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no.2 幼少期の私

父は事業をしている家庭で甘やかされて育ち、せっかく入った京大も中退。
なんと勿体なかった事か!ぶっ飛び道楽息子過ぎる!

そんな父と結婚した母は、これまた特殊な経歴の持ち主、ぶっ飛んでいる。
裕福な家庭を捨てて駆け落ちした祖父と、そこまで祖父を夢中にさせた祖母の間に生まれ、電電公社(現在のNTT)に勤務後、ぶっ飛び道楽息子と結婚したのだから。

そのぶっ飛びファンキーな両親のもとに長女として私はやって来たのだった。

3歳の私と両親

私が生まれる前は両親2人、相続した物件でお店を経営していたらしいが、暫くすると母が“私だけでやるからいい”と宣言したという。
とはいえ父はヒモだったわけではない・・・
ん?ヒモだったのかな?いや、やっぱり流石にヒモではないか😅

色んな事業にチャレンジするも、たいしてうまく行かず・・・
そぅ、父は人がいいだけで全く《デキる男》ではなかった。
当時は分からなかったが、ノエビア化粧品を始めいくつかのネットワークビジネスに手を出していた。
ネットワークの血筋は父からだったのかもしれない・・・

今思うと、チャレンジばかりする父を見て育ったから、自然と自由奔放でチャレンジする男が好きになったのかも・・・と、のちにダメンズを支えた事に繋がる気がしてならない。

父も最後はやっと落ち着き、長年、貴金属の下請け加工を営み真面目にはやっているようだった。

とはいえ、母に委ねられたお店は甲府では知らない人は居ないくらいの有名店となり大繁盛し、家計は母が支えていたように思う。
そぅ!父は最後までビバ道楽息子だったのだ。

やり手の母によりお店は大繁盛の有名店に

そんなどこか風変わりな両親の元、兄の誕生から6年後の3月終わりに私は生まれた。
しかし私の誕生日は4月3日!
何故か?
未熟児だった私を心配した両親が、学年を1つ遅らせようと山梨では雛祭りにあたる4月3日で届けたのだった。
つまり私の出生は不明であり、生年月日で占いをみたくても通用せず。
誕生からしてワケの分からないスタートだった。

父が道楽息子であっても実家が金持ちプラス母の商才のおかげで、全額キャッシュで建て直した家に住み、私たち兄妹は欲しい物は与えられ旅行にもあちこち連れてってもらえた幼少期を過ごした。

そして私は中2からアイドルバンドにハマった。
当時大人気だった《LAZY》である。
忘れもしない中2の2月、今は無き八ヶ岳パンテスコープという屋外スケート場で《フィンガー5🆚レイジー》という公開録音があり、主催ラジオ局に勤務していた叔父から『遊びに来れば?』と声をかけてもらったので、友達2人を連れ、父に車で送ってもらい見に行った。

八ヶ岳パンテスコープの事務所らしき建物が楽屋になっていて、そこに通された。
別に特別誰か好きとかでは無かったのに、誰かにあげようと何故かプレゼントを用意して行った私!しかも何故かネクタイ!
今思えば何ともませた中2である。
3人で楽屋で大人しくしてると、レイジーのファニーが近づいて来た。
『どっから来たん?』あの時の優しい笑顔と声は、今も脳裏に焼き付いている。
『甲府から』と答えると、『これプレゼントです』とネクタイをすかさず渡した私。

すると!!!

ファニーは開けていいか私に聞いてから開封し、プレゼントのネクタイをその場で付けてくれたのだ!
しかも!
衣装がシャツにネクタイだったのに!まさかまさかのネクタイONネクタイ!!そりゃー恋に落ちるわさ。
私の追っかけ人生の幕開けとなった。

私が恋に落ちたファニーの隣は世界に誇るギタリスト
高崎晃🎸SUZY(笑)
写真じゃ分かりづらいかものネクタイonネクタイ☝️

【何かに一所懸命になれるのは貴方の心が純粋な証拠】という名言を放ったぶっ飛んだ母。
道楽息子より権限を持った母が追っかけを理解し応援してくれたおかげで、中学は東京止まりだったが、高校になると学校をズル休みしてはあちこちに遠征。
NHKの人気番組《レッツゴーヤング》の公開録画にもよく行ったし、ただの出待ち入待ちすら足を運んだ。

大好きなファニーに会いたい想いが強過ぎて《会いたい→行く→学校を何日休まなければならないか→何と言って休むか》の思考パターンとなり、この階段のように考える事が追っかけがきっかけで私の中に根づき、以降の人生にも大きな影響を与える事になった。

私が追っかけに明け暮れる頃、ファニーと同じベーシストだった兄はせっかくプロのスカウトが来たのに断っていた。
東京行ってプロミュージシャンになってくれれば、ファニーにもっと近づけるかもしれないのに!!男なら勝負しろ!と思った私だった(笑)
兄はその後、ダンスに夢中になり山梨ではファンも居るちょっとした有名ダンサーで、なんでもTRFのSAMさんは後輩らしい。あくまで本人談だが・・・

人気絶頂の中、レイジーは解散。
学校を休んで行った、1981年5月31日の名古屋公演がラストコンサートとなった。

最後のアルバムは本人たちがやりたかった音楽を追求
日本のハードロックの幕開けとも言える名盤に

ボーカルのミッシェルは影山ヒロノブでソロデビューし、誰もが知るアニソンシンガーに。
🎵cha-laへっちゃら〜🎵のドラゴンボールの主題歌は一番の代表曲だ。
そしてドラムスのデイビーとギターのスージーはヘヴィメタルバンドLOUDNESSを結成。LOUDNESSは日本人初ビルボードにランクインする等、世界進出を果たし今も活躍している。
一方、私の王子様ファニーはキーボードでパイナップルヘアーが代名詞だったポッキーとポップロックバンド、ネバーランドを結成。
レイジーは3つに分かれた。

ネバーランドだけが一向に売れず💧
ただその分レイジー時代よりかなりお近付きになれた私は、さらに追っかけに熱が入り、親のお金で北海道や九州どころか海を越えてハワイまで🌺🛫
道楽息子の父の血を引いた道楽ドラ娘は、大学卒業後に就職したFM局では職権濫用。
生ワイド番組のゲストに呼んだりもして、かなり頑張ったのだった。

ぶっ飛び道楽ドラ娘の友達もぶっ飛んでいて、中でもH美は一か八かの行動に出た。
それがきっかけで大好きで追っかけしていたネバーランドのボーカルと結婚し、今も仲良く幸せに暮らしている。

H美とひきかえ私はというと・・・
道楽ドラ娘のくせに意外と純粋w
ファニーが好き過ぎて喋れない!
長すぎるまつ毛を『みさちゃん、銭形警部みたいなまつ毛やなぁ』とイジられても照れるだけ。

ある日、泊まりのファンクラブイベントのフリータイムでいきなりお姫様抱っこされた時も同じく照れるだけだった。
H美のように一か八か!当たって砕けろ的な気合いと根性があれば、私の人生また違うものになっていたのかもしれない。
今なら喜んで抱っこされるわ!なんならそのまま💋チューしたり押し倒してしまうかもw

いきなりのお姫様抱っこに嬉しいような恥ずかしいような
体重が気になって仕方ないような私

大好きで大好きで・・・
恥ずかしくて何も出来なかったあの頃の私を《軟体動物みたいにくねくねしてる》などと、からかったファニーは2006年9月1日に他界した。
一生忘れられない一生大好きな特別な存在。
ファニー!!来世で待っててね!
今度こそ押し倒して目指せ嫁の座だから!

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①プロローグ

③就職は📻️FM局

④ネットワークビジネスで💰️月収100万ゲット!からの奈落の底

⑤ネットワークビジネスでド貧乏、そこからの再起

⑥水商売を卒業し焼肉屋をスタート

⑦2回目のネットワークビジネスで成功、そのキモとは?

⑧ネットワークビジネスの光と影

⑨これからの副業



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