しだけ、本当に、ほんの少しだけ思ったのです。
一体何を恐れていたのでしょう。今思えば、「学校には必ず行きなさい」と言うような親ではなかったので、正直に話して休めばよかったのですが、当時の私は「学校を休む=悪いこと」だと思い込んでいたため、どうしてもできませんでした。仮病を使って休むことも考えましたが、母親には絶対にバレると分かっていたため、それもできませんでした。
そんな想いで学校を1日休み、もちろんそれでは足りないので2日休み、3日休み・・・気づけば昼夜逆転、学校には一切行けなくなっていました。
限界ギリギリ。
ーーいや、限界はとっくに超えていた?
少なくとも、こうして休む随分前から心は疲弊しきっていたのでしょう。もっと早く気がついていればとか、休むために優しい祖母を利用しただけだとか、自分を責めたこともありましたが、あの頃の自分にはこれらのことを気遣い、上手に生きることは無理でした。
今更、そんなことを咎める気も、さらさらありません。
ただ、今だからこそ確信できることがあります。それは、ほぼほぼ壊れていた私を本当に手遅れになる前に救うため、祖母と大伯母は来てくれたということです。そう、家庭の事情で、偶然来たわけではないのです。
そして、この確信こそが、川沿いを走りながら受け取った「風の便り」でした。
うん、あの頃はそんなこと、全く気がつかなかったなあ・・・。
(『学校に行かなくなった時のこと②』につづく)
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