文学を改めてリスペクトした
もともと本は好きじゃなかったというか、手に取らない生活をしていた
高校の時に学校をサボって行っていたところが地域の図書館で(そこで勉強していた)、勉強に飽きた時に「赤川次郎」さんの小説をぱっと読んだ。
なぜ赤川次郎の本なのか、というところがまさに本を読んでこなかった自分を表現できている気がする。
作家を全く知らないまま本棚の前を歩く。五十音順に並ぶ作家のラベルの中で、最初に目がいく作家が赤川次郎だ。薄いし、多くの作品を残しているし、なんか人気になるような感じなのかなと思わせる。
そこで手に取った小説が結構面白くて、そこから小説を読むようになった。
いつ小説を読む生活を始めたところが見つかったのか、母が突然「恩田陸」さんの「夜のピクニック」という本を買ってきてくれた。想像の世界に浸って読んでいだ記憶が今も鮮明だ。
大学に行ったら、新書をやたらと読み、知識人になったつもりになった。
就職したらビジネス書を読んで「なんか成長している気がする!」という自己肯定感を創り出していた。
そんなこんなで高校からずっと離れていた文学の世界。
あるきっかけで今日久しぶりに文学の本を買った。
娘の習い事の待ち時間車内で読み進めたのだが、内容や主題よりも
言葉で紡ぐ「人間の価値観の表し方」に心打たれた。
noteを書くようになって、自分の価値観を自分の言葉で残すようになった
そんな今だからこそわかる
文学者の表現力はエグい。
ああ、わかる。という人間の価値観をこのような言葉で現す(例える?)ことができるのか、という表現に対する感動が止まらないのだ。
10ページちょっとしか読んでないのに、感心しきりで、その先を読み進めるというより、その10ページちょっとを味わいまくってしまった。
きっと読み方間違っているのだろうけど、文学に久しぶりに触れた時、自分の人生が高校の時よりも進んでいて、その中で味わった経験を言語化する文学のすごさに感動したのだ!
と、側から見ると全くもってちっちゃい出来事なのだが、自分にとってはすごく大きな出来事だった。ちょっと引用しておこう、記録のために。
毎朝、複数の種類の朝食を用意する煩雑さを、煩雑だと表明せずとも受け入れてくれている妻に啓喜はとても感謝している。ただ同時に、その煩雑さを受け入れる余裕のある環境を整えているのは自分の給与なのだという思いも、うっすらと生まれる。生活を支えてくれる妻への感謝と、生活費を稼ぐ立場としての苦労。別々の部屋に入れておくべき感情なのに、その感情は時に廃油と化し、互いを滑らかに融合させてしまう。(朝井リョウ「正欲」より)