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あの日を振り返って

 今日で東日本大震災から10年がたちましたね。

 
 どうも、ストゼロを愛する私です。


 昼間、あの記憶を忘れないようにと、あの日のことを思い出しながら書き出していたんですが、書いているうちにどんどんつらくなってきてしまって、きりのいいところで書くのをやめました。そして封印して、誰にも見せないようにしました。

「あの日のことを忘れてはいけない、風化させてはいけない」と言いますが、そもそも忘れられないものでした。むしろあのときの恐怖や苦しさといったものにできるだけフタをして生きてきた10年間だったかもしれません。

 日常が破壊される。

 それも自然の身震いひとつで、なんの前触れもなく。

 今日はほんとうに疲れました。自分がどれほど精神的にまいっていたのかを再認識したからです。追体験と言ってもいいでしょう。まだ高校生だったあのころよりは大人になって、自分の感情や思考のしかたにすこしは適切な言葉を当てはめることができるようになったからでしょうか。

 漠然とした、得体のしれない恐怖や不安だったものに形を与えた結果、それが想像していたよりもはるかにおぞましい怪物だったことにショックを受けたのです。自分の心に深く斬り込んだこの怪物と格闘するには、あまりにも私は無力だということもわかってしまいました。

 漠然とした、明確でない不安のままにしておけばよかったのでしょうか。

 その答えはわかりません。

 ですが、個人的には、どんなに打ちのめされようとも、はっきりわかったほうが対策を立てやすくはなると思っています。そして同時に、何かに当てはめてしまうことによって、本質を見誤る危険もあると思っています。
 さらに、自分を脅かす何かを見極めようとすると、わかりやすい考え方とか、すぐに答えを出してくれる人や風説に飛びついてしまいがちです。追い詰められてせっぱつまっているときならなおさら。
 誰もが誰も、いつでもどこでも心を強く持つことができるわけではないのです。人の心はうつろいやすく、うつろう心は染まりやすいもの。心の弱いところにつけこむヤカラと、心の弱いところを支えてくれる人の区別は、ふだん通りの生活をしていても見わけがつきにくい場合もあるのです。まして災害や犯罪に巻き込まれた非常時なら。

 今、すでに精神的疲労困憊の極みですが、それでも今回文章にしたことによって、いくつかの点を浮き彫りにすることができたように思います。非常事態に放り込まれたら自分の置かれた状況を分析、言語化することによって、

・漠然とした曖昧な不安を言葉にすることにより対策が立てやすくなる
・明確化したことにより、真の恐怖や新たな不安に直面せざるをえない
・ステレオタイプな事例に当てはめてしまうと問題の本質を見誤るかもしれない

 ということが認識できました。さらに、災害時など平常心を失ってしまうような場面では、

・わかりやすい言説、都合のよい言説に飛びついてしまう恐れがある
・悪意を隠して接近してくる人間に気づきにくい

 ということも再認識しました。

 いたずらに不安に怯えるのか、真実を知り打ちのめされながらも立ち向かうのか。
 都合のいい話しか聞きいれないのか、不確かな風説に惑わされずに信じ合えるコミュニティをつくれるのか。

 非常事態に限った話ではないはずです。身の回りに潜む不安、嫌悪、忌避するものに光を当ててその姿をあらわにするのは勇気がいりますが、避けて通るのと、直視するのとでは、どちらが理にかなっているでしょうか。その時々によって判断基準も違うと思いますので、一概に言えるものではないと思います。

 思考する私たちの真価は、いつだって問われています。

 

 今日は、疲れました……

 明日もお休みでほんとうによかった。


 それでは、みなさんおやすみなさい。
 読んでいただいて、ありがとうございます。

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酎 愛零(ちゅう あいれい)
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