人は幸せを恐れている!?酒に酔いながらふと考えたアドラー心理学的な話!
こんにちは!熊本の教育&勉強攻略アドバイザー、ブレイクスルー・アカデミー代表の安東正治です!
今日は酔っています!奥さんが今夜の食事を鍋にしてくれたんですが、鍋ならやっぱりビールだろ!ってことでガツガツ飲んだら結構酔いました(笑)
新型コロナウィルスでパンデミック騒動が起きてから外飲みがとんと減って家飲みばかり。飲む量自体はかなり減りましたが、たまに今日みたいにガッツリ飲むといつもよりほろ酔い気分になって色々本音の部分が出てきてしまいます^ ^
そんな私はタバコは一切やりませんがお酒は大好きです。その理由は程よく左脳が麻痺してくれるからです。
私は職業病なのか何なのか、日頃から猛烈に思考を回し続けてしまいます。もう癖なんでしょうね。色々と考えずにはいられない。どんなことに対しても頭使って考えてしまう。理屈で考え論理的に物事を受け止めて、”ちゃんと”対そうとしてしまうのです。
これは正直あんまり良くない。色々ごちゃごちゃ考えることで、かえって行動が抑制される。考えすぎると動けない。というか考えるだけで疲れる。ダメ。
でもお酒を飲むとその左脳くんが少しヘナってくれるので、その分右脳くんが出張ってくるようになる。すると脳内がバランスされていつもよりも自分の本音が見えるようになるんです。そしてより本質が見透かしやすくなる。こういう状態の方がかえって自然な、素直な在り方な気がして気持ちがいい。だからお酒が好きっていうのもあるみたいです^ ^
ちなみに今回の話を醒めた頭で考え直し内容をアップグレードしたものを、メインサイトである熊本の学習塾ブレイクスルー・アカデミーのHPでも『人は内心不幸を求めて生きている!?合格を自ら手放す不合理な心理の正体|熊本の学習塾ブレイクスルー・アカデミー』の記事で公開しています。よろしければ併せてご覧下さい^ ^
さて、今回はあまり細かいことを気にせず思いつくままを雑記でお話ししていこうと思うのですが、幸せに達するのって難しいよねって話です。それも、人は幸せを求めているはずなのに、潜在的には幸せになることを恐れていて、手に入りそうになったり、実際手にしてしまったりしても、それがかえって不安になるという矛盾を秘めているという話をしたいと思います。そう、幸せそれ自体が難しいのではなく、幸せを掴みにいけない心理が働き難しくさせている。
なんかもう、そういう風に洗脳でもされてるんじゃないかって感じですが、幸せというものをどこか「たどり着いてはいけないもの」と感じている部分もあるんじゃないかと思っているんです。だってそこはゴールだから。それ以上がない”てっぺん”。ということは、そこにたどり着くと、もうその先は落ちるしかない。一度手にした究極は、いつか崩れるのを待つしかない。そう考えてしまう。
誰だって落ちていくよりも上っていく方が楽しいものです。ジブリ映画の『魔女の宅急便』の挿入歌『めぐる季節』で井上あずみさんが歌われているように
「幸せを探す人が一番幸せだって、、、」
ということなんですよ、きっと。
手に入れようと思っている時の方が幸せなんです。幸せに手が届いてしまうとそこで幸せが終わってしまうんです、潜在的なイメージとしては。だからどこかで手を抜いて生きることで幸せにたどり着かないようにしているし、幸せにたどり着いていない自分の言い訳にしてしまっている。
分からないけど。
でもそんな感じがします、たまに。
本当なら、別にたった一つの幸せにたどり着いたって、そこがゴールじゃないんです。別の何かを描き続ければいいだけですから。別のゴールを設定すれば楽しみは無限に続いていくし、幸せは無限に溢れていきます。でも幸せを「究極的な何か」だと捉えている人は、そこに行き着くことが怖くてたまらない。
幸せにたどり着いてしまうことよりも、幸せになりたいと願っている時の方が幸せを感じられるし、幸せになるために努力をしている自分の方が「生」を感じる。幸せにたどり着いて、あとはその幸せを抱いてずーっと幸せに生きていくのは退屈なんです。もっと波乱万丈がいいんです。平和な世の中にあっても血みどろな戦いを求めてしまう。『ワンピース』にしても『鬼滅の刃』にしても『半沢直樹』にしても、暴力的であったり残酷だったり理不尽だったりすることに争い立ち向かっていく姿が魅力的だと感じるのは、平和よりも戦いを望んでいることの証左です。平和じゃドラマにならない。
人はもっと争いたいし、そこで勝つことで達成感や優越感を感じたいもの。それも自分が傷付かないように。だから代わりに自分以外の誰かが相手を打ち負かす場面を見て興奮し、満足し、カタルシスを感じたりする。平和な世界に身を置いたまま、凄惨な戦争に打ち勝ちたいのが人間の本性です。
正義や悪などは知りません。ただ、自分自身が正義です。そして正義に対抗するのが悪。構図はそれだけ。
ただ、それ自体は悪いことじゃない。多種多様な複雑な世の中で、何が正義で何が悪かなんて議論は不毛です。何かが起きていて、そこで利益を得る者と不利益を被る者がいるだけの話。問題はそういった出来事に自分が巻き込まれた時にどう振る舞うか。
起きていることはただでさえ複雑で、善悪つけ難い。そして誰だって自分が悪だとは思いたくない。自分が正義だと主張することになる。当然そうやって世の中あらゆる正義で溢れていきます。でも「正義」という言葉が溢れていくだけで、その中身はバラバラだから、いずれその正義同士がぶつかり合うことになる。
自分こそが正義だ、と。
そうやって自分が信じる正義が報われるために戦い、その日のために努力する。その過程が自分を正義だと心の底から思わせてくれるし、実際そう思えて幸せだと感じる。人は自分の正義が満たされれば幸せを感じるものなんです。
でも本当は争う前の状態が幸せな状態だった。争いの前の段階こそが平穏。戦うことを放棄し合えばお互いに幸せでいられたはずなのに、その幸せを誰かに認めて欲しいと思ってしまう。認めてくれない相手と戦うことになる。だからいつまで経っても幸せになれずにいる。
自ら幸せを忘れ、放棄し、戦うことを選んだのは「幸せになるため」でした。でもそれはもう叶ってしまっていた。その叶った幸せが自分をだらしなくさせる。幸せの上にあぐらをかいて「何を頑張らずに生きているんだ!?」と何かがケツを叩いてくる。これはおそらくコンフォートゾーンが関係してくる話だと思いますが、コンフォートゾーンが「がんばること」になっていると、がんばらないことがかえって苦痛。すると、幸せになるために必死にがんばっていると、「がんばることが当たり前」のコンフォートゾーンだから、がんばらないことはアンコンフォート(快適ではない)。ここに矛盾が生じる余地が生まれる。
と考えてくると、幸せとはきっと感情のことであって状態のことではないんですね。幸せを感じていればそれで幸せで、幸せになる必要はない。そんな場所はない。状態が幸せを規定するのではなく、状態に対してどう感じるかが幸せを決める。だから結果を出すことよりも過程を楽しむことが幸せ感を醸成するんです。
そうすると人はいつでも幸せになれてしまうんだということが分かります。その気になれば今日からでも幸せになれる。そしてそれが失われるんじゃないか、なんて心配になる必要はない。なぜならいつでも幸せになれるから。自分の気持ちが幸せを決めるなら、自分で幸せをコントロールできるってこと。どこかにたどり着かないと幸せになれないってことじゃないなら、何かに振り回される必要もない。幸せは自分で決める。他人じゃない。
なぜ人は、幸せを求めていながら、その一方で幸せになることを恐れるのか、なぜ幸せに手が届きそうになると手放し、幸せになると不安に駆られ、幸せを逃すとホッとするのか。その件について酔いながら書き進めてきました。何かの参考になれば幸いです^ ^ それでは次回もお会いしましょう!
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