第二回「集まるが大事」の雑駁なメモと感想 1

「集まるのが大事」という合宿勉強会に行ったので、その内容と感想を書いておこう。


高木氏の講義「民藝という『抵抗』」では、
民藝の重要な本旨に「~だから賞揚する」ではなく「~にもかかわらず賞揚する」という姿勢があり、それは民藝以前から一貫していた柳宗悦の姿勢だったという話があった。
また、工藝は能や床屋のハサミの調子(多分電車の「ダァシエリイェス」でもいいだろう)のようなもので、自分の意図と先人の行為と実演時の環境が煮詰まってできる多声的な(フランシス・ベーコンのように多数の視点を一つにあわせたイメージ)ものだという話もあった。
ゆえに、個人の意図としてのデザインが、多声的な工藝のデザインの一要素になるには、濱田庄司が「覚えるのに十年、忘れるのに二十年」と言ったように、時間とリズムが必要ではないかという話もあった。
質疑応答では、
(東浩紀と外山恒一の対談で言われた「活動を持続するには不動産や実効支配地域が必要」という話等を意識したのだろうか)
「柳は民藝運動の拠点を持っていたのか」という質問に、
柳は日本民藝館や公募展(私が思うに日本民藝館の新作公募展のことだろう)を拠点にして活動していたという答えがあった。
私が思うに、
自分の意図と先人の行為と実演時の環境が煮詰まってできる多声的な工藝というのは、美術史の様式や考古学の型式でも見られる現象だろう。
実演時の環境はさておき、自分の意図と先人の行為が煮詰まった工藝というのは、美術史や考古学の成果でも例証できるのだろう。

畑中氏の講義「革新思想(リベラル)の非西洋的起源について――市井三郎『近世革新思想の系譜』を読む」では、
市井三郎『近世革新思想の系譜』では中世~近代の日本にも独自の革新思想や革新運動があったと書かれているという話がされた。
質疑応答では、
「そういった民俗学の知見の、現代の運動に対する意義は何か?」という質問に、
現代の運動に使えるシンボルを見つけるという意義があり、また新しいものやブームが『感情の民俗学』等のベースにあるものの延長なのではないかということでもあるという答えがあった。
畑中氏と市井はそれらの近世革新思想が、知識人のものは経時的・空間的に繋がっているが庶民のものは経時的・空間的に断絶しており、
市井が執筆時に繋げた(それが1970年代後半に書かれて1980年に出版されたことには近現代の社会運動史上の意義があるという指摘も質疑応答で出た)と考えているようだ。
しかし私が思うに、
グレーバー『民主主義の非西洋的起源について』で、古今東西の民主主義には「多様な価値観の人々が寄せ集まって何かを協同する」という条件があったと指摘されたように、
洋学に依拠するもの以外の近世革新思想にも条件があり、
それは與那覇潤『中国化する日本』の「中国化」(独裁放経思想と言えるだろう)と「江戸時代化」(護命勤勉思想と言えるだろう)だろう。
すなわち、年貢減免運動と(市井の後書きで「Bタイプ」とされた)実感を基に内在的に発展した運動は護命勤勉思想に拠っており、それ以外は独裁放経思想に拠っているのではないか。
そして、近世革新思想には独裁放経思想と護命勤勉思想という歴史的文脈があるので、
日本のリベラルは独自の歴史的正統性を持っているということになり、一方では現代の運動に生かす時にはその歴史的文脈を踏まえる必要がある。ということになるだろう。

田中氏の講義では、
グランドレベルやセミパブリックの重要性が話された。
孤独の健康リスクは肥満の2倍であり、2040年は4割が単身世帯になるという話もあった。
「人口が多いまち」ではなく「人の姿がみえるまち」を目指すべきで、そのためにセミパブリックに人が集まる環境を作るべきだという話もあった。
子供は「よく見て」と言っても見てくれないが、「真似をして」と言ったらよく見てくれるという話もあった。
田中は「やるべきこと(目的、理念)」と「やりたいこと(欲)」と「やれること(能力や手段)」、則ち「専門外の人に建築、都市の面白さを伝えること」と「建築の世界に少しでも貢献したい」と「難しくない文章、楽しいアウトプット」の3つが揃った建築コミュニケーター・ライターを職業にしたという話もあった。
セミパブリックでキャンプイベントをした時に、主催者が用意した様々なワークショップに見向きもせずに人は勝手にキャンプを楽しんでいたが、そのような自発性こそセミパブリックに相応しい。よって、細々とコンテンツを整えて人に消費させるのではなく、場所を楽しむ自発性を引き出す環境を作るに留める方が良いという話もあった。
また、パーソナル屋台(文化祭の出店を個人単位にしてセミパブリックに出したものと言えるだろう)は、アドラーの幸福の「自分を好きである」「他者が信頼できる」「社会や世の中に貢献できる、役立っている」を参考にすると、
趣味には「自分を満たす趣味(読書とか)」と「他者と楽しむ、交流する趣味(バーベキューとか)」と「社会や世の中に貢献できる・役に立てる趣味」という三つのタイプがあり、パーソナル屋台はその三つ目だという話もあった。
セミパブリックに人を集めるには補助線のデザインをする必要があり、それにはソフトウェア(機能、サービス)、ハードウェア(空間・環境・視覚・体感)だけではなく、
その二つの元で人々が自力で活動し続けるようにオルグウェア(コミュニケーション・組織化のことだが、それを「オルグウェア」と呼ぶのが適当かは田中はわからないとも)も整える必要がある(ダンスステージで人を踊らせるには、最初の人がそれなりの塩梅で踊って雰囲気をあたためる必要がある)という話もあった。
また、セミパブリックに(排除デザインではない)ベンチを置くのも効果的だという話もあった。
質疑応答では、
「『セミパブリックに浮浪者が来たらどうするんだ!』と聞かれたら?」という質問に、
浮浪者が来たからといってどうもしないのではという答えがされた。
セミパブリックを開放してもらうには、「町内会・PTAを味方に付けたり、防災への意義を説いたり(顔も知らない人同士ではいざという時助け合えない)、神事(儀式)であると言う」のも効果的であり、これらは管理側の下っ端がその上司に説明する時に、稟議書の主張としてそのまま使えるからだという話もされた。
「(ホームレス経験のある人すら)ホームレスには近寄りがたいがどうすれば良いか」という質問に、
一つの室内には一緒に居たくないが、通りすがりに軽く話すくらいの距離ならいいと言うような、自分にとってバランスの取れた距離を見つけてはという答えがされた。
「元気がない時はどうやって活動しているのか」という質問に、
活動で会う人から元気を貰っているし、自分の元気を取り戻すために活動で世界平和に近づける方がいいという答えがされた。
「本当に厄介な人はセミパブリックから出禁にしてもいいか?」という質問に、
出禁にしてもいい。そして、追い出された人が別のセミパブリックで元気やっていけるように、色々な人がセミパブリックを作るべきという答えがされた。
「賃貸をセミパブリックにしている時のトラブルにはどう対処すべきか」という質問に、
大家への説明を密にするという答えがされた。
「公園等で起きる、来訪者と周辺住民の苦情・陣地合戦にはどうするべきか」という質問に、
「~禁止」は人への裁きであり慎重になるべき。これからの防犯は塀や警備会社ではなく周辺の人の目による防犯を取り入れてはどうか。また、行政が何を目指しているのかにもよるので、行政が何も考えていないなら「困窮者の社会参加を目指す」という考えを入れさせてセミパブリックを開放するという方向もあるという答えがされた。
「セミパブリックでは、結局ベビーカーや主婦のような多数派やキラキラした人に圧し出されてしまうのではないか」という質問に、
多数派やキラキラした人が居ても、堂々と振る舞っていいのではという答えがされた。

綿野氏の「みんな政治でバカになる」の講義では、
近代システムの前提である、人間は自立的かつ自律的だという考えに反し、人間は他者や環境の影響を受けやすくしばしば非合理的な選択をするし、二重過程理論のうち直観システムの影響が大きいという話がされた。
人は自分が個人としては政治にほとんど影響を与えられないので、政治に無関心になり、政治的無関心が非合理的激情に転化するという話もあった。
近年は推論システムを重視する理性説得派と、直観システムに訴えかける感情操作派がせめぎあっているという話になっていった。
理性が高いとフリーライダーになる(池谷 裕二『自分では気づかない、ココロの盲点』)という話もあった。
私が思うに、
直観システムに訴えかける感情操作というのは「不幸に遭った人に宗教勧誘する」のような話だと思った。
また、綿野に「電脳で脳のメモリを強化(90000エクサバイト=90ゼタバイトとか)すれば理性的近代人に至れるか」と質問してみたが、
ダマシオによれば理性主体だとエリオット(ダマシオのエリオットは事故で感情を失ったせいで自分の事すら他人事で、些細なことすら決断不能な人間になってしまったと言えるだろう)のようになってしまうし、仮にそうならなくても、理性が強いせいでフリーライダーになってしまうだろうと、綿野に指摘された。
このことから思うに、
自立的・自律的な近代人というのは、神になりたいという人間の願望が下地にあるだろう。
しかし神は感情に踊らされないが、理性が強いせいで実はフリーライダーなのではないか。
神は自立的しているので協力の必要が無い。だから協力がわからないか、蔑んでいるかのどちらかではないか。
そういえば、竹取物語では天女の羽衣を着ると人間の心を忘れてしまうという話もあった。
一方、昆虫や動物は理性が弱いが協力が上手い。人類に友愛を教えたのは狼だという説もあるようだ。
したがって、こういうレトリックが言えるだろう。
神は理性的だが協力を知らない。動物は協力的だが感情に流される。理性と感情において、人類は神と動物の間に居る。不完全だが、人間には理性と協力がある。



https://twitter.com/dazaist69/status/1382294772287639553

https://note.com/cexistentialism/n/n12efc5e0ec7d


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