災害時のあかりのはなし #1
2016/06/16 @気仙沼 Aさん
気仙沼でのあかりカフェ開催を通して知り合った方にご紹介いただいたAさんにお話を伺いました。Aさんは、震災の記憶をつなげていくキャンドルイベントにも従事されています。初めてお会いする私たちに、とても和やかな雰囲気で接してくださいました。
震災当時、上のお子さんは仙台におり、ご主人と下のお子さん(中学2年生)と高台の方にあるご自宅にお住まいでした。
家は高台の方なので、地震1週間後に初めて海側を見て実際の津波被害の様子を目にしました。震災を同じ地で経験した人でも被災の度合いによってコミュニケーションが非常に難しいと感じます。人の被害状況を尋ねることなど出来ないというのが実感です。仮設住宅の時もそうだったが、被災状況によって繋がりが分断されてしまっている状況があると感じます。
2,3日は体育館に避難したけれど、そこは非常に強い緊張の場で、泣いている人や些細なことで不要な喧嘩が起きたり(発電機が容量パンクしてすぐ落ちてしまい、どこの子供が携帯充電したからだ、などの原因)、自宅がある自分たちは、家を流されたりされた方に避難所を譲るべきと考え、家族で自宅避難としました。その後は自宅で車中避難を1週間ほど。停電復旧までは2週間くらいでした。
電気なしのサバイバルの知恵はついた気がします。ろうそくを立てて過ごしました。3時ごろからガスでご飯を炊いて、5時前に食べて寝る、というようなリズムで過ごした。自分の子供たちにもこの経験をを忘れないようにさせたいです。
かさ上げエリアは仮設のものも多く、しょっちゅう道や風景が変わるので、夜間に照明がないとほんとに迷ってしまう。事故も起きるし、被災地だということを思い出させられてしまうのです。その意味においても、冬場はイルミネーションがあってよかったです。ほっとしました。
余震がとにかく怖かったです。地震酔いもありました。お風呂にたまたまお湯を張っていたのがとても役に立ちました。夫の実家が半壊してしまい、服を取りに行った際に泥などで汚れてしまいましたが、それをお風呂のため湯で洗うことができたことがありました。きれいでなくてもいいから水はあるとすごく助かることがわかりました。ラップを食器代わりにしたり、割りばしは各人名前を書いて、洗えないけれど自分のを使い続けるようにしました。
余震が落ち着き、食べ物が確保できたのち、治安についてすごく不安な時期がありました。
発災直後はみんな頑張るし頑張れるが、その後自暴自棄になったり、ねたみ、ひがみからの諍いや盗みなどが生じました。亡くなった方の財布からお金が抜かれているということもあった。灯油、ガスなどが盗まれる事件もあり、治安への懸念から枕元に木刀を置いて寝ました。自分が何か持ち歩く際にも非常に疑心暗鬼な状況。食べ物を隠して持ち歩いたり(知人先でもらったお菓子を子供達に食べさせるために持ち歩く際に一見水しかもっていないようにしたり)、誰に見られているかわからないし、とにかく妬みを買いかねない行動を避けました。
非常に治安に不安を覚える時期は、まちに電気が戻った時に解消されたと感じました。電気がつくと、お店も始まるし、まちが動き出した。
ともしび(Aさんの携わる震災の記憶を継承するイベント)もそうだしあかりカフェもだが、行きたくなる場所づくりはとても大事だと思います。行きたくなる場所が設えられていたとして、そこに足を向ける気になるまでにかかる時間は本当に人それぞれだけれど。
偶然に幸運で生かされた人の責任感のようなものがあると思う、とAさんは言われました。きっとその気持ちから、今回私たちにご自身の体験を丁寧にお話しくださったのだと思います。
まちに電気が無いこと(まちが夜間に完全に暗いこと)で治安への不安が増長すること。その不安の強さは自分の想像をはるかに上回る怖さとしてAさんのお話の中に存在し、被災後の問題の中の大きなひとつであるように感じました。また、復興のために地形がどんどん再造成されていく中の夜間照明の在り方も改善点が多くありそうです。
今回のお話からわかったこと
‐ 停電下では治安に対する不安が大きく増す
‐ 再造成地域で交通量のある所は特に重点的に明るさを供給すべき
‐ イルミネーションが施されることの心理的な効果
‐ 行きたくなる場所づくりという観点で光を用いることができる
Aさん、どうもありがとうございました。