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ASDの私がそうと知らず働き出した、その顛末。

私は、ASD(自閉症スペクトラム)だ。
その中の、アスペルガー障害にあたる。
更に、統合失調症だ。

これを知ったのが、27歳の時なので、
学生時代を含め、十数年、そのことを知らずに働いていた。

幼い頃、母親と祖母に連れられて、
スーパーへ行くと、店内がうるさい、と、
母親の手を振り払って、耳を塞いだ。

どこへ行っても、この調子。

幼稚園でも、生活音や大きい音と、
クラスメイトと手を繋ぐのが大嫌い。

聴覚過敏と、感覚過敏。

みんなで合唱しましょう、
楽器を演奏しましょう、ということが、
何より苦痛で、毎日が苦痛の連続。

私が子供の頃は、発達障害など
知られていなかったので、
なぜ、この子だけがこうなのか、と、
先生も親も悩んだそうだ。

そんな私が、様々なトラブルに見舞われながらも、小、中、高校と進み、
一転、平和で、友人にも恵まれた
短大生活を送り、卒業後、すぐに、
某製薬会社でアルバイトを始めた。

そもそも、卒業後も短大に残り、
漢詩の研究をするはずが、
突然、父親が退職してきたので、
働かざるを得なかったのだ。

家で、働いている人が私だけ、という
事態になり(姉は4年制大学生)、
今までの貯蓄があるから大丈夫だと、
母親から言われていたが、
それでも心配で、少しでも時給の高い
アルバイトを、と探していた時に見つけた会社が、先に書いた製薬会社だ。

入ってみて、すぐに、失敗した、と思った。

営業部営業課だったのだが、
電話は鳴り止まない、人の出入りが激しい、
そのたびにお茶出しをしなければならない、
数え切れないほど、私が苦手なことがあった。

そもそも、何故、ここを選んだかというと、
時給が高い他に、採用面接は静かな個室で、
面接官2人も穏やかだったので、
てっきりこういう会社だと思った。

ところが、入ってみれば、正反対。

職員さんは、いつもカリカリしていて、
少しでも成績を上げようと、電話を掛けまくり、外回りの職員さんも、帰ってきた時には、

「お茶!」

と、不機嫌そうに言う。

こちらも、仕事をしているわけで、
すぐに対応出来ない時がある。

そうすると、更に不機嫌そうに、

「お茶!!」

と、催促してくる。

仕方なく、手の空いた、女性職員さんが、
お茶を淹れて持って行くと、黙って一気に飲み干す、といった具合。

うるさい、職員さんの態度、職場の雰囲気。

全てが、私の苦手なものだった。

それでも、働いているのは、家で私だけ。
父親は求職中で、なかなか仕事が見つからない。

少しでも家にお金を入れなければならない。
その責任感が、私を支えていた。

しかし、特に私を苦しめたのは、コピー取りだった。

他の仕事は出来るのに、
コピーの拡大、縮小が出来ないのだ。

職員さんに言われた通りにやっているはずなのに、小さ過ぎたり、大き過ぎたり。

頼まれると、失敗の山を築き、
コピー用紙を補充しようとすれば、
コピー機に納める前に、床にばらまいてしまう。

私のこの行動で、職場のみんながイライラしているのが、鈍感な私でも分かった。

時には「またかよ」と、小声で言われたりもした。

そして、次第に、私にコピーを頼む職員さんは、いなくなった。

同時に、私は職場のみんなから、
距離を置かれるようになった。

昼休み、それまで、声を掛けられて、
他のアルバイトや職員さんと昼食をとっていたが、声を掛けられなくなった。

私はウォークマンで好きな曲を聴きながら、自分の席で母親が作ったお弁当や、コンビニ弁当を食べた。

ふと視線を感じて顔を上げれば、
数人の職員さん達が、私を見ながら
コソコソと話している。

私が見ていることに気づくと、
バツの悪そうに、ふいっといなくなる。

そんな日々を、半年間過ごした。

短大時代が、それまでと違って、たくさん友人が出来、楽しく、平和に過ごせたので、
それとのギャップは大きなものだった。

私って、やっぱり変なんだ。

小、中、高校と、対人関係につまづいて、
なかなか友人が出来なかったし、
短大時代の友人達は、私が変なことを言っても、『こういうこと?』と聞き返す、
大人な態度で接してくれたから、
上手くいっていたと、今更気づいた。

今は、そんな人、1人もいない。

そんなことを考えながら、自宅の自室で、
1人泣くこともあった。

そういう時は、子供の頃、親戚の叔父からもらった、キラキラ光る石を、ライトの光に翳して、その光を眺めて、心を落ち着かせた。

私は、子供の頃から、キラキラ光るものを眺めるのが好きで、幼い頃はフォークやスプーン、先に書いた、光る石をもらってからはそれを眺めるのが好きだが、
これもASDの方に見られる行動だと、
32歳で精神病院に入院した時、初めて知った。

こうやって、光る石を眺めている時だけが、心休まる時だった。

父親は、教材の訪問販売や、専門学校の事務職員などに就いたが、どれも長続きしなかった。

25年間、国家公務員をしてきた人が、
いきなり民間の、違う仕事に就くのは、簡単ではなかった。

私も、学生時代は、スーパーの品出しなど、
人と接触しないアルバイトをしてきたので、
いきなり、お茶出しだ、コピーだ、というのは難しかった。

これなら、スーパーで品出しをしていれば
良かった。

そう思ったこともあるが、時給を考えると、
製薬会社の方が遥かに良い金額だった。

何故、父親が突然、退職したのか、
姉と私には「片道2時間半の通勤が辛くなった」と言っていたが、母親によると、
それまでも、職場の飲み会で、酔って色々とやらかしていたが、またやらかし、
勤続25年の節目に辞めることにした、
というのが、真相のようだった。

父親が突然、退職してきた時には、
私は短大に残る、と言ってあったし、
その為に尽力してくださった方々を
裏切る形になり、本当にいたたまれない気持ちだった。

そこにきて、この、職場。

本当なら、漢詩の研究をしていたのに。

これは、未だに思うことだ。

そして、初めての、本格的なアルバイトは、
上手くいかないまま、最終日を迎えた。

お菓子を買って行き、皆さんに配り、
お世話になりました、と頭を下げた。

最終日になると、さすがに職員さんも
私を避けることはなく、
「お疲れさん」と言って、お菓子を受け取ってくれた。

課長も、よくやってくれたね、と
言ってくださったが、
私は自分の不甲斐なさ、職場への申し訳なさで一杯だった。

その職場を退職してから、2週間。
私は新たな職場、レストランにいた。

皿洗いを希望したのだが、
今、人手不足だと、ホールに回された。

私の仕事は、順番待ちの紙に書かれた
名前と人数を見て、席に案内すること。

これが、私には、本当に難しかった。

瞬時に、空いている席を見つけて、
案内することが出来ない。

名前を呼んでから、お待たせすることが
多く、早々に厨房に配置換え。

ランチタイムだけ、料理の盛り付けを
手伝い、あとは皿を洗った。

ここで、ASDのこだわりの強さが
出てしまう。

ポテトは、お皿の、この位置に。
人参のグラッセはこの位置に。

自分の中の法則に沿って、納得いくまで
置き直した。

すると、私のところで、皿がたまる。

「おい、まだかよ!」

ただでさえ、忙しいランチタイムで、
こんなことをしていたら、
次の工程の方に、怒鳴られる日々。

その大きな声に、動きが止まる。

この職場に入る時に、大きな音が苦手です、
と、伝えてあったが、
まぁ大丈夫でしょう、と軽く返された。

その結果、毎日が、この繰り返し。

このレストランにアルバイトで入ったのは、
何度も利用したことがあり、
店の雰囲気を知っているからだが、
それは表向きの顔。

裏では、大きな声と音が飛び交う、
戦場のような場所だった。

結局、私は4ヶ月で、そのレストランを
解雇された。

ホールは出来ない、盛り付けは遅い、
皿洗いも遅い。

戦力にならないというわけだ。

逆を言えば、
よく4ヶ月も雇ってくれたと思う。

私は素直に受け入れた。
その後、そのレストランには、
一度も行っていない。

これは、ドラマ『厨房のありす』に、
そのまま出てくるシーンだ。

ASDの女性、主人公のありすが、
レストランで働く場面は、
そっくりそのまま、私のしていたことだった。

私とありすの違う所は、
ありすは天才的な化学の知識を使って、
美味しい料理が作れたので、
父親が、ありすの為に、小さなレストランを
用意し、そこで腕を振るうことが出来た。

対して私には、何の特技もなかった。

大きな音や声が苦手で、こだわりが強く、
臨機応変が出来ない。

何で、出来ないんだろう。

私は落ち込んだ。自分が無能に思えた。

毎日、デジカメで撮っていた、大好きな空の写真も、撮らなくなっていた。

ただ、眠る前の数分間、光る石を眺めている時だけ、嫌なことを忘れられた。

そろそろ、そういうことはやめろ、と、
両親から言われていたが、
こうでもしないと、心の負担が大きかった。

そんなある日、父親の仕事が決まり、夜勤はあるが、安定して収入が得られるようになった。

それなら、私が働かなくてもいいじゃん。

私は、軽い『仕事恐怖症』になっていた。

事務職ならコピー取りがあるし、
接客も、飲食の裏方も向いていない。

私に出来る仕事って、何?
答えは出なかった。

しかし、父親の収入が、以前の3分の2になり、瓶で買っていた、美味しい地酒をやめて、パックの安い酒にしたり、煙草をやめたり、
目に見えて、生活の質を落としているところを見ると、このまま無職でいるわけにもいかない。

気は進まなかったが、毎日、スーツを着て、
職安に通うようになった。

同じ轍は踏まないと、職安の方に、
大きな声や音が苦手なことを伝えると、
中には、障害者雇用枠での採用を勧めてくる
職員さんもいた。

「いえ、私、障害者ではないので」

そう言って断っていたが、後に自分が障害者だと分かった時には、職安の方に先見の明があったのだと思った。

父親のアドバイスに従い、
県庁や、県の外郭団体の求人を見ると、
私でもやれそうな所が幾つかある。

そこで、私は県庁の、職業能力開発課に
応募した。

職安から直接、面談に行き、即採用。

あとから、応募したのは私だけだったと聞いた。

期待した通り、頼まれる仕事は、
技能五輪(仕事のオリンピック)の種目のポップ作り(48種目ほど)、案内状の切手貼り(100枚ほど)、その他にもあるが、コピーは頼まれたことがなかった。

何故なら、その課では、自分でコピーを取る職員さんがほとんどだったからだ。

お茶出しは、製薬会社での経験が役に立った。

ほとんど電話は鳴らない、職員さんはみんな穏やかで、外回りもないから「お茶!」なんて言う方もいない。

静かで、穏やかな職場。

信じられないほど、理想の職場だった。

更に、私が1度に何個かまとめて指示を出されることや、曖昧な指示をすぐには理解するのが苦手と見抜いて、
職員さん自ら、頼むものはひとつ、明確な指示を出す、ということを心がけてくださった。

その思いやりに応えようと、私はがむしゃらに働いた。

どんなに大量の仕事を頼まれても、
はい、分かりました、と、笑顔で答えた。

単純作業は、私にとても合っていた。
期限を守れば、自分のリズムとペースでやればいいので、職員さんから催促されることもない。

特に、封筒に切手を貼る仕事は、毎日、誰かしらから頼まれていた。

1度に50枚ほどが多かった。

切手を、自分の決めた場所に貼るのは、
数をこなしているうちに、自然と1回で
そこへ貼れるようになった。

時給は、当時の最低賃金、650円。
家に入れる金額も、グッと減る。

しかし、私には、ここしかなかった。

職員さんとも仲良くなり、
総務部が主催する、課対抗のバドミントン大会に参加したり、
製薬会社では、アルバイト抜きだった、
飲み会に参加したりした。

特に、全国知事会のお茶出しのため、
職員さんと2人で、知事公館で奮闘したことが印象に残っている。

2人で、お茶を淹れながら、48人に出していくのは、大変だったが、こういう場合、アルバイトが知事公館に入れるのは、稀なことだと教わった。
ほとんどは、職員さんが出向くそうだ。

「まゆこさんなら、大丈夫よ」

職員さんの言葉が、嬉しかった。

最大3年の契約、更新月になると、
うちに欲しい、と、私の取り合いが、
部署同士で始まる。

必要とされている、ということが、
何より嬉しかった。

結局、私は、すべての部署で仕事をさせて頂いた。

特に、技能検定の賞状を各会社に送る作業は、力も必要だった。

ざっと1500枚の賞状を、1人で、
級ごと(3、2、1、特級)と、受験した会社ごとに分ける。

紙1枚は軽くとも、100枚だと、ずっしり重い。

3級は、最初に受けるので、まず不合格の
受験生はいない。3級の仕分けが1番、
きつかった。

これが最初のステップなのだが、
集中力がかなりあることが役に立った。

時折、職員さんから「少し休んだら?」と
言われるほど、傍から見ても集中して
作業していた。

しかし、休んでいたら、期限に間に合わないので、お茶を1杯飲んだら、すぐにまた取り掛かる、という具合だった。

級もそうだが、名前も間違えてはいけない。

同姓同名の受験者は、本当に合っているか、何度も確認した。

仕分けが終わると、直属の上司と、
級、名前が間違えていないか、
ダブルチェック。

この時、山﨑さんが『山崎』と印字されていることに、私が気づき、上司と慌てて印刷部に駆け込んだことがあった。

それが終わると、会社に送る賞状と、級ごとのバッジを、専用の、ダンボール紙で出来た筒に1枚ずつ入れていく。

技能検定は、建具、円盤などの工業系から、洋菓子、和菓子、洋食、和食など、飲食系の、仕事の検定なので、
会社で取り組んでいる場合が多い。
ほとんどの場合、賞状は会社に郵送する。

上司と2人で、台車の耐えうる重さギリギリまで乗せて、県庁内の郵便局に行く。

これを、往復2回。

きつかった。

賞状を、台車限界まで乗せているので、
かなり重く、思い通りに台車が動かせない。

上司についていくのが、やっとだった。

郵送が終わると、忙しさのピークはすぎるが、県庁まで、直接、賞状を取りに来る会社もある。

その会社の方に、賞状と級ごとのバッジを渡すのも、私の仕事だった。

ここで、私の記憶力が役に立った。

棚のどこにどの会社、と、完璧に覚えていたので、取りに来られた方を、お待たせすることがない。

私は小、中、高校と、いじめられっ子だったが、例えば、6月9日は、小学校でT君に初めて傘を隠された日、というように、子供の頃からの記憶が鮮明にある。

それは技能検定に限らず、
「まゆこさん、あれ、どこだっけ?」
と言われたら、すぐに答えられた。

賞状を仕分ける中で、受験者の名前と会社を
だいたい把握していたので、
上司が「あれ?○○さんて、どこの会社だっけ?」と呟いたら、

「O崎工業です」

と、すぐに答えられた。それは、重宝された。

それまで、私は、記憶力が良過ぎることを、
疎ましく思っていた。

良い記憶と同時に、悪い記憶も忘れられない。

それは、いつも「あ、今日は…」と、
どんな嫌がらせをされたかを思い出すからだ。

しかし、このように、仕事に生かせる日が
来るとは思わなかった。

過去に縛られるな、と、よく言うが、
忘れたくても忘れられない、ということも
あるのだ。

それが、嫌な記憶を持ちながらも、
仕事に役立てられるとは。

このことは、私にとって、非常に大きかった。
記憶力で、微力ながら、人の役に立てることが嬉しかった。

幾つかの季節が過ぎ、2回目の技能検定に関する仕事が全て終わる頃、
私は3年の任期満了で、県庁を去ることになった。

送別会は、普段は飲み会に参加しない方も
来てくださり、また、
課長、部長まで来て頂いて、楽しい時間を
過ごした。

そして、帰宅後、サプライズが待っていた。

仲が良かった職員さんから、タイミングを
見計らったように、次々と、
温かい言葉に溢れたメールが、携帯電話に
届いたのだ。

私は泣いた。
嬉しくて、後から後から、涙が出てきた。

製薬会社でうまく出来なくて、流した冷たい涙ではなく、温かい涙だった。

職業能力開発課で働いたことは、
あの日々は、間違いではなかった。

1人ひとりに、心を込めて返信した。

3ヶ月後には、次の職場が待っている。
そこは福祉団体で、課長から紹介された。

また、使い物にならないと烙印を押されるか、上手くいくか、分からない。

しかし、Kさんが送ってくれた言葉、
『頑張っていれば、必ず見ていてくれる人がいるから』を頼りに、私は3ヶ月後に
思いを馳せた。

携帯電話には、まだ次々と、職員さんから
メールが届く。

これは、私が頑張った証。

1度だけ、ぎゅっと、携帯電話を胸に抱いた。

次の職場でも、頑張るだけ。

そう思いながら、胸から携帯電話を離した。

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