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美大卒じゃない私がチャンスを掴んでデザイナーの夢を叶えた話(自己紹介)

あみだの答え。
①シュークリーム
②最中
③アイス
④豪華にモンブラン!
⑤何も食べない

こんにちは!

本業は企業の業務委託をしているデザイナーです。副業ではコンテンツ販売用のサムネイル制作をしています。

Canva(無料版)で作れるサムネテンプレートという商品も販売しています。(よろしければぜひご覧ください(^-^))

このnoteでは、自己紹介を兼ねて美大を卒業していない私が当時ベンチャー企業のデザイナーになりその後デザイン事務所に就職し、チャンスを掴むことが出来た紆余曲折ストーリーを書きました。

お付き合いしてくださったら幸いです(^-^)

ふつーの子供時代

ふつーの子供時代でした。


絵やモノ作りが好き

昔から、絵や工作が好きでした。ちょっとご紹介(^^)

インコが大好きなお友達に描いた絵。
友達が飼っているポメちゃん。
コロナの自粛時期に「材料を買わずにどこまで作れるか」勝手にチャレンジ(笑)材料は、アイスの棒、端布、針金。


シンクは、実はポテチの袋をカットしたもの。ボウルは錠剤が入っていたプラスチック(笑)


ぬるま湯高校時代

勉強は大っ嫌いでした。でも部活だけは頑張っていたかと思います。

部活は陸上部でした。練習はハードでこの陸上部で培った根性がのちに生かされたかなと思っています。中距離だったのですがタイムも結構良いほうでした。

大学進学について、なんとなく憧れだけで美大に行きたいと思い親に頼んで高3から造形専門学校に通わせてもらいました。

しかし、周囲のレベルの高さに圧倒されてしまい結局挫折します。

今思えば美術の成績が良いからと安易に考えていたんでしょうね。地道に努力しようという情熱すらない根性なしでした。

こうして、エスカレーター式に付属の大学にぬるっと入学しました。

親がベネズエラに住む

実は高校卒業後、親が離婚して母親は外国人と再婚しました。

母に会いに何度かベネズエラに遊びに行きました。日本との文化の違いや貧富の差に衝撃を受け、その後の私の考えに大きな影響を与えました。

このお話はまた今度書きたいと思います。


大卒後もぬるま湯OL

大卒後は金融系の会社に就職しました。バブル崩壊直後でしたので就職活動は大変でした。

職場の待遇や人間関係はとても良く、バブリーな先輩や上司がおごってくれることも多くて適度に暇な時間もあり(笑)、とても楽しかったです。

でも働いていくうちに「好きなことを仕事にできたらいいな=デザイナーになりたい」という気持ちがどんどん大きくなっていきました。


おいしい社食がありました♪

今のようにインターネットがないのでデザイナーの仕事について調べる術を知らず、当時はデザイナーの仕事=パッケージ、広告、CMぐらいだと思っていました。

そんな浅い知識と情熱だけでここから突き進んで行きます。

まずは、自分でできることを始めてみようと思い、「デザイナーといえばMac」という単純な理由で2年目のボーナスと貯金を使ってPower Macintosh 7300を購入しました。同時にAdobe IllustratorとPhotoshopも手に入れました。

そこから独学で、デザインとは言えたもんじゃない作品まがいなものを作り始めました。

初めて購入したmacはこのタイプ。立ち上がりに何十秒も待たされました。




しばらくしてから、やっぱりデザインの基礎をしっかり学びたいと思うようになり、仕事が終わった後夜間の専門学校に通いました。

そして、次の就職先も決まっていないのに会社を退職することを決意しました。入社3年目のことでした。

フォトショやイラレを少し使えるようになり夜間専門学校で就活で見せられる作品が出来たというだけで、転職はきっと決まるだろう!と安易に考えていました。

仕事が決まらない

インターネットが普及し始めたばかりの時代でしたので、まだホームページを持つ企業は少なく、Webデザイナーという職業自体の募集もほとんどありませんでした。

私自身も当時、Webデザイナーという仕事があることは知らなかったので選択肢に入っていませんでした。そこで、まずは広告関連のデザイン会社に応募することにしました。

専門学校で制作した作品を持って数社の面接に行きましたが、実績もなく即戦力にもならない私は全ての会社で不採用に。

ここで、計画性の欠如や『フォトショやイラレさえ使えるようになればデザイナーになれる』という安易で浅はかな考えを持っていた自分に気づかされます。

これだけ面接に落ちると否定されたような気持ちになり、向いてないんだろうか?とネガティブな気持ちにもなりました。

意気揚々と会社を辞めて面接に挑んだマインドもどこかへ行ってしまいました。

でも生活しなければならないので、テレビ局の美術進行のバイトを始めました。

美術進行の仕事は美術関連の備品発注、撮影前後の準備や撤収、撮影中のサポートなど多岐にわたります。ドラマのロケでは美術トラック(美トラ)に備品など乗せて現場へ行き、セットの設営なども担当しました。

地方でのロケに同行したり、事件の再現シーンでは血糊や死体用の人形を美術倉庫に発注したりと、普段は経験できないユニークな仕事もたくさんありました。エンターテイメントの裏側を知ることができて思いのほか楽しく働いていました。

ただし体力的にキツイ仕事でした。特にドラマのスタジオ撮影は0時を過ぎることが頻繁で、睡眠不足が続きました。



バイトをしながらも常に自分の将来について考えていました。テレビ局の仕事は楽しく、「このままでもいいかも」と流されそうになりましたが、ある日『本当にやりたいことに一歩も近づいていない』と気づきます。

ちょうどその頃、Webデザイナーという職業が少しずつ注目され始め、Webデザイン専門の学校も次々と開校されていました。

私は「デザインの世界に入るにはWebデザインしかチャンスがない」と思い、仕事の合間を縫ってインターネットアカデミーという学校に通い始めました。

ちなみに、インターネットアカデミーは当時は新宿の小さなビルにありましたが、今では大きな専門学校に成長しています。


この頃使っていたmac G3

バイトだけど、やっと念願のデザインの仕事に就く

HTMLという武器を手に入れ「とりあえずバイトでも何でもいいからデザイン系の仕事に就こう」と決心し、仕事探しを始めました。

そんな中、偶然見つけた小さなデザイン会社にWebデザイナーとして採用して頂きました。バイトとはいえ本当に嬉しかったです。

その会社で約1年間働きましたが、小さな会社ながらも非常に良い環境でした。

先輩デザイナーからデザインの基礎や、複雑なHTMLでのテーブル組みの方法(当時はまだCSSでのレイアウトは一般的ではありませんでした)、Photoshopのテクニックなど多くのことを学び、それを実務で活かしていきました。

常に求人情報にアンテナを張っていたら、、

その小さな会社で働きながらも常に求人はチェックしていましたが、とある求人が目に留まりました。

その求人とは、今は大きな企業になりましたが当時はまだベンチャーのインターネット通販企業でした。

すぐに応募して面接を受けたところ採用していただき、ついに正社員としてデザイナーになるという長年の夢が実現しました。

このときは本当に嬉しかったのを覚えています。

やっと正社員としてデザイナーになる


その企業は今では東証一部上場の大企業に成長しましたが、私が入社した当時は、小さなビルにオフィスを構え、従業員も約60名ほどの規模でした。

社内はベンチャー精神に溢れていて若い社員が多く、どの部署も活気に満ちていました。

ちょうど今のAI革命のようにインターネットで先行者利益を得ようと、企業間の競争が非常に激しくなっていました。

私の仕事内容は、企画ページやバナーの作成、さらにガラケー用のページデザインでした。マーケティング部の方と打ち合わせを行い、デザインを作成した後、それをコーディングして開発部に渡すというのが、主な仕事の流れでした。

社内全体が深夜までの残業を厭わない雰囲気で、特に制作フローの下流にいるデザイナーやシステム開発部の人たちは、残業が当たり前のようになっていました。開発部の中には、会社に布団を持ち込んで寝泊まりしている人までいました。(笑)

もちろん私も例外ではなく残業漬けの日々。でも陸上部で培った体力と精神力、そして何より楽しいという気持ちで日々乗り越えていました。


ほぼいつも同じ店に行ってました。

また、会社が日々成長していく姿を目の当たりにしながら働けることにとてもやりがいを感じていました。

半年ほど経つと、会社が上場し社員数が急増。社屋も新しい場所に移転しました。次々と新しいサービスがリリースされ、企画会議も増えていきました。企画会議自体は楽しく、会社の急成長を肌で感じていました。

社長が朝礼でよく「ビジネスはスピード!!」とおっしゃっていたのを今でも覚えています。しかし、当時の私はデザインのクオリティよりもスピードを優先するという社風に、どこかモヤモヤした気持ちを抱えていました。


でも、経験を重ねた今では「ビジネスはスピードが最優先!」という言葉に強く共感しています。

自分が思いついたアイデアは、同時に誰かが別の場所で同じように思いついていると考えるべきです。だからこそ、一番を取りたいなら誰よりも早くそのポジションを確保するために全力で動くべきだと感じています。

スピード感を最優先してきた社長だからこそ、あの会社を大企業へと成長させることができたのだと今では心から納得しています。
AI革命が起こっている今も、企業の成長にはスピードが命ですね。

中学生向けの雑誌の取材を受けました。職業紹介コーナーです。

念願のデザイン会社へ転職

その後、さらにデザインの幅を広げたいという思いが強くなり転職活動を開始しました。

幸運にも、比較的大きなデザイン会社に採用していただきました。そこではコーディングとデザインが完全に分業されていて、私はデザインに専念することができました。最初はアシスタントデザイナーとしてスタートしました。

顧客には大企業が多く、普段は見ることができない企業のロゴ規定書などに触れる機会が増えました。

また、前職では経験できなかったデザインガイドラインの作成にも関わることができました。

その会社は前の会社よりもさらに忙しく、頻繁に会社に泊まって作業をしていました。

タイヤ付きのオフィスチェアを2つ並べて器用に寝たり、朝は給湯室のシンクで顔を洗ったりしていました。

完徹も何度かしましたが、当時それを辛いと感じたことは一度もなかったですし体調を崩すこともありませんでした。

デザイナー仲間と深夜にデザインについて語り合った時間が楽しかったからです。

結婚〜退職

付き合っていたパートナーと結婚することになり、さすがに頻繁に会社に泊まる生活を続けるわけにはいかないので、退職を決意しました。その後は派遣登録をして、某企業のWEB制作部でしばらく働くことにしました。


子育て〜介護〜パニック障害

子供が生まれた直後は完全に仕事から離れましたが、これまでの仕事の繋がりから依頼が来たためフリーランスとして活動を始めました。

順調だった矢先、海外に住む母が急に病気になり帰国しました。そして、子育て&仕事&介護の3つ重なる生活が始まりました。

そして、とうとう母の容体が急変し突然の別れとなってしまいました。

介護中に私自身もからだの異変がありました。それはパニック障害の前兆でした。意味のわからない過呼吸、電車や映画館がなんとなく怖い、そして母の他界後に完全にパニック障害と社会性不安障害を発症しました。

初めて経験するその症状に、何が自分に起きているのか全くわからずとても恐ろしかったのを覚えています。

電車、レストラン、学校の懇談会、映画館、美容室など、どこに行っても過呼吸に近い状態になり怖くなってしまうので、そういった場所に行くのがどんどん難しくなりました。

睡眠も、早期覚醒と言って1時過ぎには目が覚めてしまいそこから全く眠ることが出来ませんでした。悪夢もたくさん見ました。

でも、病気のままでいたくない、それまで健康だったのだから「絶対に治るはず!」と信じ、パニック障害に関する本をたくさん読み漁りました。20冊は読んだと思います。

また、友達に自分の状態を打ち明けて、学校の懇談会では隣に座ってもらったりレストランに入る練習を付き合ってもらったりして、少しずつ耐性をつけていきました。(この方法が正しかったかはわかりませんが、外に出たいという強い気持ちがあった私には向いていたようです。)

心療内科の薬も飲み、初期にはカウンセリングも受けました。幸運にもとても良い先生に出会い、2年かけて完全に回復しました。

今では、完全に元通りの生活を送れています。夜も超ぐっすり眠り、充実した気持ちで毎日過ごしています。

最近の私

ずっとバドミントンが好きで暇さえあれば練習に行っていました。


しかし、サムネイル制作という副業に出会ったことで夢中になれるものが1つ増えたため、さらに1秒でも無駄にしたくないという気持ちで毎日を過ごしています。

夢を掴むために必要なもの


人生を駆け抜けてきて偶然夢を掴めたと思っていましたが、このnoteを書きながら振り返ってみると、必要なものは揃っていたかなと思います。

それは、
・やり抜く体力
・情報に敏感
・常に学ぶ姿勢

この3つは今も自分を構成する要素です。

このようなマインドでいられる理由はなんだろう?と振りかえってみたのですが、高校時代の陸上部のハードな練習とベネズエラでの衝撃的な経験の数々、パニック障害を自力で乗り越え克服したこと、これらの経験なのではと思っています。

また、この3つの中で私が最も大事だなと思うのが「体力」です。

体力があれば勉強し続けられる、
体力があれば途中で諦めない、
体力があれば人より多くのことを経験できる(時間を有効に使える)
体力があれば、いつも機嫌よくいられる

そして、体力を支えるのは食事!
食事=夢を実現するための下支え、だと思います。

ご飯しっかり食べてくださいね。


ご精読ありがとうございました(^0^)