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あなたの苦しみ 代われるなら ~学校エッセイ21~

あな、たの、かな、しみ、かわれるーならー、わた、しは、この、まま、そばにいーたいー。80年代のアイドルの歌だ。私は文章(のタイトル)で曲名や歌詞などをもじることをよくしているのだが、世代の違う方(やその作品を知らない方)には通じていないものもありそうだ。可愛い人がビブラートで聴かせる、優しい歌です。

「かなしみを代わる」にはどこか詩的な響きがある気がする。「苦しみを代わる」方が、何だか重たい。我が子が辛い目に遭っていたら、親は、「代わってやりたい」と思うらしい、きっと思うのであろうが(私には実子がいない)、私は生徒の「苦しみ」を代われるだろうか。苦しみの内容や度合いによる、なんて言ってしまえば、ただただ身もフタも皆無だが。

「君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる」。こんな歌もあった。個人的にはこっちの方が好き(なノリ)かもしれない。苦しみを代わる、は、受動的。君の笑顔のためなら何でもする。こちらは能動的。自己中心的な私の謳いそうな文句だ。流石に、偽善、とまでは思いたくないが。

人生の年輪を重ねたが故に、若い子よりはきっとそれに耐えられるな、と思う(思える)ような苦悩であれば、代わりたい。また、「期間限定」のものであるならば、喉元過ぎるまでは我慢できるかも。正直すぎますか? 虚構の作品における艱難辛苦や不幸には、多くの場合、裁きや解決や救いがもたらされたり、或いはさらに崖底に突き落とされたり、と変化がある。しかしこの世の苦しみには、真っ黒に近い灰色が続くだけのものもある。その現実に全く怖じない人がいるのだろうか?

教員としての日々の中で、この子は本当に辛いな、と思う場面は少なからずあった。何もできない。何を言っていいのかも分からない。肩に手を乗せる、ハンカチを差し出す、一緒に心で泣く。それが精一杯だ。「もしかして家で、親御さんの行動に困っているんじゃない……(甚だ婉曲的な表現)?」と言って、相談窓口の電話番号を渡したことはある。卒業後、その子は言った。「当時は、分かってくれていたんだ、と思うより、ショックでした。自分の家は普通だと思いたかったし……」。「同情するなら金をくれ」という、貧しい少女がドラマで吐いた名言があるが、それと逆だろうか。「同情しないでくれ。同情しても同情を見せないでくれ。私に何も恵まないでくれ、何故なら私は恵まれない子なんかじゃないから」。最近病気をして、そういう気持ちが少し分かったような気がした。辛いから優しくしてほしい、分かってほしい。そうとしか思わないほど人は単純ではない。寧ろ苦境に陥った時にこそ、「自尊心」は強くなるのだ。私の置かれている状況は特異ではない。私は困ってはいるけれど、かわいそうなんかじゃない。哀れまれていると一瞬でも感じたら、私たちは二度とその人の眼を見ないであろう。切るに切り難い家族関係も、成人したら、心情的にも法的にも絶つことは可能だ。

あな、たの、かな、しみ、かわれない、けど、わた、しは、この、まま、そばにい、たい。こう歌ってよいだろうか? だって嘘は言いたくない。

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