梅香る南関東をゆく:小石川植物園 その②

画像1 小石川植物園つづき。標本園ならではの多彩さを楽しみつつ、酎愛零は草だんごをどこで食べるかさまよう......
画像2 「守の関(もりのせき)」。さて、先ほど草だんごを持っていると言いましたけども、食べる場所がないんですよね......
画像3 ベンチはなくはないのですけど、数が少ないのですべて埋まっておりますわ
画像4 あ、小石川植物園は飲食物の持ち込み可です。アルコールがダメだということと、ごみは各自で持ち帰るということを守れば、園内で飲食は可能ですわ
画像5 「古郷の錦(こきょうのにしき)」。今度来るときは、小さくてもよいのでシート持参ですわね
画像6 一重咲きの大輪、「道知辺(みちしるべ)」。早咲き品種なので、もう終わりの時期ですね
画像7 道知辺という名は、香りが強くて夜でも開花していることがわかるので、「道標」の代わりにもなる......ということからだとか
画像8 「長寿」。さて、小石川後楽園、小石川植物園ときたからには、この「小石川」という名前に興味がある、もしくは聞き覚えがある、という方もいらっしゃるかもしれませんね
画像9 小石川の名を一躍有名にしたのは、なんと言っても「小石川養生所」の存在でしょう。小石川養生所は、江戸時代の享保年間から幕末まで、140年あまりにもわたって開設された無料の医療施設です
画像10 「桜梅」。この小石川養生所は主に貧しい暮らしをしていた困窮民のために無料で治療を行いました。当時の江戸は農村部からの人口流入が続き、江戸市中には生活困窮者があふれていたと言います
画像11 そんな中、かの目安箱に投書された文の中に、無料で治療を行う施薬院の設立を嘆願するものがありました。その投書を行った者こそ、漢方医の「小川笙船(おがわ しょうせん)。」
画像12 「蘇芳梅(すおうばい)」。小川笙船の訴えは採用され、かくて享保7年(1722年)、幕府の管轄する小石川御薬園内に養生所が開設されたのです。養生所は小川笙船をはじめとした医師、役人である与力、同心、その従者である中間たちが業務に従事しました
画像13 現代で言うところの経理事務、入出立ち会いを与力が、購買部を年寄同心が、平同心は部屋の巡回や薬膳の立ち会い、中間が看病、洗濯、門番などの雑用を担当したそうです
画像14 「紅千鳥」。これは今で言う看護と介護を併せ持った施設。夜間の急病にも対応可能であったというのですから驚きです(夜勤医師がいたそう)
画像15 もちろん、最初から順風満帆だったわけではありません。幕府の御薬園に建てられたため、新薬の実験台にされると噂されたり、無宿者(宗門人別改帳に名前の記載の無い者。現代の住所不定に相当)と同等の扱いを受けることを嫌われ利用が滞ったりもしたそう
画像16 「未開紅」。その後、町名主たちに養生所の見学を行わせたり、身寄りのない貧民だけでなく看護人のいる貧民も収容したり、徐々に入院患者は増えていきました
画像17 明治維新によって廃止されるまで、貧しい人々の命を守る最後の砦であったでしょう、小石川養生所
画像18 その崇高な理念に想いを馳せつつ、草だんごを食べる場所を探してさまようわたくし......
画像19 「月宮殿(げっきゅうでん)」。でもこれ、現代だったらどうでしょうね。昔と違って今は外国人がたくさん入ってきています。もし、この制度のまま、外国人も収容するとしたら?
画像20 おそらく「日本はタダで治療をしてくれる国」と認識され、外国人が大挙して押し寄せることでしょう。それはすでに生活保護というシステムに弊害をもたらしているのですから
画像21 必要なのは博愛精神だけで、お金はいくらでも湧いてくる──そんなわけはないのです。理想を下支えするのは、やはり現実なのです
画像22 日本全体が下降に向かっている今、お金の湧きいづる壺などないのですから、理想のみを語る者には注意しなければならないでしょう。それが次代の指導者にふさわしい者の言葉なのか、日本人のお金にたかる輩の甘言なのか、夢見る狂人の戯れ言なのか
画像23 思いがけず、梅見に来て、日本の福祉や社会セーフティについて考えることとなりました。歴史に学び、過ちを繰り返さないようにするのがその第一歩であると思います。
画像24 小石川植物園、予想を越えて深い思索のできる場所でした!お越しの際は歩きやすい服装と靴をお召しになることをおすすめいたしますわ!それではまた、どこかの梅林でお目にかかりましょう。ごきげんよう~

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