あり方で生きる R2.12.7
「人は一点しか見ていない
人は得てして、他人の一点のみを見つめて、それが全てだと勘違いしやすいものです。・・・
「私にはこう見える」というのが正しい表現であって、
「あの人はこうである」というのは、間違いであると思います。
見るところによって、相手の存在や見え方は全く変わります。自分が相手を嫌だと感じている時は、相手の人も嫌な感じと自分を捉えているということです。・・・
素晴らしい人と出会わない、・・・周りは嫌な人ばかり・・・
理由はお分かりだと思います。
あなたが嫌な人なのです。・・・
見える世界を、自分の目に映る世界をよくしたいのであれば、・・・自分自身をよくすること。」(大久保 P54ー56)
高校1年生の時に、まもなく定年を迎える体育の先生が担任になった。
ちょっと高校デビュー感のつもりで髪を軽く染めたら、呼び出されて怒られた。(当たり前です)
ちょっと友達とはしゃいでいると、なぜか自分だけ強く怒られている気がしていた。
そんな担任の先生に、突然職員室に呼び出された
「お前俺のこと嫌いだろ?」
「いえ、そんなことはありません・・・。」(ぎくっ)
「いや、嫌いになるのは自由だ。だけどな、嫌いになった人からは、好かれないからな。」
「いえ、嫌いではありません。」(ぎくぎくっ)
このやりとりは、今も鮮明に覚えている。
そして、あの日から、あの言葉が、自分の人間関係を考える基本的な価値観となっていた。
「嫌われたくない」と思う自分ではなく
「嫌いたくない」自分を追い求める方が大切だと
高校生ながらにスッキリした気持ちになれたのだ。
そのやりとりを思い出させてくれた、今日の読書の引用。
その先生は陶芸が趣味で、クラス全員に湯呑み茶碗をプレゼントしてくれた。
あれから約20年。三度引っ越しているが、今もその湯呑みは家で大切に使っている。
あの時、先生に対して素直に
「すみませんでした。」の一言が言えない
臆病者の自分へのもどかしさを
思い出せる湯呑み茶碗。
今は素晴らしい人たちに囲まれて過ごせていると感じる
それは、あの日憎たらしい生徒だっただろう私に
人生の教訓をストレートに伝えてくれた
あの先生のおかげだ