森進一『ホメロス物語』(岩波ジュニア新書、1984年)を読んで。

 本書はホメロスに興味を持つすべての読者に真っ先に読んでほしい一冊である。「怒りを歌えアキレウスよ」に始まるイリアス、そしてオデュッセウスの冒険譚は、プラトンのみならず現代哲学においても多々引き合いに出される大古典である。イリアスとオデュッセイアのどちらを先に読むべきか、それは本書からも明らかなようにイリアスからである。オデュッセイアについての入門書は久保正彰氏や中務哲郎氏のものがあり、充実しているものの、イリアスについての案内というのは案外少ない。そういった中でイリアス研究への導入としても、純粋に物語を楽しむものとしても、まず勧めたいのが本書なのである。
 本書の著者は、新潮文庫のプラトン『饗宴』や岩波文庫のテオプラストス『人さまざま』の翻訳者として知られる森進一氏である。どちらの訳書も古代ギリシアの人々の生き生きとした姿を彷彿とさせるもので、本書もまた著者の案内を通してホメロスの物語世界を堪能できる一冊である。
 ホメロスに興味を持ったは良いものの、イリアスもオデュッセイアも多数の翻訳があり、いきなりテクストを読み始めても掴み所がないという読者もいるかもしれない。本書はそういった読者のための本である。ホメロスに興味を抱いた読者はすで何かしらの知識を持っていることと思うが、本書がギリシア神話の入門書として優れているのは、岩波ジュニア新書にふさわしくイリアスとオデュッセイアの物語のハイライトを丸ごと生き生きと再現してくれることにある。さまざまな登場人物がどのような心理描写や戦闘描写とともにホメロスによって描かれているのかを再現する本書は、ホメロスの物語世界に読者を浸らせ、安堵と歓喜、そして悲嘆をも感じさせ、幾度となく涙を誘うものである。本書を読む読者はおのずとイリアスとオデュッセイアが大古典たることの所以を知らされることになるであろう。
 物語の場面や登場人物に焦点を当てた入門書は多数ある。しかし本書を特異な位置にあらしめているのは、物語そのものの再現性にあろう。興味を持ってから岩波文庫などで原著を読み、物語を堪能するまでには大きな隔たりがある。その隔たりを取り除いて、いきなり物語そのものを堪能させてくれるのが本書なのである。本書に描かれる様々な人物の心理描写をして、古代から変わることのない人間模様に読者は心を打たれることであろう。しかし本書はそこにとどまらず、周到にさらなる研究に進む読者への学問的注記も怠らない。ホメロスとはいったい何者か、この物語はどこで終わるのかといったことをめぐる解釈は研究の世界の豊かさをも垣間見させてくれるものである。時代を問わず引用されるこの大古典を堪能できる本書との出会いは、読者のその後の読書体験を必ずやいっそう深いものにしてくれるはずである。本書に出会うタイミングは早ければ早いほど良い。そう思わせてくれる一冊である。

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