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No.30 梅 2025年2月

「散りぬとも香をだにのこせ梅の花こひしき時の思ひでにせむ」(古今和歌集 巻第一春歌上よみ人しらず) 「花」と言えば、古来中国では三国志の「桃園の誓い」や司馬遷の「桃李不言下自成蹊(とうりものいわざれども、したおのづからみちをなす)」に代表されるように桃であり、日本では、菅原道真の「こち吹かば匂ひ起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」や凡河内躬恒の「吹く風を何いとひけむ梅の花散りくる時ぞ香は優りける」にあるように、「花」と言えば梅を指すのが平安時代までは主流でありました。桜を大々的に愛でるようになったのは、遣唐使が894年に廃止され国風文化が定着して以降であり、とりわけ宴会をしながら桜を愛でる習慣は、鎌倉時代の京都で生まれました。この習慣は武士の間でも流行り、武士が多く住む地方でも花見が開催され始めます。こうして花見は桜の木の下で「宴会」をするスタイルへと変化・定着していきます。武士が開催する花見は盛大となっていき、中でも豊臣秀吉が行った「吉野の花見」や「醍醐の花見」は桜の本数も参加した人数も桁違いの規模となりました。同時に桜の潔く散る様が、武士道的な思想とマッチし、鎌倉~室町~江戸時代と武家社会が発展する中、我々日本人の内に「桜を愛し、桜を惜しむ」精神が形成されていったのだと考えます。さて、一方の梅はというと、紅梅、白梅、そして黄梅の如く、色合いの違いを楽しみ、またそのはっきりと漂う芳香を楽しむ、愛でるというスタイルに自然と傾いていきます。江戸中期の絵師・尾形光琳の作品「紅白梅図屏風」はその典型で、琳派の代名詞となっている国宝作品です。また冒頭の歌のとおり、馥郁たる梅の香は、古来、愛しき人そのものや愛する人への気持ちを表現する形で用いられてきました。梅の残り香や移り香に我々日本人は淡い恋からせつない愛まで数多の愛情や恋心を投影してきたのです。
旧暦2月は「如月」ですが、「梅見月」という呼称もあるとおり、梅は冬から春への季節の変化をもたらす象徴でもありました。禅の教えを短い言葉で説く禅語にも梅にちなんだ言葉は多く、例えば「東風吹き散ず梅梢の雪一夜挽回する天下の春」があります。暖かく穏やかな春風が吹いて「煩悩」という積もった雪を溶かし、一夜のうちに春が到来した。寒い冬という「苦悩」の中、日々努力を続けていると、何らかの機縁で悟りの境地がやってくるという教えです。即ち「ライフシフト」的に考えると、我々は潔く散る「桜」よりも、冬から目覚め、春という境地をもたらし、香という自己主張を備え、梅の実・梅干しという価値も残す「梅」をこそ「我が心の花」として奉ずるという気になるのであります。 如何でしょうか?

水戸偕楽園の梅(筆者撮影)
紅白梅図屏風尾形光琳 江戸時代(18世紀)

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