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韓国扶余の旅#04. 百済(くだら)という呼び名と世界遺産扶余定林寺跡

 前回記事の続きです。


百済(ベクチェ)を「くだら」と呼ぶ謎

 扶蘇山城からはこの白馬江号に乗って街まで戻りました。

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 ずっと疑問に思っていたことがあります。

 なぜ日本では百済を「くだら」と呼ぶのか。

 百済は韓国語の発音で「ベクチェ(백제)」といいます。漢字の「白」が「ベク」、「済」が「チェ」です。「くだら」とは読みません。

 また、日本語で考えても、この漢字を「くだら」と読むのはほぼ不可能でしょう。では、なぜ「くだら」と呼ばれているのか。『日本国語大辞典』と『朝鮮を知る事典』によると、以下のような説明がされているそうです。

 『日本国語大辞典;第4巻』の「くだら(百済)」の項を見ると、その語誌について、「「百済」をクダラと訓む由来には諸説あるが、馬韓地方に原名「居陀羅」と推定される「居陀」という地名があり、これがこの地方の代表地名となり、百済成立後、百済の訓みになったという説が最も合理的か。」と説明されている。さらに、語源説としては「クは大の意。タラは村落の義」とも説明されており、語誌、語源説共にその他の説に付いても記載がされている。また、『朝鮮を知る事典』では、「くだら(百済)Paekche」の項に、「(ひゃくさい)と音読するのが一般的であるが、日本では大村などを意味する朝鮮の古語を訓読して(くだら)と呼びならわしている。」と解説されている。
レファレンス協同データベースより)

 しかし、今回の扶余旅行では、これらとは全く違う説を聞きました。

 それは、この白馬江の渡船場一帯を「クドゥレ(구드래 )」と呼んでいて、それが変化して「クダラ」になったという説です。

 当時、百済はクドゥレ渡船場を通じて諸外国と文物交流をしていました。従って、この渡船場を通じて先進文物を受け取った日本人にとって「百済」は「クドゥレ」だったのです。このクドゥレの発音が変化し、「クダラ」となったのです。

文化日報オピニオン『백제 -‘구드래 ‘구다라’(百済-「クドゥレ」と「クダラ」)』より)

 こちらの説の方が説得力がある気がします。特に「クドゥレ」と呼ばれる渡船場で文物のやり取りをしていたのなら、百済を指す際に渡船場の名前を使い、それが広またっとしてもおかしくありません。

 長年抱いていた疑問が解けた気がして、とてもすっきりしました。


定林寺跡(정림사지)

 旅に戻ります。

 午後は扶余市の中心地にある定林寺跡(정림사지)へ行きました。こちらも世界文化遺産百済歴史遺跡地区のひとつで、史跡第301号に指定されています。

 定林寺跡は百済が扶余に都を移した時期(538‐660)の中心寺刹(寺院)があった場所です。

 発掘調査の際、講堂跡から出土された瓦から「太平八年戊辰定林寺大蔵唐草」という文章が発見されたことから、高麗王8代の顕宗19年(1028)当時は定林寺と呼ばれたことが分かります。これにより、高麗時代に百済寺刹(寺院)の講堂の上に再び建物を建てて大蔵殿にしたと考えられています。

 発掘調査時に現われた中門の前の池は整備され、石仏坐像を保護するための建物は1993年に建てられました。

 定林寺跡には百済の時に建てられた五重石塔(国宝第9号)高麗時代に造られた石仏坐像(宝物第108号)が残っています。出土された遺物としては百済時代と高麗時代の装飾瓦をはじめ、百済の硯、土器、土で作った仏像があります。

文化財庁国家文化遺産ポータル『扶余定林寺跡』より。加筆しています)


◆百済時代の定林寺の姿

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 当時の定林寺はこのような姿だったと推測されています。

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 定林寺跡は百済時代の典型的な伽藍(※)の配置を備えています。中門、石塔、本堂、講堂が南北一直線に配置され、僧坊と長屋に囲まれた形式をしています。定林寺の存続期間に関する正確な根拠資料はありませんが、百済の消滅とともに消失したものとみられます。これは、定林寺跡の発掘調査から本堂跡の赤く焦げた土層が発見されたためです。

 定林寺は百済後期の首都である泗沘都城の中心部に位置し、当時は非常に重要な寺院であり、中国から伝わった仏教文化が百済の仏教文化として完成された証拠でもあります。 定林寺跡は講堂をもつ百済式の1塔1本堂様式で、これは百済寺院の特徴です。以降、講堂を配置する伝統は高麗時代まで続きました。

扶余郡世界遺産百済歴史遺跡地区『定林寺址」より。加筆しています)

(※)伽藍とは「僧があつまり仏道修行をする清らかで汚れのない静かな場所」という意味で、そこから転じて「寺」「寺院」という意味も持ちます(WURK『「伽藍」の意味と使い方、語源、読み方とは?代表的な伽藍配置には何がある?』より)。


◆門と池

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 定林寺跡に入る門です。

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 門を潜って少し歩くと、道の左右に整備された池が現れます。

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 小さな橋を渡った先には広大な敷地が広がり、その先には五重石塔と石造如來坐像を保存している建物が確認できます。


◆五重石塔(오층석탑)

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 五重石塔(오층석탑)は定林寺で現存する唯一の百済時代固有の石塔で、国宝第9号に登録されています。

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 石塔の高さは8.8mになります。表面には唐が百済を滅亡させた伝承記念の内容が刻まれており、これは百済王朝の運営と直接関係のある象徴的な空間として定林寺が存在していたということを示しています。

 また、定林寺で現存する唯一の百済時代固有の石塔である五重塔は木塔の構造的な特徴をしています。 定林寺跡の石塔をはじめとする百済の石塔建築技術は、以降新羅と続き、韓国が石塔国となる礎を築きました。

扶余郡世界遺産百済歴史遺跡地区『定林寺址」より。加筆しています)

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◆石造如來坐像(석조여래좌상)

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 この建物の中に、宝物108号に指定された石造如來坐像(석조여래좌상)があります。こちらの建物は石仏坐像守るために1993年に建てられました。

 定林寺は百済時代の遺跡ですが、石造如來坐像は高麗時代に造られたとみられています。

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 石造如來坐像は五重石塔との南北線上に置かれており、その高さは5.6mになります。

 頭部と頭の上にある宝冠は制作当時のものではなく、後世に新たに付け加えられたものです。胴体部分も損傷が激しく形がかろうじて残っているだけで、細部の様子や作成時に用いられた手法は分かっていません。

 ただし、肩の形と胸の上にのせられた左手の表現から、左手の人差し指を右手で包んだ智拳印を表現したものと推定されています。智拳印は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の特徴的な手の形で、仏法としてすべてを包むということを象徴しています。

定林寺跡博物館『定林寺址石仏坐像』より。加筆しています)

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<智拳印:韓国国立中央博物館より>

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 こちらが後ろ姿です。仏像のわりにはとても薄っぺらい印象を受けます。

 ちなみに、この後から付け足されたとされる頭部ですが、中心に丸い穴があるのが見えますか? これには次のような話が伝わっています。

 朝鮮時代、定林寺近隣に住んでいた住民が、頭のない石造如來坐像を見てかわいそうに思い、村にあった石臼を顔に見立てて胴体の上に置きました。

 後ろから確認できる穴は石臼の穴で、仏像の耳のように見える両端にある長方形のでっぱりは取っ手と推測されるそうです。

 頭の上に帽子まで乗せちゃって、その発想が何だか可愛らしいですよね。日本、もとい、韓国昔ばなしにでも出てきそうな心温まるお話です🥰


◆おまけの写真

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  広大な敷地に残る百済の遺跡と高麗時代の面影、そして人々のお話ーー。

 おすすめの観光スポットです。


 次回に続きます。

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