「結婚間近にふられましたが、幸せは思いがけず突然やってくる。……いやほんと、予想以上の展開だよ!?」 第9話
(第一話はこちらです)
まさか、こんなところで博昭に会うなんて。
結婚の話がなくなってから、10か月の間、1度も会うことなんてなかったのに。
博昭によりそうように立っているのは、華やかな着物姿の女の子だった。派手な容姿ではなく、どちらかといえば顔立ちは地味だ。
けれど好きな人と一緒に過ごすためにめいいっぱいおしゃれしたのだろう初々しさが、輝くようにかわいらしかった。
そんな彼女に影響されたのか、博昭もまたいきいきとした様子だった。
落ち着いた雰囲気は以前のまま、けれどどこかに華やいだ楽しそうな雰囲気が確かにあるのが感じられた。
彼のそんな表情を、私は見たことがなかった。
かたことの日本語で声をかけられたことに面食らいながらも、にこやかに博昭はリチャードのカメラを受け取った。
リチャードは博昭に御礼を言って、私のほうへ戻ってくる。
とうぜんリチャードを見ていた博昭の視線は、リチャードが歩いていく私のほうへとむけられ。
「香苗」
私に気づいて、一瞬で、その表情がこわばった。
「ひさしぶり。元気そうだね」
私は、まるでむかしの級友に会ったみたいな、かるい挨拶を口にする。
「あぁ。香苗も……」
ぎこちなく微笑んで、博昭が応える。
笑え。笑え。笑え。
自分に命令する。
立ち直ったと思っていた。
博昭と別れた傷は、もうほとんど治っていると思っていた。
けれど現実に彼と顔を合わせると、あの時に時が巻き戻ったかのように、心が悲鳴をあげる。
ひどい、苦しい、こんなのってない。
どうして私じゃだめなの、って。
けれどたぶん、これは違う。
いま、この悲鳴をあげている心は、あの時の私の悲しみの残滓だ。
傷つけられた心の怨嗟だ。
いまの私の悲しみじゃない。
それに。
私は、博昭が好きだった。
別れるといわれて、悲しかったのも悔しかったのも、……裏切られたと思ったのも嘘じゃない。
それでも彼と過ごした4年は、幸せな時間だった。
彼といたから、幸せだったのだ。
そのすべてを、怨嗟で塗り替えるつもりはない。
博昭との別れは、終わったことだ。
あの時泣いて、怒って、終わらせたのだ。
だから、今は、かつて好きだった人の幸せを祈る。
そんな人間でいたいと思っているから。
笑って、言う。
「うん、元気だよ。こんなところで会うなんて、奇遇だね」
笑顔で、言えた。
だけど、どんなに取り繕っても、私たちの間に流れるのは、ぎこちなくて、不自然な距離のあるやりとりだったのだろう。
博昭のそばにいた女の子は、私たちのやりとりを聞いていて、はっと息をのみ、私の顔を見た。
そして博昭の顔を見て、確信したように、私に深々と頭を下げた。
この子は、博昭に付き合っている女がいたことを知らなかったと聞いている。
私も博昭も、会社の人間にプライベートを公言するタイプじゃないし、勤めていたのは別の会社だ。
ごく親しい友人以外は、私たちの恋人の存在を知らなかったはず。
だから彼女が私に頭を下げる理由なんてないはずなのに、彼女は私に謝罪する。
きっといい子なのだろう。
けれど、その彼女の善意は、私の心を醜くざわめかせた。
『カナエ』
奇妙な発音で名前を呼ばれて、どろりと育ちそうだった心のざわめきが消える。
そんなかたことで私の名前を呼ぶのは、ここではリチャードしかいない。
引きずり込まれそうだった悪夢から覚めた気分で、リチャードを見る。
リチャードは、まるでこの微妙な雰囲気に気づいていないかのように、あざやかに私に笑いかけた。
『写真、とってもらおう?』
『……そうだったわね』
私と博昭の空気に気づいていないはずはないのに、そんなことは気づいてもいないように楽し気に笑うリチャードに戸惑う。
気づいていないはず、ないのに。
……まぁ、リチャードには関係のないことだから、気づかないふりをしているのかもしれない。
他人のもめごとに巻き込まれたい人なんて、あんまりいないし。
それに私と博昭だって、もう「他人」だ。
これ以上、話すこともないし、さっさと写真だけ取ってもらって、ここを去ろう。
リチャードと私は、博昭たちからすこし離れた場所で、写真に撮られるための笑みを浮かべた。
「オネガイシマース」
リチャードが手をふって博昭に合図を送ると、博昭はあわててカメラを構えた。
「あぁ、はい。……撮りますよ」
その言葉とともに、カメラのフラッシュがまたたく。
笑え。笑え。
私は口角をあげて笑顔をつくり、またざわめき始める心を押し殺す。
ぐっと、強く肩を抱かれた。
リチャードの手が、私の肩を抱いている。
大きな、あたたかい手だ。
リチャードは私の頬に頬を寄せて、大きな声で言う。
「モウイチマイ、プリーズ」
ちらりと、彼の顔を見る。
リチャードは、屈託なく笑っていた。
私の視線に気づき、笑みを深める。
『前を向いて』
言われて、前を向く。
博昭はほっとしたような、泣きそうな、奇妙な表情をしていた。
私と視線が合うと、カメラを構えて、視線から逃れようとする。
肩にまわされたリチャードの手に、もう一度、ぐっと力が入った。
まるで、私を守ってくれているかのような力強い手だ。
私は、カメラに向かって笑った。
さっきよりも自然に笑えた気がした。
第10話に続きます。