保護猫の番組
保護猫を育てたり、育てた猫を譲渡したり
動物の命を大切に感じ、向き合っている素晴らしい人の心に
自分は物凄く尊敬の念を抱いている。
サンシャイン池崎さんとか嵐の方がやっている番組が偶然車で流れて、そんな感情が引き出された。
娘も猫が好きで、祖母が飼っているのが羨ましくて
家でも犬とか猫とか飼いたいと軽めに主張している。
私は、今日テレビを見ながら
「可愛いよね。もし家にいたら大切にするでしょう。でも、パパは飼いたくないなぁ。今は、自分の大切だなって心をママと弟と娘とに分けているけれど、その気持ちをさらに猫や犬にも分けてあげなきゃいけなくなるよね。だから、娘に思っている大切!って気持ちが小さくなってしまうかもしれないから嫌なんだよね。」と伝えてみた。
心を物理的な量として考えている時点できっとこれは間違いなんだけど、
飼っていない人の論理なんだけど(親の言い訳?でもあるかな)
動物の命、自分は重く受け止めてしまう。
自分には飼えない、というか飼う資格がないような気がしている。
娘や息子、妻に注ぐ愛の下手くそさに反省しきりの自分なんかが、さらに動物の命も預かれるはずがないと。。。
番組をみてペットを大切にする人たち、すごいなぁと思うと同時に、捨ててしまう人のことも考えて
自分の心がざわつく。
その番組でも、保護猫を飼っている人が、
出会いは、保育士として働いている保育園に捨てられていた猫だったと話していた。
動物を捨てるというのは物凄く重い罪。
ただ、自分はそれと同じぐらい、いや、もしかするとそれ以上に、ペットを誰か優しそうな環境(ペットショップや猫カフェなど)のところに捨てていくという行為も物凄く重い罪だと考えている。
もし、その保育士の方が捨てられた猫の面倒を見られなくて保健所、殺処分という流れになったら、きっとそのかたは心に傷を負うのだろうと想像してしまう。その状況に相手を追い込むことが、「意図的な場所に捨てる」という行為によって引き起こされる可能性があるのだ。捨てた本人はペットの命を少し救った気になっているのだろうけれど、捨てられた目の前の人の人生に対する想像力が働かないことが、物凄い悪に感じてしまう。
動物の命を軽んじているという問題と
人の人生に土足で踏み込んで狂わせる可能性を無視した行動だという問題
この問題の大きさを想像してしまって
自分の心では受容できないのだ。
ペットショップに行くのが苦手になったのも、
そんな自分の思考回路が生み出しているのかもしれない。
改めて
ペットを家族に迎えて大切にしている人たちの心は本当に尊く、素晴らしいなと思う。