話題がないなら“ルールを課す” 目指すは一方通行
何がどうプレッシャーなのかは気になるところだ。気楽なやり取りは否定しないが、責任が伴わないと深い会話は難しい。
※インスパイア記事
友達を目的としない交流
なぜか。
相手と仲良くなること、友達になることを目的としない場合、許容範囲が狭まる。すると、遠慮がちな話題しか振れないのだ。「気遣い」って事になる。
否定される覚悟で、壊していかないと成立しないコミュニケーションも存在する。
喜ぶ話題、興味深い話題を提供できるか
自分が興味がないからといって相手が同じとは限らない。同一視しすぎているか、過去の体験がそうさせているだけではないか。話題を提供するなどと徳の高い完璧主義は捨てよ。訪れた人間を宇宙人くらいに考えて話しかけてみろ。
筆者よづき氏のことを分かってるから安心という事は、訪れる人にとって逆にプレッシャーになる。「何一つ知らないから教えてください。」って姿勢の方が気楽だな。相手に興味を持てるかは別として。
宇宙人との遭遇
E.T.の有名なシーンから述べれば、互いの体験を共有することに意味がある。
自転車に乗ってる体験と空を飛ぶ体験。あれはいいシーンだ。危険だが、なんだか分かり合えたと感動する場面であるはずだ。
相手の聞きたい話にこだわるな。
時間を決めて5分しゃべる。
終わったら相手のターン。
このように事務化すれば、喋りを管理しやすくはないか。障害のない一般人でもいきなりコミュニケーションを取れというのはハードルが高いのだ。
本当に“交流が目的”でいいのか
レベルを下げてもよいなら、「コミュニケーション取らなくていい」って前提条件をつけよう。話す事がイコールでコミュニケーションとは限らない。
大事なことは「受け入れる場」だ。違うか?
場外からはそのように見えたのだが。
最後まで話を聞いてもらえた事はあるか
よく考えてみろ。最後まで話を聞いてもらえた試しがあるのか?相手が待っていることに、時間を共有していることにプレッシャーを感じたことはないか。そういう所にアプローチするのだ。口出し無用「横槍入れない安心」の約束だ。
待っているから5分喋ってみようとな。そういう制限は人を自由にする。無論先に踏み出すのは筆者よづき氏でなければならない。姿勢こそがコミュニケーションたり得る。話題がないなら、喋ることを目的にしてしまえ。
5分は長い
5分は意外と時間がある。ほぼ沈黙寄りのポツポツでも称えてやれ。
そこに居た5分を大事にする事だ。忙しい人間は、それができないし、感謝もしない。
3分でもいいかもしれないが、熟考に1分はかかるから2分じゃ心許ないと想像している。
お笑い芸人が好き
例えば、特性的によくしゃべる「お笑い芸人が好き」などありがちだ。相手の求めてるレベルも分からずに、相互理解もなく挑戦するとダダ滑ってしまう。そこで唐突にガッカリし、不機嫌になられても相手が困るわけだが。
思い通りにならない。って事にいちいちストレスを覚えるなら、応答の必要なコミュニケーションはハードルが高いと知るべきだろう。これは老婆心だ。
それでも会話に困るならテーマを決めよ
通常ならそういうアドバイスされるだろう。筆者はそんなアドバイスはしない。
目的を決めてもいいが、期間中テーマを設けることを筆者はおすすめしない。その時思いついたことを言葉にするくらいでちょうどいい。
・・・noteという趣味の仲間が欲しいというなら話は別だが。
-[1980年代アーカイブ情報] Kuwaharaが<E.T.>に採用されることになった経緯-
#未来のためにできること