済州島旅行#08.画家イ・ジュンソプ物語
2013年~2014年に開催された国立現代美術館の特別展「名画に出逢う:韓国近代絵画100選」。
50万もの人々が訪れた本展では、1000人の来場者を対象にアンケート調査が行われ、その結果《巨大な雄牛(황소)》が「最も好きな絵画」に選ばれました。
この韓国人が最も愛する牛を力強く描いたのが、画家・李仲燮(イ・ジュンソプ)です。
本記事では済州島の西帰浦(서귀포)市に位置する李仲燮美術館、李仲燮公園、李仲燮通りの様子とともに、彼の40年という短くも激動の人生を振り返りたいと思います。
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本編に入る前に――。
まさかの7,500字超です。やめるなら今です。大丈夫、怒りませんから。
個人的に記録として残したかった記事のため、文字数は気にせずに書いた結果、かなりの長文となりました。ご興味がある方は、ぜひともお暇なときに。なんなら、写真だけ見るという手もありますよ。
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李仲燮(イ・ジュンソプ)
韓国の国民画家としても名高い李仲燮(イ・ジュンソプ:1916~1956)は、日本統治時代の1916年4月10日に、現・北朝鮮の平安南道平原郡で生まれました。
幼い頃から絵を描くのが大好きで、家が裕福な農家兼大地主だったこともあり、当時は入手困難だった海外の美術雑誌や書籍などに触れる機会に恵まれます。誰に言われたわけでもなく、ただただ絵を描くことに没頭した少年時代。5歳の頃にはりんごをもらっても、りんごの絵を描いてからでないと食べなかったという逸話が残っているほどです。
4歳という幼い年齢で父親を亡くしたジュンソプは、7歳のときに母親の実家がある平壌へと移ります。
そして、普通学校の卒業を控えた1928年に平壌府立博物館が開館。高句麗時代の古墳壁画を直接目にしたジュンソプは、一瞬にしてその美しさに魅了され、その後の画家としての感性に大きな影響を与えます。
1930年、ジュンソプは平安北道の五山高等普通学校に入学します。ここで、自身の美術観を発展させるふたつの機会にめぐり逢いました。
ひとつ目は五山学校の教育精神。
同校は、独立運動家の政治結社である新民会の一員であり、かつ3・1独立運動の際には民族代表33人のうちの1人(キリスト教徒代表)に選ばれた実業家の李昇薫(イ・スンフン)によって創立されました。本校は植民地時代において民族主義的国民教育を基盤としており、この環境下でジュンソプは、生涯の画業として、民族特有の精神を表現することを心に誓います。
ふたつ目は、韓国の近代西洋絵画の扉を開いた任用璉(イム・ヨンリョン)と白南舜(ペク・ナムスン)との出逢いです(※)。
画家夫婦の2人は当時、美術教師として五山学校に赴任していました。
それぞれの留学経験から、印象主義、フォーヴィスム、表現主義、構成主義などの西洋画様式を教え、また皇民化政策の下で創氏改名や日本語の強制が進む中、生徒たちとともにハングル文字をモチーフにした絵画を制作したりしました。
この頃の経験が基になったのか、ジュンソプは作品の署名に「ㅈㅜㅇㅅㅓㅂ」を用いています。これはハングル表記の「중섭(ジュンソプ)」をバラバラにしたもので、初期の頃は「ㄷㅜㅇㅅㅓㅂ」を使用し、生涯、他の言語で署名することはなかったといいます(※)。
1936年、20歳のジュンソプは、本格的に美術を学ぶために東京の帝国美術大学(現・武蔵野美術大学)に入学します。
そして3年次には、「国の学校令によらず、自由で独創的、かつ感性豊かな人間を育てる」ことを教育基盤に掲げ、与謝野晶子らによって創設された文化学院に転校。そこで、運命的な出会いを果たします。
彼女の名前は、山本方子。
当時、朝鮮人と日本人が付き合うことは非常に困難だったろうことは、容易に想像がつきます。しかし――
だそうです(笑)
絵画の方はというと、もともと民族の象徴として牛をよく描いていたジュンソプは、文化学院でも自分にしかできない牛の表現方法を探求します。そして、自由美術家協会(※)の展示会にも出品、入選を果たしました。
また、1941年には日本で活動する朝鮮出身者とともに朝鮮新美術家協会を結成し、同年3月には東京、5月には京城(現・ソウル)で創立展を開催しました。
一見、順調に見える日本での大学生活――。
それでも時代が時代です。
戦局が悪化し、ジュンソプは強制徴用から逃れるために、1943年、帰郷します。しかしその後も方子のことが忘れられず、1945年5月には元山(現・北朝鮮江原道)で2人は結婚しました。
方子には、韓国名「李南徳(イ・ナムトク)」を授けます。
意味は「南から来た徳の溢れる女性」。ジュンソプの喜びと愛を感じる素敵な名前です。
その後も夫婦仲は睦まじく、1947年には長男・泰賢、1949年には次男・泰成が生まれ(1946年に誕生した息子はジフテリアで亡くなる)、平穏な日々を送ります。
――しかし無惨にも、時代がジュンソプ家族を襲います。
1950年6月25日、朝鮮戦争勃発。
ジュンソプは戦火を逃れて釜山まで南下し、そこから済州島に渡ります。一日一日を生き延びるだけで精いっぱい。ほとんど無いに等しい食料を4人で分け合い、何とか耐え抜く日々でした。
それから1951年1月、ジュンソプは済州島南部に位置する西帰浦に新たな住まいを見つけます。
目の前には、みかん畑と海が広がる一軒家・・・。
無論、この間も貧困は変わらず、絵を描く道具も十分にはありませんでしたが、それでも家族がいるその光景は希望に満ち溢れていました。
そして、1年弱この地で過ごした後の同年12月、ジュンソプは再び釜山に戻ります。
しかしその後も、状況が好転することはありませんでした。
長期間の避難生活は、未来への希望だけで乗り切れるようなものではなかったようです。妻の南徳が肺結核に掛かり、息子たちも栄養失調に陥っていました。
ジュンソプは、3人を妻の故郷・日本に送る苦渋の決断を下します。
幼少期に父を失い、兄は朝鮮戦争が勃発してすぐに行方知れずに。母とは戦火から逃れるために南下したのを最後に連絡も取れず、消息すら分かっていません。
そして、今、ジュンソプに唯一残った家族の妻とふたりの息子までもが、去っていくことになるのです。
すべての人の生活が困難に満ちていた時代――。
それ以降のジュンソプは、絵を売ってお金を稼ぎ、家族と会うという一心で創作活動に没頭します。
もちろん、誰が想像しても決して容易ではない選択でした。紙1枚手に入れることすら厳しい時代。絵を描く材料も道具もなければ、あったとて買うお金もありません。
そんな過酷な環境下で見つけたのが、たばこ箱の銀紙でした。
ジュンソプは細く尖った道具を使って銀紙に彫り込みを入れ、その溝に黒いインクを流し入れることで線を際立たせて絵を描きました。
銀紙画の誕生です。
こうして生み出されたジュンソプ独自の銀紙画ですが、これは作品ではなく、あくまでも下書きとして制作されました。戦争が終わり、平穏な世界が訪れたら、これらを油絵に起こそうと考えていたのです。
しかし残念ながら、そのほとんどが油絵になることはありませんでした。
家族を見送って1年後の1953年、友人の詩人・具常(グサン)らが用意してくれた船員証を使って東京に渡り、妻と息子に再会します。
1週間だけの貴重な時間――。
これが、家族との最後の時間となりました。
韓国に戻った後は、人の紹介で慶尚南道の統栄に移り、個展を開きます。その後も、各地で開催される展示会に出品し続けました。
しかし、生活に十分なお金は得られません。
それでも、絵をたくさん売ってお金を稼ぐことが家族に逢う唯一の方法だと自身を奮い立たせて、それまでに描き溜めた絵で個展を開くことを決意します。
そして1955年、ソウルの美都波百貨店で個展を開き、油絵、銀紙画、鉛筆画など計45点を出品、約半分の20点余りに買い手がつきました。
ここまでは、悪くなかった―――。
結局、その買い手のほとんどが、作品を受け取ったっきりお金を払うことはありませんでした。
これもやはり、時代のせいなのでしょうか。
混乱と混迷が色濃く渦巻くこの時代に、絵画を正当に取引するシステムはありませんでした。何とか気力を振り絞って残りの作品を手に大邱まで下り個展を開催するも、そこでの成果は微々たるもの。
こうして、戦時中の5年間に描きためた唯一無二の作品たちは、失望だけを残してジュンソプのもとを去ることになったのです。
――1956年、40歳を手前にしたジュンソプはソウルにいました。
アルコール中毒が進み、統合失調症の症状まで出ていたという話もあります。心配した友人たちは、ジュンソプをいくつかの病院に入院させますが、もはや病に打ち勝つ力は残されていなかったようです。
同年9月6日、栄養失調と肝炎で入院していた赤十字病院の病室で、孤独の中、画家イ・ジュンソプは亡くなります。39年の、短い人生。
当初は無縁者として客死扱いされ霊安室に安置されていましたが、3日後に友人の詩人・金利錫(キム・イソク)がジュンソプの見舞いに行き、この事実が判明しました。
今回の旅行に先立ち読んだ書籍には、以下の一文がありました。
イ・ジュンソプの人生を知れば知るほど、この言葉が意味するところを深く感じます。
・・・そして、あまりにも、時代が悪すぎた。
物語を読むにつれて心が痛くなり、涙が溢れて仕方がありませんでした。もうね、号泣。自分でもびっくり。
何で家族と一緒に日本に行かなかったんだろう・・・。百歩譲って家族を見送ったのは仕方がなかったとしても、画家以外の仕事も見つけようとしていたら、もっと会いに行くことができたんじゃ・・・。
同じように日本統治時代に現・北朝鮮に生まれ、朝鮮戦争の戦火から逃れるために済州島に渡った画家たちは他にもいました。張利錫(チャン・リソク:1916~2019)なんかがそうです。
もっと、他の生き方はできなかったのだろうか。
そんなことを考えればかんげるほど悔しく、ともすれば怒りに似た感情すら覚えましたが、それは、私が何も分かっていなかったからだと思います。
他国に占領され、解放されたかと思えば、今度は国を分断させる戦争が勃発。兄や母とは生き別れ、以降、故郷の北朝鮮へは戻ることもできませんでした。帰る家はありません。作品もすべて置いてきました。そんな状況下でも、ジュンソプを奮い立たせていたのは家族だけでなく、朝鮮人として民族精神を表現するという固い意思と誇りだったのだと思います。
生きることと、画家であることは、同義語――。
そして、思い出しました。
そうだった、終戦後も1965年まで、日本と韓国は国境がなかったんだ。
韓国に滞在して10年以上――。こんな言葉、すっかり忘れていました。
あそこで海を渡っていれば、朝鮮半島には二度と戻れない可能性があったわけです。そんな状況下で、もっと他の生き方があったはずなんて、軽々しく言うもんじゃない・・・。
そう思った瞬間、人生で初めて「一番近くて、一番遠い国」がリアルに感じられ、涙がさらに溢れ出ました。
◇◆◇◆◇
李仲燮美術館
生前は苦難の連続だったイ・ジュンソプですが、1970年代に入ると画家として再評価を受けます。
そして、彼が亡くなって約40年の月日が経った1995年、韓国政府の文化体育部によって、ジュンソプが暮らした済州島西帰浦に記念碑が建立され、翌年の1996年には360メートルの李仲燮通りが指定されました。また、ジュンソプが生活していた家屋を西帰浦市が買い取り、復元された現在では李仲燮公園の一部として一般公開されています。
2002年、このジュンソプの居住地の隣に、李仲燮美術館は開館しました。
規模は大きくありませんが、1階の常設展には油絵、銀紙画、家族に宛てた手紙・絵葉書などが展示されています。
◇◇
◆絵画
こうして自身の美術観が開館し、全国から来館者が訪れる国民画家になるとは、果たして、当の本人は想像しえたでしょうか。
ジュンソプの愛らしい作品で飾られた西帰浦の街を歩き、美術館に展示された絵画を眺めていると、過去に戻ってこの様子をイ・ジュンソプに伝えてあげたいと、そう感じます。
◇◇
◆銀紙画
画家としてのイ・ジュンソプの価値を高めたのが銀紙画でした。
1955年、アジア人画家として初めてニューヨーク現代美術館(MoMA)に作品が収蔵されたのがイ・ジュンソプであり、そのときの3点は銀紙画でした。
しかし、銀紙絵は当初から評価を得ていたわけではなく、1955年にソウルの美都波百貨店で開催した個展では春画とみなされ、強制撤去されたといいます。
◇◇
◆手紙と絵葉書
美術館には、妻思いで子煩悩だったジュンソプが、日本にいる家族に宛てた手紙と絵葉書が展示されています。
妻・南徳とは、学生時代から手紙のやり取りをよくしていました。
つたなくも、優しさに溢れた言葉から伝わるのは、家族への愛。彼の純粋かつ真摯な心を強く感じます。
◇◇
◆ジュンソプが使用したパレット
2012年、南徳夫人は、夫の分身として70年間大切に保管してきたパレットを美術館に寄贈しました。
◇◇
◆李仲燮が家族と過ごした家
1年弱の間、ジュンソプが家族とともに過ごしたその家屋は、まるで時間が止まったような雰囲気がありました。
おそらく、昔もそうだったであろう長閑で自然豊かな西帰浦。
夏の終わりに訪問しましたが、蚊が多く、決して住みやすい環境ではなかっただろうことが伺えます。
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国民画家のイ・ジュンソプがこの世を去って65年以上――。
2022年8月。李南徳(山本方子)夫人がお亡くなりになりました。
享年101歳。
帰国後の日本で、そして夫亡き後、どのような想いで過ごされていたのでしょうか。再会したおふたりの幸せが、永遠に続くことを願って――。
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