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猫と犬 尾形百之助と月島基

尾形と月島はその生い立ちや境遇において共通点の多いキャラクターである
両者とも家庭に恵まれず周囲からは浮いた存在として幼少期を過ごしていた。
また実の父を手にかけた息子という父殺しのキャラクターと言う点が大きな共通項でもある。
にも拘らず、両者の性格は全く相いれないまま辿った結末もおそらく真逆とさえいえるものだった。
本稿では尾形百之助と月島基
この二人を比較しつつ彼らの何が違ったのかを考察する


・尾形と月島

尾形と月島はゴールデンカムイ本編が開始するだいぶ前、鯉登誘拐や杉元ノラぼうの時代から鶴見中尉の部下として付き合いがある昔馴染みだ。共に鶴見中尉のために手を汚し、もちろん日露戦争の地獄を戦い抜いた同志のはずだった。

にもかかわらず、この二人の相性は全く良くない。特に仲良くしているわけでもなくむしろ反目し合うし、尾形に至っては月島より個人的に谷垣の方を目をかけていたような節がある(谷垣にとっては迷惑極まりないが)。

尾形も月島も茨城と新潟の佐渡という地方の田舎で育ち、一方は母共々実父に捨てられ、一方は村の鼻つまみ者で息子から見ても「クソ親父」だった男と暮らしていた。
どちらも孤独な幼少期であまり恵まれていたとはいえない。

一見似たような人生や価値観を持ってそうなこの二人の男がどうしてこうも相いれないのか紐解いていく。

・尽くしたい月島、尽くされたい尾形


月島と尾形の最大の違いは鶴見中尉への態度で明らかになる。

月島は日清戦争帰還後からずっと鶴見中尉の語るウソかホントか判らない事実に翻弄されてきた。

彼はどこまでが鶴見劇場でどこまでが事実なのかわからない手の込んだ芝居に翻弄された挙句、疲れ切って精神をすり減らしてしまう。月島にとって鶴見は恩人であり同時に悪魔メフィストフェレスのような存在だろう。
しかし、それでも月島は徹底して鶴見に忠誠の限りを尽くすのだ。鶴見がやれと言えばどんな悪どいこともやるし、命令されなくとも鶴見を裏切る者は妻子持ちの部下ですら容赦しない。月島の尽くしっぷりは鶴見中尉の期待以上であり、だからこそ鶴見も月島だけは最後まで右腕としてギリギリになるまで手放さなかったのだろう。文字どおり月島は鯉登が止めなければ鶴見中尉に地獄の果てまでお供するつもりだった。

一方の尾形と言えば酷いものである。

月島と同じように昔から鶴見中尉の世話になりながら、東京時代には早々に中央のスパイとして裏切る算段を立てていた。

物語序盤ですでに造反組として鶴見を裏切り、その後は土方組や杉元一派などを転々としながら第七師団を邪魔し場を引っ掻き回していた。
その理由が本人に言わせると「自分を第七師団長にしてくれると言ったのにキョロキョロよそ見していたから」である。

酷い。

忠義を尽くそうなんて気は更々なく、なんなら自分の出世のために尽くさない中尉が悪いと言っている。

ちなみに、鶴見だけがよそ見をしているかのような言い様だが、尾形本人も金塊争奪戦の最中、土方に付いてみたり杉元と手を組んだりアシリパに粘着したりと散々よそ見している。
自分の多情っぷりを棚に上げて鶴見中尉には一方的な献身を求めるのだからいいご身分である。

以上で記したように、月島基は鶴見中尉に忠誠を誓い、尾形百之助は鶴見中尉に無制限の献身を求める。

忠義を尽くす犬と、尽くされたい山猫。
水と油、相容れるはずがない。この二人は似たように不遇な幼少期を過ごしながら愛するという表現において全く正反対の価値観を持っているからだ。

・愛するということ


月島と尾形の違いをまとめると

尾形→愛する者には尽くされたい・献身を求める(ネコチャン)
月島→愛する者に尽くしたい・献身する対象がほしい犬
鶴見への態度:月島→地獄までお供します:尾形→私のために働けよそ見するな(自分はよそ見します)

ざっくりこのようになる。

尾形が愛する者に無制限の献身を求めるのは何も鶴見中尉が初めてではない。むしろ、彼は作中一貫して愛する者には多大な献身を求め続けている。

尾形が作中で強い関心を向けたのは鶴見、アシリパ、勇作だと思われるが年下であるはずのアシリパにすら「俺に教えてくれないのか」と自分が彼女に何かをしてあげるよりも彼女が自分の為に何かしてくれることを期待している。
勇作に対しては遊郭での悪い遊びの誘い、旅順での「勇作殿が殺すのを見てみたい」というとんでも発言からの捕虜を殺してくれと言うお願いであからさまに「自分の為にタブーを犯してほしい」と求めている。

尾形にとっては愛する者は自分の為に一線を越えてくれる、無制限の献身をしてくれる者であるはずという期待がある。
そうしてその期待が裏切られると「俺ではだめか」になりまた後ろ頭を打ちぬく結果になっている。

尾形にとって愛するとは尽くされる事そのものだと言える。
それは言い換えると、どんなにわがままな自分でも受け入れてもらえる事だろう。

月島にとって愛するとは自分が献身すること、滅私奉公して尽くす事だ。

彼は少年時代からいじめられたいご草ちゃんを守るため暴力を振るってきた。月島が死んだと父がデマを流したせいで彼女が自殺したと知った時はキレて敵討ちとして父を撲殺している。
月島はとにかく尽くすと決めた相手のためなら自分を顧みずに献身する。それは恋人であるいご草ちゃんの頃からそうであったし、彼女が行方知れずの後は複雑な恩人である鶴見に一生を捧げようと誓い実行していた。

月島は尾形とは違い尽くされるのではなく、自身が尽くすことで愛を実感できる。献身できる相手がいることでやっと安心できるような人間なのだろう。滅私奉公という過度な献身に依存している状態なのではないだろうか。
実際に最終巻で鶴見が消息不明になった際にもいご草ちゃんの時と同じように不安定になり、燃え尽き症候群のようになっていた。

最後は鯉登少尉の右腕になることで安定したが、根本的に月島は愛する対象がいないと一人では腐ってしまう男なのだと思う。

尾形は尽くされることで愛を実感でき承認欲求が満たされ、月島は相手に尽くすことで愛と承認欲求を満たしている。

この両者の価値観の違いは幼少期の経験の違いからくるのだろう。

月島は元々父の悪評のせいで人殺しの息子、悪童などと呼ばれていた。島の中でかなり幼いころから無価値、あるいは有害な存在として扱われた彼は恐ろしく自己肯定感が低い人間になってしまった。後に鯉登に告げた「もともと自分の人生には価値なんてありませんから」の台詞には彼の自己肯定感のなさがよく表れている。
自分に価値を見いだせない月島にとって、自分に良くしてくれた相手に尽くすことが恐らく唯一自分に価値を与えられる瞬間だったのだろう。
だから献身すべき相手がいない時の月島はひどく頼りなく不安定な状態になってしまう。
ある種、彼の異常なまでの献身は、そうするしかなかった彼が身に付けた生存戦略の一つだ。

一方の尾形も実は幼少期には強く献身していた存在がいた。
母である。
精神を病んでしまった母をどうにか振り向かせたかった尾形少年はいつも得意の銃で鴨を取ってきては母に見せていた。
あんこう鍋ではなく鴨鍋を作ってほしかったから。
あんこう鍋=父ではなく、自分を見てほしいという精一杯の意思表示が健気に鴨を取ってくることだった。
しかし、母は最期まで鴨鍋を作ることはなかった。おそらくある時期から尾形はいくら献身しても母が振り向いてくれることはないのだと悟ってしまったのだろう。そして、尾形が必死で求めた母の愛は決して届くことはない父にばかり向けられたのだ。
来る日も来る日も、絶対にやって来ない父の為にあんこう鍋を作るという、まさに母の献身という形で。

尾形が母に求めた愛は「ひたすらなんの見返りもないのに何故か母から献身される父」という歪な形で示されてしまった。
いくら献身しても自分には振り向かない母が何もしてくれない父にはひたすら献身し愛情を示している。
こんな姿を幼い頃から見ていれば「本当に愛されているなら相手は無制限に自分に献身してくれる」と勘違いしても無理ないだろう。

尾形にとっての愛が「ひたすら相手からの献身を受けること」になってしまったのは幼少期の母への献身の挫折から来ているのではないか。
与えても応えてもらえず、何も与えない者こそが愛されるなら献身される者こそ愛される人間なのだと歪んだ固定観念を持ってしまうだろう。

…自分で書きながらひたすらグロテスクな家族風景に陰鬱になってきた。野田先生は陰鬱で最悪な家庭描写になにか特別なこだわりでもあるんですか。おかしいな。書き出したときはこんな陰惨で憂鬱な内容にするつもりではなかったんだけどな…変な箱あけちゃったな…

ああまぁとにかく
月島と尾形がそれぞれ過度な滅私奉公、無尽蔵の献身を愛だと歪んで認識していて、それは幼少期の体験によるものということです。

・二人を象徴するシーン(中央の飼い猫

ここまで書いてきたように、月島は尽くしたい・尾形は尽くされたいという正反対の欲求を持っている。
これはありきたりに言えば尽くしたい犬派の月島、尽くされたい猫派の尾形と捉えて差し支えないでしょう。
特に尾形は本編でも散々山猫と評されたり何かと猫っぽい仕草をしたりと芸者の息子という陰口以上に様々な意味を含んで猫扱いされている。
また月島軍曹もどうぶつフォーゼ化した際は犬だったりとその忠犬っぷりはやはり読者には犬を連想させる。(宇佐美のような狂犬ではない)

特に第78話「夕張炭鉱」の江渡貝低で二人が鉢合わせたシーンは象徴的だ。
造反組の尾形を月島が追い詰め、「本部の飼い猫め」と呼ぶシーンの次のコマには大きくネズミの死骸が描かれている。自分の利益のためなら簡単に寝返り誰からも餌を貰う野良猫の尾形と、鶴見や戦友に強い仲間意識を持ち敵の餌には決して食いつかない忠犬の月島。
両者の性格と生き方の違いがまざまざと見せつけられる場面だろう。
また基本的に群れを必要とせず非社会的である猫を尾形、群れで行動する社会的動物の犬を月島と捉えると月島の方が社会性があると言えるし実際そうだろう。尾形…
なお、この78話のシーンは最終巻第304話「歴史」でも登場しているので尾形という人間を象徴する場面としてとてもよくできているのは間違いない。

よく尽くしてくれる犬とわがままで気まぐれな猫
あなたはどちらが好きですか?

付録?:月島基とリュウの飼い主遍歴


本稿ではこれまで月島を犬のようだと例えてきたが、実は本当に犬そっくりな顛末を辿っていたりする。
ゴールデンカムイでは味方・敵勢力がかなりシャッフルされて常にメンバーが変動するのは有名な話だが、作中で忠義を尽くす対象が3度も変わったのは月島基以外ではアイヌ犬のリュウだけである。ちなみに尾形はそもそも誰にも忠義を尽くしてないのでカウントしない。
元々網走脱獄囚の一人であった熊撃ち・二瓶鉄蔵の猟犬だったリュウは二瓶亡き後、谷垣が持つ二瓶の村田銃を追いかけて釧路までやってくる実に健気な忠犬である。その後は主に谷垣の指示をよく聞いていたので彼の一応の飼い主は二瓶から谷垣になっている。更に樺太編の最後にはエノノカのコタンに残ることを決めたチカパシへ谷垣から村田銃と共にリュウが託された。
この様にリュウは村田銃と共に二瓶→谷垣→チカパシと合計3人の飼い主の間を渡り歩いている。
月島はというと、婚約者であったいご草ちゃんと悲劇的な別れをした後は上司で恩人の鶴見中尉の忠実な部下となり、彼とも生死不明の状態で離ればなれになった後は若き上官である鯉登少尉に生涯右腕として尽くすことで人生を全うしている。
リュウも月島も何度も飼い主が変わりながら、それぞれの飼い主に常に忠実である点もよく似ている。たまたま似通ってしまったのだと思うが、やはりこうした点からも月島軍曹の気質は正に「忠犬」そのものといえるだろう。
ただ、リュウがそれぞれの主人ときちんとお別れができて晴れやかに旅立っているのに比べて、婚約者とも鶴見中尉とも生死不明という消化不良な別れ方しかできなかった月島はかなり辛い人生を送っているように見える。こうした経験もまた月島の性格を病ませた一因なのだろう。
物語のその後で月島が最後まで鯉登少尉に尽くし健やかな一生を送ることを願ってやまない。

おまけ:あなたは猫派?犬派?



ここまで読んでいただけたかわかりませんが、読んでくれたあなたは犬派でしょうか?猫派でしょうか?
ゴールデンカムイの多くの登場人物は多分犬派になると思います。月島に限らず杉元も鯉登も谷垣も勇作さんも猫と言うよりは他者に尽くす犬っぽい。
しかし尾形が好きな方、あなたは多分潜在的な猫派です。尾形の様子を見ていると
公式からは山猫扱い・フレーメン反応・火鉢にたかる・狩ったヤマシギを自慢する・狩りが得意・セルフグルーミング…などなどもう明らかに意識して猫っぽい仕草ばかりさせている
周りに協力するどころかいつも周りを振り回して気まぐれに居なくなったり戻って来たり
そんな尾形が好きな人はどう足掻いても従順な犬に尽くされるよりわがままなネコチャンに振り回されたい猫派でしょう
お互い難儀ですね。
でも仕方ない。何故ならネコチャンは可愛いのだから。



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