オランダアートひとり旅#13.史上最大のフェルメール展~思うがままに綴る~
デルフトでフェルメール・センターを楽しんだその日、夜はアムステルダム国立美術館で開催されていた『史上最大のフェルメール展』を観に行きました。
17世紀のオランダ黄金時代に活躍したバロック美術の巨匠、ヨハネス・フェルメール(1632‐1675)。卓越した光の表現技術と鮮やかな色彩から生み出される彼独特の静謐は、多くの人々を魅了しています。
現存するフェルメール作品は約37点で、そのうち28点が今回の展示に集まりました。
今記事では、作品を観ながら好き勝手に感じたことを、思い浮かぶがままに綴りたいと思います。
やっぱり風景画が好き
《デルフトの眺望》と《小路》。
フェルメール作品を色々観るなかで、個人的に一番好きだったのが風景画です。それは、彼の故郷のデルフトで直接空気を感じたからというのもあるかもしれません。実際に見る作品には厚みがあり、描かれた世界の広がりと奥行きを感じました。
◇◇◇
この絵は小さくあってほしかった
しばしば語られるフェルメールの特徴に、作品の小ささがあります。
小さいからこそ感じられる世界観があり、また小さく比較的移動しやすいからこそ、今回のような特別展も可能だったのでしょう。
しかし、当然すべての作品が小さいわけではありません。
初期の頃に描かれた宗教画《ディアナとニンフたち》、《マルタとマリアの家のキリスト》、《聖プラクセディス》、そして寓意画の《信仰の寓意》は1mを越えるサイズで、日常を切り取った室内の作品と比べて迫力があります。
宗教画や寓意画ではありませんが、これらとそれほど変わらない大きさの作品があります。
それは、フェルメールが24歳当時に描いた《取り持ち女》。
取り持ち女とは娼婦と客の仲介役をする女性のことで、この絵では娼館の様子が描かれています。また、一番左にいる黒い衣装をまとった男はフェルメール自身だという説が根強くあります。
見た瞬間に、思いました。これ、デカい必要ある????
コインを見せながら、もう片方の手で娼婦の胸をがっぽり掴む男。隣にはいかにも意地の悪そうな取り持ち女がいて、その横には、こちらを見ながらにやける男。グラスなんか持っちゃって、乾杯とでも言いたいのか――。
この絵を、でっかいキャンバスで見たいか?
心なしか、フェルメール(といわれる)男の顔が、余計にいやらしく映ります。この絵だけは、小さくあってほしかったわあ。
◇◇◇
静謐じゃなく、にぎやか
フェルメール・センターで(写真複製ではありましたが)全作品を一度に観たことで、それまで抱いていた「フェルメール作品は静か」という印象が変わりました。
確かに淡い光が創り出す静謐はあります。しかしそこには、楽器や手紙、地図や絵画など、登場人物の心情や物語を伝える技法が散りばめられており、実はとてもにぎやかなのです。
ここで、フェルメール・センターで見た言葉が効いてきます。
本展示では、この視点の重要性を強く感じました。
フェルメールは一体、何を伝えたいのだろう・・・。
そして感じたのは、フェルメールってめっちゃおしゃべり、ということ。静かどころか、すんごい伝えようとしてきます。そりゃ、《取り持ち女》でああいうにやけた顔しちゃうわな(違う)。
◆楽器は恋愛の象徴
◆手紙はあの人との物語
◆男女の色恋を伝えるしぐさ、ワイン、地図、そして音楽
◇◇◇
復元に対する考えが変わった
《窓辺で手紙を読む女》は、2021年に完了した復元作業により、それまで壁の下に隠れていたキューピッドが出て来たことで有名です。
おそらく多くの方々がそうだったように、わたしもこの復元には否定的でした。フェルメールならではの余白が失われ、画面が窮屈に見えてしまうからです。
もちろん画家ではなく第三者によって塗りつぶされた箇所を修復するのは理解できますし、当然のことだと思います。ただ、それでも単純に、絵画としては前の方が好きでした。
しかしそれが、多くの作品を観るなかで、「こんなにもおしゃべりなフェルメール。絵画を通して何かを伝えようとしている彼の意思をそのまま尊重しなければ!」と思うようになりました。
それだけではありません。
好き嫌いはさて置き、フェルメール作品としてはキューピッドがいる方が自然だと感じ始めたのです。何よりも、画家本人がキューピッドのある状態が完成と言うのであれば、それをきちんと観たいし、理解したいと思います。
ということで、復元には賛成。
そういえば、《牛乳を注ぐ女》の壁も、水差しホルダーと籠が描かれた後に塗りつぶされたことが分かっているそうです。
調査は続行中で、もしこれも第三者によって塗りつぶされたと分かれば、復元されるのでしょうか。気になるところです
◇◇◇
黒い背景が異質に見える
さて、そんなことを考えていると、「北のモナ・リザ」と称される《真珠の耳飾りの少女》が非常に怪しく思えてきました。
おしゃべりなフェルメールは、人物の内面や物語を伝えるために、様々な仕掛けを施しています。それなのに、この作品は背景が真っ黒(実際は緑を含んだ黒)。明らかに、異質です。
厳密にいうと、黒い背景の作品もあります。《婦人と召使》がそうです。しかし、これにはシチュエーションがありますし、本来は緑色のカーテンが描かれていたそうです。時間の経過により暗い色調に変化したとか。
ということは、やはり背景がない絵というのは、フェルメール作品としては非常に珍しいといえます。
展示会場を見回して、どうしても感じてしまう《真珠の耳飾りの少女》への違和感――。
わたしは自分の世界に入り込み過ぎた結果、「《真珠の耳飾りの少女》はフェルメールの真作ではないのでは?」とまで感じてしまいました。だってね、真っ黒な背景に人物がひとりだけ描かれている作品は、これしかないのだから!
というのは、完全なる見当違い・・・。
今回の展示で来ていなかったのですっかり忘れていましたが、《少女》がありました。描かれている少女は異なりますが、構図が全く一緒です。背景は真っ黒。ざんねーん。
さて《真珠の耳飾りの少女》と《少女》の背景がない理由は、トローニーだからという説があります。
トローニー(Tronie)とは不特定の人物の胸から上を描く絵画のジャンルで、習作として描かれたり、弟子たちの練習用に使われたりしたそうです。つまり、人物、特に顔や表情の表現に重きが置かれているため、背景は必要ないわけです。
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今回の旅では、同じ画家の作品を一度に多く観るのは大事だなと感じました。1点1点、別々に観ていたら分からなかったことが見えてきて、そこから新たな疑問や好奇心が生まれてくるからです。
そして、欠かせないのは「画家は一体、何を見せたいのか」という問い。なかには、「見せたいものなんて何もない」「あるがままに表現しただけ」と言う画家もいるでしょう。それでも、視点を変えることで受け取る内容も変わり、絵画のおもしろさをより堪能できる気がします。
そんなことを学んだ、とても楽しい特別展でした。
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