リバタリアニズム解説シリーズ(3):右派リバタリアニズムの分類
こんにちは。
今回は右派リバタリアニズム内の様々な立場の紹介をします。
はじめに
今回は、(1)のような「右派リバタリアニズム、左派リバタリアニズム…」のような紹介方法ではなく、「●●氏による分類、XX氏による分類…」のような、研究者と研究者による分類を主軸に据えた紹介になります。
なぜそんなことをするのか?
それは、論者や時代によって「リバタリアニズム」が包摂する主張が変化しているためです。概ね、その領域が拡張していると言えますので、その流れを知っていただければ幸いです。
また、今回の記事は、リバタリアニズム研究者であり法哲学者の福原明雄(2017)の『リバタリアニズムを問い直す:右派/左派対立の先へ』ナカニシヤ出版を参考にしています。
が、今回紹介する複数のリバタリアン研究者のように、立場の根拠(自然権・効用・契約)や有効な分類方法云々に着目するのではなく、あくまでも「右派リバタリアニズムにはこういう立場もあるんだよ」ということを伝えたいので、表層的に、諸分類を紹介したいと思います。ご了承ください。
もっと哲学的なことに興味がある人は、先に紹介した本を御覧ください。
アスキュー分類:リバタリアニズムと古典的自由主義は別物
福原(2017: 4)が指摘するように、日本のリバタリアニズムの分類に関する研究の口火を切ったのは、リバタリアニズム研究者であるデイヴィッド・アスキュー(1994; 1995)であり、「アスキュー分類」はリバタリアンが一度は見るべき価値あるがものと言えます。
アスキュー分類を筆者(前川)作成の図で紹介しますと以下のようになります。
アスキュー (1994: 45-51)をもとに筆者(前川)作成
まずアスキューは、自由主義を拡大国家(※)に直面したものと、それ以前のものに分けます。
※アスキュー(1994: n2)によると、「行政国家や福祉国家から全体主義国家に至るまでの国家」としている。
前者を「新自由主義」、後者を「現代自由主義」と呼称しています。
ただし、アスキューがここで「新自由主義」として呼んだものは、19世紀末のイギリスの文脈において、
自由放任主義に極めて否定的な立場をとり、政治改革および民主主義に大きな期待を寄せたのは、「新自由主義者」であった。…「新自由主義者」は国家介入・拡大国家の正当化に精根を傾け、国家に社会的正義を促進する積極的義務があるとして、混合経済・福祉国家の知的財産を築いたのである。…「新自由主義者」の後継者は「リベラル」である…(アスキュー 1994: 49)
と述べているため、いわゆる「ネオリベ neo liberalism」ではなく、「ニュー・リベラリズム new liberalism」だと筆者(前川)は解釈して、上記の図に「ニュー・リベラリズム」と記載しました。
現在では「ニュー・リベラリズム」は死語ですが、アスキューが述べているようにリベラルの魁であり、社会的自由主義とか、社会民主主義的な自由主義だとラベリングすると理解しやすいかと思います。
要は国家を積極的に用いる自由主義(者)です。
次に、現代自由主義は「リバタリアニズム」と「古典的自由主義」から成り、「リバタリアニズム」には「無政府資本主義 anarcho-capitalism 」と「最小国家論 minimal states 」が含まれるとしています。(アスキュー 1994: 50)。
最小国家論は、現在で言うところの最小国家主義 minarchism にあたります。余談ですが、minarchism という単語は、アメリカのアナキスト・リバタリアン・活動家のサミュエル・エドワード・コンキン3世 Samuel Edward Konkin III (通称SEK3、サミュ・コンキン)発案のもので、比較的新しいものです。彼の思想は主著の New Libertarian Manifesto にて目にすることが出来ます。
以上のように、アスキューは1994年の論文においては、リバタリアニズムと古典的自由主義は共に現代自由主義に属するが、基本的に別物だとみなしています。
当時においては、リバタリアニズム内の論争とは「無政府資本主義」対「最小国家主義」の論争であり、国家を認めるか否かが焦点でした。
例えば、The New Libertarianism: Anarcho-Capitalism の著者であるマイケル・オリバー J. Michael Oliver は、アイン・ランドによって発展した客観主義の流れと、マレー・ロスバードらによる無政府資本主義の2つの流れが1960年代後半から1970年代前半にあり、これが今日リバタリアニズムとして知られるものに影響を与えたとしています(Oliver 2013: 7)。
しかし、時代の流れとともに「リバタリアニズム」として認知される諸思想にも変化が現れます。
アスキュー自身も2013年に発表した論文にて、
自由主義学派に属する論者が、一定の規範論的見解、経験論的真実、そしてこれらに基づく公共政策上の提言を異口同音に力説している事実を踏まえて、最小国家論と無政府資本主義から構成される見解を狭義のリバタリアニズム、これに古典的自由主義を加える見解を広義のリバタリアニズムとみても差し支えなかなろう(アスキュー 2013: 548)。
と、古典的自由主義もリバタリアニズムに含めるとしています。
なぜ、このような変化が起きたのかは、私自身、探求の途上でハッキリとしたことは分かりませんが、「古典的自由主義」にコミットする人たちが「リベラル・自由主義」の用語に対して忌避感を持ち合わせており、「リバタリアニズム」の看板に掛け変えたいからではないかと、憶測ながらも考えています。他にも、無政府資本主義的なリバタリアンが政治から距離を置いたから(※1970年前後の共和党からの離脱を指す)とか、「一定の規範論的見解、経験論的真実」等色々理由はあるかと思います。その辺は、今後。
さて、次はジェイソン・ブレナン Jason Brennan の分類です。
ブレナン分類:ハード・リバタリアンは古典的自由主義の逸脱事例
ブレナンはリバタリアンを、(1)古典的自由主義者 classical liberals 、(2)ハード・リバタリアン hard libertarians 、(3)新古典的自由主義者 neoclassical liberals の3つに分類しました(Brennan 2012: 8)。
ブレナンの分類によると、(1)古典的自由主義者には、アダム・スミス、フレデリック・バスティア、フリードリヒ・ハイエク、ミルトン・フリードマンが含まれ、開かれた寛容な社会、強固な市民権、強固な経済・財産の権利、開かれた市場経済を唱導します(Brennan 2012: 8-9)。
いわゆる古典的自由主義そのものです。
(2)のハード・リバタリアンは、19世紀中葉に古典的自由主義者から分離した一種 one strains ※です。ブレナンによると、ハード・リバタリアニズムは古典的自由主義者をもっとラディカルにしたもの、としています(Brennan 2012: 10)。
※strain は「系統、性格、変種」という意味と、「重圧、ひずみ、頂点」という意味があります。kinds を使わずに strains を選んだのは、そういうことなのかもしれません。憶測ですが。
ハード・リバタリアンは政府の役割は最小限だと考え、幾ばくかはアナーキストであり(Brennan 2012: 10)、要は、最小国家主義と無政府資本主義が該当します。
ブレナンのハード・リバタリアン解釈(定義)の独自性は次の文章にあらわれています。
あなたがリバタリアニズムについて考えるとき、それは、私が「ハード・リバタリアニズム」と呼ぶものについて考えるいい機会だ。しかし、ハード・リバタリアニズムは広義のリバタリアンの考えの本流にはあたらない。いくつかの観点から、それは古典的自由主義の政治思想の中での逸脱 aberration である(Brennan 2012: 11)。
この aberration という単語は「異常、精神異常、常軌を逸すること」と、かなり強い意味を持っています。
多くのリバタリアンと異なり、ブレナンはハード・リバタリアニズムを古典的自由主義の中の逸脱事例だと言うのです。
さて、それがどういう意味なのかは次の立場を見れば分かるでしょう。
最後の(3)新古典的自由主義は最近流行りの立場で、
古典的自由主義(例; リバタリアン)思想の新しい形態で、ここ30年の間に出現した。この新しい古典的自由主義者はまさに古典的自由主義やリバタリアンだと自称している。そのうちの幾らかは自身を新古典的自由主義やブリーディングハート bleeding-heart・リバタリアンだと呼んでいる。
新古典的自由主義者は、古典的自由主義者と同じ関心を多く共有する。しかし、古典的自由主義者と異なる点は、彼ら/彼女ら[新古典的自由主義者※前川注]が、明らかに社会正義への基本的な関心があるということだ(Brennan 2012: 11)。
と、ブレナンは述べています。
(リバタリアニズムに関心があったとしても)聞き慣れない単語が複数出ているので説明しますと、まず新古典的自由主義は、古典的自由主義の新しいバージョン(つまり neo )であり、そのため、「新・古」と奇妙な文字の並び方をしています。
次に、ブリーディング・ハート bleeding-heart は、「1ケシ科コマクサ属の植物の総称…3(社会問題などで)弱い立場の人(たち)に大げさに同情[関心]を示す人(新英和大辞典)」という意味の英単語です。定訳という定訳は未だにありませんが、福原(2017: 19 n12)は、
bleeding-heart の語には、『感傷的になる人』や『大げさに同情を示す人』ほどの意味があるが、その意味を十全かつ完結に表現する良い訳が、筆者には思いつかない。…敢えて訳すなら、『血も涙もある』だろうか。
と、難儀しています。
libertarian の定訳すら存在しませんので、最早何が何やらですが、社会正義者や弱者に関心のあるリバタリアンという理解で誤りはなさそうです。
余談ですが、こちらの新古典的自由主義は、アリゾナ大学関係者が多いため、「アリゾナ学派」と呼ばれたりします。
福原はブレナンの分類について以下のように述べています。
(新)古典的自由主義とハード・リバタリアニズムは、社会正義への関心の有無を基準に分けることができると考えた。この分類自体への評価はどうあれ、この分類の差異が如実に現れるのは、支持する政府・制度がもたらす帰結への態度や関心の示し方においてなのではないか、と考えられるだろう(福原 2017: 20)。
確かに、最小国家主義者や無政府資本主義者は(前川の直観・経験によると)一般的に「社会正義」に関心を持ちません。むしろ目の敵にしている節すらあります。
また、弱者救済に関心があったとしても、それを「社会正義」の枠組みとして捉えず、「政府があれこれやるから税金を盗られて貧しくなる。政府がない・限りなく小さい方が弱者のためだ!」と、「政府=犯罪者・ろくでもない」枠組みとして捉えることでしょう。
古典的自由主義とリバタリアニズムは別物なのか?
さて、ブレナンの分類によると、社会正義にコミットする古典的自由主義と、コミットしないハード・リバタリアニズムは別物だということになりますが、私も幾分かは同意します。というのも、以前紹介したように、元々リバタリアンはアナキズム(リバタリアン社会主義)をルーツとしています。一方で、古典的自由主義は当然自由主義がルーツです。近代以降は、前者はヨーロッパ大陸発祥ですが、後者はイギリスです。また、前者と結びつきやすいオーストリア学派(演繹重視)はオーストリア、フランス(フィジオクラシー、重農主義とも)にルーツを持ち、古典的自由主義はジョン・ロック、アダム・スミス率いるイギリス経験論(帰納法重視)と結びついています。はっきり言って、リバタリアン(リバタリアニズム)と古典的自由主義は、方法論上・歴史上別物の思想だと捉える方が理解しやすいかと思います。
しかし、なぜこの2つは同じもの、あるいは似たものとして語られることが多いのでしょうか。それは古典的自由主義者自身が言うように「リベラルに言葉を盗られたから」かもしれませんが、1つは政治上の提言が似ているからでしょう。例えば、「政府は公共事業に対して消極的な方がよい」、「資本主義は自由と福利をもたらすので良い」等です。ただし、それを言うと無政府資本主義はマルクス主義と同じような意見を持つこともあるので、絶対的な理由でもなさそうです。例えば、「政府はクソである。解体せよ!」、「大企業はろくでもない」等です。
…このことについては今後の探求とさせていだきます。
さらに厄介なことは、ハイエクの立ち位置についてです。ハイエクはオーストリアンの1人で、社会正義は幻想だと言ってしまう人ですが、国家による独占禁止事業は良いとか、砂漠で困っている人がいたら井戸の所有者の意向よりも困っている人に水を配るべきとか、新古典的自由主義者が言う「社会正義」に近いことを提唱する人でもあります。
また、ハイエクはミーゼスの弟子ではありますが、その関係や方法論的な観点は微妙なもので、ロスバードやイスラエル・カーズナー Israel Kirzner に代表されるネオ・オーストリアンたちの方がミーゼスの方法論を受け継いでいると言えます。オーストリア学派については、そのうち執筆したいと思います。そのうち。
さらにさらに厄介なのは、左派リバタリアニズムと(新)古典的自由主義の関係です。
例えばヒレル・スタイナーのように、私自身以外の資源(土地等)はみんなのものだから分配の対象になるとする考え方と、(新)古典的自由主義の社会正義観は、政策上似たようなものになるかもしれませんが、根本となる考え方(規範等)が異なります。左派リバタリアンを「権利担当」、(新)古典的自由主義を「経済担当」と理解すれば親和的かもしれませんが、結局、「政府が行うべき事業」について合意形成がうまくいかない可能性は拭えません。
そして、何より、リベラリズムと(新)古典的自由主義は何が違うのだ、ということにもなるでしょう。最早ここまでいくと、libertarian の用語が本来持っている(であろう)自由意志や無支配性(無権力性)の意味合いが乏しくなっています。
ただし、これらの分類はあくまで政治哲学上のものであって、実政治上、多少違っても「リバタリアニズム」でまとめておくのは有効でしょう。
名前が同じだと合意形成が図りやすいかもしれませんし、書店で「その他」から「リバタリアニズム」として、1つのコーナーを築けるかもしれません。
当然、形式だけ揃えて”なぁなぁ”にすることは、お世辞にも良いことではありませんが、多くの人に知ってもらうためには、完全に打破されるべきだとは言えないでしょう。
おわりに:右派リバタリアニズムも様々
ご覧頂いたように、右派リバタリアニズムも様々です。
しかも、「古典的自由主義ってリバタリアニズムなの?」のように、クリティカルな論点もあります。
ただ、デジャックが言い始めたように、突如「○○主義」を名乗ることがダメではないと、個人的に思います。むしろリバタリアン・リバタリアニズムは、デジャックや、レオナルド・リードのように、「(大学の外で)自分たちでやってみる」ことが最も光る要素ですし、そういった「言ったもん勝ち・やったもん勝ち」がリバタリアニズムという分野を開削したことから分かるように、「自由意志」を尊重する思想です。
今回はあまり触れませんでしたが、実際には、義務論・帰結主義等のさらに詳細な分類方法があります。各人の根拠となるそれらの主張の方が学問上有効なのは承知していますが、「ざっくり見てみよう」の方針でこの記事を書きました。
燻っている方は以下の参考文献に目を通すとよいでしょう。
次回は未定ですが、オーストリア学派や政治との関係について書いてみようかと思います。
まとまりのない記事でしたが、ありがとうございました。
(文:前川範行)
参考文献
日本語
アスキュー・デイヴィッド(1994/1995)「リバタリアニズム研究序説(一・二)――最小国家論と無政府資本主義の論争をめぐって」『法学論叢』135巻6号、137巻2号。
――――(2013)「リバタリアニズムと無政府資本主義」平野仁彦・亀本洋・川濱昇編『現代法の変容』有斐閣。
福原明雄(2017)『リバタリアニズムを問い直す:右派/左派対立の先へ』ナカニシヤ出版。
英語
Brennan, Jason (2012), Libertarianism: What Everyone Needs to Know, New York, Oxford University Press.
Casey, Gerard (2012), Libertarian Anarchy: Against the State, Continuum.
Konkin III, Samuel Edward (1980), New Libertarian Manifesto. ※前川はWebで閲覧したため出版地を知りません。「タイトル pdf」 と検索すればヒットします。
Oliver, J. Michael (2013), The New Libertarianism: Anarcho-Capitalism. ※出版地不明だが、www.newlibertarianism.com の記載あり。