ナポレオンの偉業「ナポレオン法典」成立と、明治政府の民法との関係とは?
ナポレオンと日本の意外な関係性
ナポレオンが戦場デビューした1793年から、皇帝を更迭されて島流しとなった1815年までの22年間、日本は江戸時代の後期であり鎖国状態でしたので直接的には関係していません。
では、間接的にどんな関わりがあったのかというと、ナポレオン自身が最も誇らしいと思ったものを輸入したのです。
それは、ナポレオン主導で起草されたフランスの民法「ナポレオン法典」です。
ナポレオンの法典に対する取り組み
ナポレオン晩年の言行録にはこんな言葉が残っています。
「私の真の栄光は40の戦争で勝利を収めた事ではない。最後の敗戦がこれら勝利の思い出を消し去るであろう。何事も消し去ることが出来ないもの、永遠に生き続けるもの、それは私の民法典である。」
ナポレオン出現以前のフランスは、1つの国としてのまとまりは余りなく、地域ごとにかなり特色や気質が異なっている状態でした。敢えて例えるなら日本の江戸時代、藩ごとを国と認識していた様なものです。
法体系も例外ではなく、ローマ法や、異なる習慣法が適応される地域がパッチワークのように広がっており、360もの異なる法が存在していました。これは、一つの国となってまとまろうとする上で混乱の原因となっていました。
そのため、ナポレオンは急ピッチで法典を1つにまとめ上げる作業に着手します。
”ナポレオンの法典作成はYouTubeにつづく...”
日本への流入(明治政府の奮闘)
最初期に「ナポレオン法典」に目を付けた日本人は、幕臣だった栗本鋤雲(じょうん)です。
栗本は、大政奉還が行われる4か月前に、パリ万国博覧会へ出席するためフランスへ旅立ちます。彼はフランスの地で「ナポレオン法典」の秀逸さに気付き、全文を和訳して日本へ移入しようと試みました。しかし残念ながら和訳事業に取り掛かる前に江戸幕府崩壊の急報に接し、急遽帰国することとなり、和訳事業は立ち消えになります。
その2年後の明治2年、明治政府は統一法体系を必要としていました。
理由は、フランスが「ナポレオン法典」を必要としたのと同じ理由で、一つの国となってまるためというのもありましたが、他にも、列強各国と結ばざるを得なかった不平等条約を撤廃するためでもありました。対外的に1つの国であり、近代法典を導入していることを示すことで、不平等条約の改定を目論んでいたのです。このため、統一法体系の導入事業を開始します。
”明治政府の法典作成はYouTubeにつづく...”
そして現在
ナポレオン晩年の、あの言行録にはこんな続きがありました。
「民法典は一語一語が、我が国務院の議事録であり、私と大臣たちとの集大成である。実際それは行政官として、また「フランス人という一大家族」の再編者として、私がなした善の全てだ。」
ナポレオンはこれほどまでに「ナポレオン法典」のことを誇りに思っていたのです。
現代で使用されているフランス民法を見てみると、ナポレオン法典が出来てから200年たった今も、生き続けている条文が多々あります。
最も目を引く条目は、「契約から生じる様々な種類の義務について」です。
この条目は、合計66条あるうちのたった2条しか変更されておらず、残りの64条はナポレオン法典から一言一句変わっていないのです。
まさに、ナポレオンが言い残した通り、永遠に生き続けるものになっていたのです。