淡い地、至上の時 〜文芸学部を想ふ〜
「文芸学部は土臭く」
近畿大学文芸学部の初代学長・後藤明生の口癖だったらしい。
その言葉の通り、余りにも土着的に、遠回りをしながら、やっと一つの解に辿り着いたような心地である。奥泉はああ言ってはいたものの、文学という無用なアカデミック(文学部生がこんな事を言うと、本末転倒だが)の登竜門を登る事に、少し危機感を覚えた自分もいた。故に、中学時代はアホほど惚れ込んでいた情報系の道に戻る事にした訳である。
しかし、文芸学部は奇妙な学部である。作家が書き方を教えると言う、海外の大学では主流のクリエイティヴ・ライツの授業を日本の四大でやるという。他大の文学部と比較するとかなり稀有なもので、熱心な京大生が聴講に来ていたり、東大文3蹴り近大文芸という奇人もいたらしい。
その上、過去に教鞭を取った人間は名だたるもので、後藤明生・中上健次・柄谷行人・絓秀実・塚本邦雄・島田雅彦・いとうせいこう・奥泉光・渡辺直己……と、俳人から批評家・作家まで、夢心地もいい所な文学界の天国的存在だったと言えるだろう。現在でも円城塔が集中講義を開講したり、谷崎由依・小森健太朗がゼミを持つなどクリエイティブ・ライティング色の強さを持ちつつ、中濱一眞・中島一夫・大澤聡・桒原丈和・八角聡仁等、非常にレベルの高い批評家面々が教鞭を取っている。
実際、奥泉ゼミに入っていた自分にとっても、この2年間は人生の中でも比類を見ない程濃い2年だった。
本記事では、自分の近大文芸という土壌で培った思い出を整理しつつ、文芸学部について語ってみようと思う
※文献等を用いて語るものではなく、聞き、そして語るという、謂わば中上健次「火宅」的なテクスト構造を目指して書いているだけのエッセイです。正確性は全くもって保証できませんので、引用等は自己責任でお願いします。
資本主義的な大学構造から独立した文芸学部
本学部の創設を語るには、世耕政隆を語らずには不可能である。
彼は名前の通り創設者・世耕耕一氏の実の息子で、自民党の国会議員でありながら医者でもあり、そして日本文芸家協会に所属した詩人でもあった。
彼は1965年から先代の耕一氏から大学経営を引き継ぎ、近畿大学の興隆に寄与された。その施策(悲願?)のうちの一つが「文学部」の設立だった。彼自身は日大の医学部出身であり、近大に医学部を作る目的で本学に送り込まれた訳だが、実際には文芸学部が完成した時に一番の喜びを見せたそうだ。
実際、正隆先生は文芸成立以前の近大を、どこか欠けた空疎なもののように捉えていた。
「学問の根源」は文学であると、言い切っているのだ。
阪神タイガース
奥泉先生から指導を受けていた中で、とても印象に残っている話がある。それは、阪神タイガースについての話。
例えば、歴の長い阪神ファンであるAくんと、巨人ファンのBくんは小さい頃から仲良しだったが、野球の話をするといつも喧嘩になっていた。
BくんはどうしてもAくんにも巨人を応援して欲しいと思っている。そこで、Aくんが金銭的に困窮している事に付け込み、1000万円を支払う事を条件に巨人ファンになるよう説得すると、Aくんは承諾した。
それからAくんはB君と共に球場で巨人を応援するようになるが、ここで考えてみてほしい。この時、Aくんは心の底から巨人を応援出来ているだろうか?
お金を貰っているから応援しているだけなのではないだろうか?
「わかりました、応援します」は、余りにも軽薄なのではないか?
プロ野球は一例だが、この他にも宗教のように「盲目的に応援・信仰しているもの」を権力によって改変する事は、不可能に近い。もっと分かりやすい例を言うと、「北朝鮮で金正恩に対する支持率は公称100%を叩き出しているが、心の底から支持している人は何%いるだろうか?」という事である。
どれだけ権力によって反対意見を封殺しようと、心底にある自分自身の思想は変化させられない。
しかしながら、文学はそれを可能にする力を持つ。例えば、村上春樹はヤクルトファンであり、自著でスワローズ愛をふんだんに散りばめてきた。結果、ハルキストと呼ばれる人にスワローズファンが増える結果となった。これは、村上が読者に対し、「文学によってスワローズファンになるよう説得した」と言えるのではないだろうか。
つまり正隆が言いたかったのは、あらゆる学問に於いて、その学問を学び始めるきっかけは文学(広義)にあると言いたかったのではないだろうか。
自民党
先述したとおり、正隆は自民党所属の議員である。
現在も大学運営は若干右寄りに進んでいて、何年か前の卒業式にはゲストスピーカーに安倍晋三が来ていた。
そんな大学内で文芸学部は異彩を放っていた。
実情に完璧に即せず物凄く大雑把に言えば、唯一の左傾学部だった(今は小森健太朗を始め、そうでもないが)。
実際、純文学という学問は、売れる物ではなく文章として自分が面白いと思ったものであったり、文章の美しさを追求するという、反商業主義である事からして社会主義とかなり相性が良い。文学部・芸術学部の成立は、そういった土壌の形成と同義であると言う人もいる。
では、そんな左傾に対し、正隆が頭を抱えたかと言われると、まったくそうではない。寧ろ、そのようになってほしいと願っていたそうだと現役教授陣から聞いた(ソース不明)
寧ろ、文学はそう言った商業主義・権威主義的な構造から脱するべきだという考えが彼の中にあったのだと考えられるだろうと、奥泉は言っていた。結果、去年辺りから謎のインカレ反体制活動団体が現れた
このように、正隆氏の悲願の元生まれた文芸学部は、18世紀ヨーロッパのクリエイティヴ・ライツがパトロンによる支援によって成り立つような構図で、ポストモダンが大学内外に興隆したのだ。
この途轍も無い文化の道程が、この先も続いて行くことを願うばかり。
つづく
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