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息ができるようになる代わり、世界から色彩が消えた

高校からの”記憶がある理由”

このシリーズの最初で書いたように、私は「高校より以前の記憶」があいまいです。裏を返せば「高校からの記憶」ならある。なぜか?・・・それは良くも悪くも「感情」と「事実」の切り離しを覚えたから。

高校生のときに出会った、とある作品

高校生以降の私の記憶は、感情も含めて割とはっきりしています。家庭でのやりとりは相変わらず靄がかっているものも多いけど、それでもそれ以前と比べれば鮮明に残ってる。

どうして高校からは残っているのか。
それは成長して精神的に自立できたから、とか・・そういう健全な理由では恐らくないと思っています。

ちょっと、うまく伝えられるか自信がないので、意味わからなかったらごめんなさい。「なんか世迷言を巻き散らかしてるやつがいる」的な生暖かい目で見てやってください(;^ω^)

私が記憶をはっきり保持できるようになった理由、それは自分の中の「感情」を切り離して、観察するようになった、把握するようになったから。

「分析思考」の大活躍だぞ☆

中学までの私はAさんから投げつけられる不安や悲しみを、無防備に受け取っていました。そして、Aさんの激しい不安や絶望に飲まれそうになっていた。記憶はあいまいだけど、激しい負の感情に飲まれないよう、常に必死だったような感覚は残ってます。

でも、高校のときに出会った、とある作品に影響を受け、「感情に飲まれそうになる」ということは激減していきます。

その著者さんに変なイメージが付いちゃうと嫌なので、名前は伏せさせていただきますが、とにかく作風に癖のある方です。一言でいうなら「登場人物全員ロボットか」っていうくらい、理詰めの文章を書く方。ミステリー作品のはずなのに、まるで論文の考察読んでるみたい・・(笑)

視点人物が自分や相手の感情について、かなり俯瞰的に観察する。日常の何気ない場面でも、殺人事件が起きて騒然としている場面でも、ヒロインが襲われてかなり緊迫した場面でも、文体は常に淡々としている。
情緒というか、温かみもなにもあったもんじゃない作品です(いや、そこが好きなんですけどね)。

この作品に出合った時、「これだっっっ!!!」って思った。

感情を分析、観察する、常に一歩引いて淡々と状況を把握する、どれもこれも、自分に必要なものを教えてくれている気がした。
「この登場人物たちのようになれれば・・もっと楽に息ができる」そんなことを思ったような気がします。

たぶん、負の感情の波にもまれすぎて、疲れてしまったんでしょう。だから、淡々と描かれる世界に安心感や安らぎを感じた。そして、そんな世界で生きたいと思った。

遅れた中二病というか・・クソ真面目にフィクションに憧れちゃったというか・・(;^ω^)

感情を切り離すようにはなったけど・・

その作品に影響を受けた私は、日常的に感情を切り離して、分析するようになります(っていって伝わりますかね・・)。
「自分は今不安になってる」とか、「イライラしている」とか、そういうのを客観的に把握して、その理由を分析する感じ。これだけ書くと、なんかちょっといい感じに聞こえますよね(アンガーマネジメントとかでも言われてる気がするし・・)。

でも、当時の私はそれを間違った方向に発展させてしまった。
感情を切り離して、分析するまではいい。でも、切り離した「負の感情」をどうしたらいいのかわからず、受け入れることができなかった。それらを否定してしまった。

困ったからって、捨てちゃだめぇぇぇ!!

ちょっとわかりにくいと思うので、例をだします(・・が、それでも伝わるか怪しい(;・∀・))。

私がミスをして、Aさんに「なんでそんなミスをしたの!」「そんなミスをするなんて、あんたはいっつも△△で○○(人格否定ワード)!!」と言われた場合。

〇高校以前の思考
どうしてそんなミスをしたんだろう、私は△△で〇〇な人間だ。このままじゃ、まともに生きていけない。どうしよう。(不安になって終わる)

〇高校以降の思考
ミスをしてしまった。対処をするために必要な方法を考えなければいけない。ミスをしたこと、Aさんに責められたことによって自分はショックを受けているが、その感情は対処には役立たないから”感じても価値はない”。それに、再発防止策も考えなければいけない。自分は△△で○○な人間なのだから、その特性を変質させるか、表に出さない努力をしなければいけない。そこに痛みが伴おうと必要なことだから避けてはいけないし、他の人は当たり前にできていることなのだから、そもそも痛みなど”感じてはいけない”。(具体的な行動+理詰めの自己否定)

いやいやいやいや・・・・ちょっとまて(;''∀'')。

なんで、そうなる。という話だと思います。
感情に飲まれてはいないから、具体的なアクションを検討することはできる。でも、冷静のようでいて、全然冷静じゃないし、客観的なようでいて、認知のゆがみ(マイナス思考)全開。

傍からみてたら笑っちゃうかもしれません。
でも、当時はとにかく必死だった。分析と理詰めの自己否定にすがることで、湧き上がる不安を必死に抑えていた。・・・そりゃ、戦略的思考力の資質がたたき上げられますよ(苦笑)。

理詰めの世界で生きてみて

ハチャメチャな理詰め思考だけど、それでも当時の私は「息ができるようになった」と感じました。Aさんの言動に感情の面でかき乱されることは激減したし、ある意味自分の意志が揺らぎにくくなった(理屈が通るか、で判断するから)。

でも、同時に世界が非常に無機質で、冷たいもののように感じた。

理屈が通ることが正しい、通らないことは正しくない。正しくないことは正せばいい。”不合理な感情”に振り回されない代わり、”弱さ”も”葛藤”も許されない、厳しくて無機質な世界。
「淡々とした世界で生きたい」そう思ってやったことだから、当然の帰結だと思います。隅っこの淡々生活実現チャレンジ、良くも悪くもまさかの大成功(苦笑)。

どこかの誰かは「世界は美しい」というけど、私のいる世界には彩りなんてない、温かみなんてない。目指した世界は実現できたはずなのに、その世界の無機質さにだんだんと心がすり減っていく気がしました。

理屈の世界には色がないですよ

振り返って思うこと

振り返ってみて思うのは・・
そりゃSFの資質、緑(戦略的思考力)と紫(実行力)に偏るわぁぁぁぁ~~~!!
ってこと(SFオタク・・笑)。

感情を切り離す、分析する、そのアプローチ自体がまずかったわけではないと思います。当時の私に足りなかったのは、「自分の感情を受け入れる」「自分の弱さを受け入れる」ということ。自分を受容する、ということ。そこを抜かしてしまったから、切り離した感情を自己否定の材料に使ってしまった。なんというか、セルフロジハラ・・(;^ω^)

別の見方をするなら、感情を乖離させることを選択した、ともいえるのかもしれません。そして、その癖は今でも抜けていない。だからカウンセラーさんに「どう感じますか?」と言われたとき、「どうと言われましても・・」となってしまう。専門家じゃないから、適当なこと言ってるかもしれないけど。

でも、だからって過去の自分を責める気にもなりません。自分の弱い部分や黒い感情を受け入れるには、ある種の強さが必要だと思います。当時の私はまだ子供で、未熟で、その強さが持てなかった。
それでも、自分にできることを自分なりに考えて、精一杯努力していた。

それなりに頑張ってたんじゃないかな。

子供の時に生んでしまったゆがみを、少しずつでも修正していくのは、大人である今の私の役目です。それには途方もない時間がかかるだろうけど、周囲の方の助けも借りながら、ちょっとずつ進んでいこうと思います。

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