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2万5千円の部屋で、春を待つ


18歳までを過ごした本州最果ての村は、波の音が子守歌だった。雲が低い日はごうごうと海鳴りが響く。静かな夜、というものを、経験したことがなかった。


大学に入学して、ひとり暮らしをすることになった町は、四方を山に囲まれた、のどかなところだった。


選んだ部屋は、8畳の洋室に4.5畳のキッチンという1Kの部屋。古い建物だったけど、リフォームしたてだという部屋は綺麗だった。ここにしよう、と母と決めた。

決め手は家賃だった。破格の2万5千円。学生の多い町だったけれど、それにしても安い。ちょっとビビりつつも、新生活への期待はふくらんだ。

引っ越してきた日の夜、静かすぎることに驚いた。初めて経験する、波の音がしない夜。3月の末、まだ雪が降っていたこともあって、何の音もしない。ベッドとストーブしかない部屋。ここで暮らしていくことが、ちょっと不安になった。


駆けていく春、暑すぎる盆地の夏、あってないような秋、長い冬。この町で、この部屋で、季節の移り変わりを、6回数えた。


父に設置してもらったベッドサイドのライトをつけて、寝る前に読書するのが習慣になった。無駄にでかいテレビをもらった。映画をたくさん見るようになった。彼氏と喧嘩した友達を泊めた。バイト先の友達とパズルしながら夜を明かした。冬は鍋ばっかり食べた。数ヶ月だけ彼氏と暮らしてみたりした。近くの河原で友達と花火をした。めんどくさがって買い直さなかったカーテンは、最後まで丈が足りないままだった。


静かすぎる夜でも眠れるようになった。


レポートが終わらなくて、でも寒くて、ベッドで書いてたら寝落ちした。厳しい先生の授業は過去問を10年分集めて床に広げた。卒論前、3夜連続の徹夜のあと、21時間寝てバイトをすっぽかした。大学院に行くことを決めた。アフリカに行くのが決まった。アメリカにも行った。秋は、学会や研修なんかで家をあけることが多くなった。アフリカから帰ってきた日、ほこりっぽいキッチンで米を炊いた。


研究者への道を、博士課程への進学を諦めた。理科の先生になる夢は叶わなかった。大好きだった先輩の彼女になることはもうたぶん、一生ない。


6年目の冬、就職が決まった。春からは、東京で暮らすことになる。


この部屋で、たくさんの時間を過ごした。たくさんのことを決めた。たくさんのことを学んだ。たくさんのことを諦めた。故郷の村の次に、長く暮らした場所。


毎朝、ベランダから外を眺めてみる。山の雪はほんの少し。最後の冬は、雪が少なそうだ。それでも肌を刺す冷気は、3月になってもおさまらないのだろう。

春は、まだ遠くていい。



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