旅するアストライア
アカデミー賞授賞式で起きた平手打ち騒動。このニュースの、日米の受け止め方の違いから、言葉の暴力、体の暴力について考えてみました。今回のニュースつぶやきは、拡大版です。
非言語性学習障害、つまり言語以外での意思の疎通が困難、すなわち「空気を読むのが苦手」ということ。
いる。こういう人いる。自分では面白いこと言ってるつもりで、周りがどん引きすることを言っている人はいる。
この特性を持っていながらよくコメディアンとしてやってこれたなという思いがある(空気の読めなさをブラックジョーク風にしていたのか?)反面、やはり本来の芸風以外の分野──今回みたいになにかのプレゼンターや司会をさせるには相当のリスクを主催者側が払わなければならないだろうとも思う。
この相手ならここまで言ってもギリギリ許容してもらえるとか、この相手にはここまでにしておこうとか、下調べした上で瞬時に話の振り方を構築する技術が司会者には求められる。
障害を持っているから人を傷つけることを言ってもしかたない、とか、障害を持っていても職業選択の自由は無制限に認められるべき、とかいった話は入り込む余地は無い。どのような者であれ、精神・肉体問わず、人を傷つけても罪に問われないなどということは決してあってはならないと、私自身は思っている。(現実の法には即していないけど)
障害の程度によって任せられる仕事は限られているし、それを任せる側の責任は常にある。にもかかわらず、アメリカはクリス・ロックにこの仕事を依頼した。舌禍を起こすかもしれないということは多分にわかっていただろうに。そして、ウィル・スミスの妻を侮辱したこの男よりも、この男を平手打ちにしたウィル・スミスの方を糾弾している。これは、アメリカの価値観を如実に示した例だと思う。
おそらくアメリカでは、言葉で人を傷つけることは、肉体的に人を傷つけることよりも軽く見られている。銃を使った凶悪犯罪が多発し、人種差別感情による暴行事件がいまだ絶えないアメリカの歴史や社会が、肉体的な暴行は死に直結するという歴史や社会がこの空気を作り上げたのだろう。それは日本とアメリカのウィル・スミスに対する感情を見ても明らかだ。かく言う私も、彼の対応に称賛を送る者のひとりだ。
暴力はいついかなるときでもいけない、と口にすることはたやすい。しかし、世の中には口で言ってもわからないという人は少なからずいる。それは単に性格の問題かもしれないし、今回のように障害が関与しているものかもしれない。ひどいことを言うのはやめてください、とお願いしてもやめずに、延々と侮辱を続けてきたら。そしてそれを我慢するのが当たり前だという空気が社会に蔓延したら。それをこそ許してはならないだろう。
私は人間をあまり高等な動物だと考えていない。なまじ知恵を待っているがゆえに、人の嫌がること、怖がることを嬉々として行う外道すらいる。いつかわかってくれるはず、そうであっても、そのいつかのために、どれだけの時間がかかり、どれだけの人が心身両面で犠牲になるのか。天秤にかけて、被害が大きいと判断した場合、私は躊躇なく介入する。いつだったか上司と、上司からパワハラを受けている同僚との間に割り込んだように。
あのとき、もっと激しい言葉の暴力で、私がマッチョメンだったら、張り倒すくらいはしていたかもしれない。ざんねんながら、飛んでくるパワハラワードのすべてを撃ち落とすことはできず、いくつかは抜かれて私の後ろにいる彼女にも届いてしまったからだ。暴行罪で捕まろうと、黙らせるために物理で殴るという選択肢がほしいところだった。
いかなる理由があっても暴力はいけないというのならば、同様にいかなる理由があっても言葉の暴力はいけない、とセットで言わなければならない。
今回のニュースではアメリカ人の意識がどこにあるか浮き彫りになった。(もちろん、全てのアメリカ人がそうでないことはわかっている)そして、障害者雇用に関することも考えるきっかけになった。
人に迷惑はかけていい。仕事で足を引っ張ってもいい。それは将来における雇用や生活支援への重要なフィードバックとなるからだし、そもそも迷惑をかけずに生きている人間など存在しない。しかし、心身問わず、誰かを傷つける行為を容認してはならない。子供のしたことだから、障害を持っているから、では済まないのだ。
私は、優しくありたい。
優しくあるために、守るべきものがあるときには、私は戦うことを辞さない。戦う相手が、旧来の友であっても、世論であっても。