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カサンドラが自らの力で幸せをつかむまで〜ASD夫との10950日(12)
「彼の実家での出来事」
食事の時間が近づいてきた。
私は彼のお母さんのお手伝いをしながら、彼が子供の頃の話を聞いていた。
3歳までほとんど言葉を喋らなかったこと、突然3語文を話したこと、その時この子は天才かと思ったことなど。
私は、微笑ましい親子の様子を想像しながら幸せな気持ちになっていた。
自慢話も多かったと思うが、それはそれで愛が溢れていれば素晴らしいと思うのである。
彼は茶の間にただ寝転んでいた。
周りがどんなに騒々しくても、全く目を覚まさない。
食事の時間になった。
「呼んでもきたことがないのよねぇ。」とお母さんがいう彼だったが、その日は私の歓迎会ということでうとうとと起きてきた。
席に着くなり幼児のように「これ、キライ。」というのである。
そして、「嫌いなもの」をぽんぽんと、他の人のお皿にどんどんと載せていくのである。
隣にいた私のお皿は、にんじんのかけらでいっぱいになってしまった。
びっくりして周りを見るが「人参は食べなくても死なないわよねぇ。」とお母さんはおっしゃるし、彼の行動について意見する人は1人もおらず、私はこの日以来彼が残したものを最後まで食べることになってしまった。
食事の時間は進んでゆく。
お母さんの手料理で「これ美味しいです。私も作ってみたいです。」という話になると、
「はっはっは。しっかり仕込んでやってくれ。」と彼はお義母さんに言う。
この時に知るのだが、私に作って欲しいと言って細かい指示をして作らせる料理は、ほとんどがお母さんの得意料理だった。
そして、小さな違いがあると厳しい口調で、注意を受けた。
材料がなくて別のものが入ると「うわっ。気持ち悪い!」と手をつけなかったこともあった。
戦争中に少女時代を送ったお義母さんは、食べ物を残すのが一番嫌いと常々話していた。
しかし、お残しも息子は許すものの、私には許さなかった。
私は滞在中、彼の嫌いなものや残りご飯を食べる係として、最後まで食卓から離れることができなくなっていた。
好きなものだけ食べてさっさと食卓を離れてしまう彼の傍で、どちらかというとあまり食べられない体質の私は、給食を食べ切らないと席を立てない子供のように、最後まで食卓を立てないのである。
その日の夜のことである。
今度は、彼の弁論大会が始まった。
多くは、社会に対する愚痴と持論、である。
それらの話をじっと聞き続けるお母さんは、結局夜中の2時まで彼の話を聞いていたのではなかったかと思う。
「お母さんは頭が悪いから分からないけど、あなたは賢いわね。」と言いながら、微笑んでいた。
彼は構わず、ただ1人雄弁に語り続けていた。
これは厳しい。無理。
こんな育てられ方をした人とは、結婚できない。
私に対する気遣いはおろか優しい言葉の一つもない。
それは、彼がお母さんにするのと、全く一致していた。
涼しい顔をして無視したり、やってもらったことに関しても感謝どころか水をかけるような発言を繰り返し、上手にいかなかったこと(彼にとっては間違い)に関しては、頭ごなしに全否定してくる。
この帰省の後私は何度めかの、別れを切り出している。
その家々で、家族の距離感や関わり方は違うだろう。
だけどこれ以上一緒にいると、まるでそこに私が存在しないかのような態度の連続で、自己意識がどんどんおかしくなっていってしまう。
しかし、彼は都度私を必死で引き止めた。
懐柔であったり、泣き落としのようなものであったり、時には私の「子どもができにくい体」も持ち出しながら。
私は、気力と判断能力をどんどん失っていった。
そして、一般的には「変わり者だが優秀」という認識の彼と、結婚へとなだれ込んでいくのである。