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Pearl Pool




たった一夜の記憶に囚われたまま、この海を漂っている。




Pearl Pool




星の砂って、生物の死骸だって知ってました?


唐突にそう尋ねられたのは、初夏のことだった。春から始まった海洋系の講座に参加し始めて1ヶ月が経ち、参加者の顔はだいたい覚え始めてきたころ、声をかけてきたのは、いつもひとりで窓側の席に座っている彼だった。


地元の博物館の市民向け講座は、シニアの方ばかりで、まだ20代半ばの私と彼はすこし浮いていた。お互いひとりで参加している彼と、話せるようになったらいいなと思ったことはあったけれど、講座が終わると慌ただしく帰っていく姿を見てすっかり諦めていた。そんな矢先の出来事だった。


「知ってますよ。有孔虫ですよね」
「わ、詳しいですね。おれ、最近知って。好きなんですか、海とか」
「まあ、大学で…そういう勉強してて」


大学で、そういう勉強をしていた。間違ってはいない。大学院でも、していた。そして、博士課程でも。

有孔虫は、単細胞の原生生物だ。特筆すべきは、多様な形態の炭酸カルシウムの殻を持つこと。有孔虫は、海水温の変化に応じて種の組み合わせが変化する。海水温が高くなると、暖かい海を好む種が増える。その逆もまた然りだ。有孔虫の種を同定し、組み合わせを調べることで、海洋の古環境を知ることができる。

私は、大学と大学院で、その研究をしていた。博士課程の途中で、研究者になるのを諦めて、ドロップアウトするまでの、5年間。


「専門分野なんですね、おれ、趣味で写真撮ってて」

海沿いの町で生まれたという彼は、海を撮るのが好きだと言った。

「やっぱり北国だし、ここの海は寒くて時化る海、みたいなイメージがあるじゃないですか。それも好きなんですけど、南国の海に憧れてて」

「いつか写真撮りに行ってみたいんですよね。星の砂も見てみたいですし」


それから、週に1度、講座の後に話すようになった。働き先が近かったこともあって、仲良くなるのはあっという間だった。


季節は夏になる。


波の音が止まない小さな部屋で、星の砂の学名を教えた。

「ねえ、もう一回教えて」

ばきゅろじぷしなすふぁえるらーた。そう繰り返す彼の唇は、楽しそうに弧を描く。つづけて彼は何か言っていたけれど、まどろんでいた私は何も覚えていない。部屋の中にぬるい空気が滞留して、まるで海の中みたいだった。


彼らの好む、あたたかな水が満ちた、タイドプールのような。



講座は盆のあいだ休みで、彼とは10日ほど会っていなかった。写真の練習でもしようかな、と言っていたことは覚えていて、どこか遠出しているのかもしれない、そう思っていた。盆休みも終わりに近づいた日、行方不明になった青年の話を聞いた。高波にさらわれたらしい。それだけなら、まれにある話だった。

カメラや三脚と一緒に、その言葉に息をのんだ。その週の講座に、彼はいなかった。



連日続く真夏日、眠れないほど息苦しい夜。息継ぎをするように呼吸をしても、ぬるい空気が流れ込んでくるだけだった。


彼の背中や腕、指や髪は、海の底に沈んでしまったのだろうか。


頭の中に、電子顕微鏡下の有孔虫が浮かぶ。いくつもの種が重なり合う、いつかの海の底をかきわけて、ひとつひとつに名前を与えていく。ばらばらになってしまった破片も同じように。




見つけた宝物をすぐに失くしてしまったかのような、不思議な喪失感に戸惑ってしまう。彼に抱いていたあたたかな想いが、かたちをなくして泡になってしまったようだった。





季節はめぐった。うだるような暑さの夏はあっという間に過ぎて、長い冬がやって来た。辞めようと思っていた仕事に、毎日だらだらと行き続けるうちに、彼のことを考えることもなくなった。



博物館の市民向け講座は、年度末に終わる。海の話を聞くたびに、諦めた道をもう一度辿っているようでつらくなってしまう。それなのに最後まで通ったことに、自分でもすこし驚いた。


「さて、今年度の講座も今日で終わりですが」

壇上で講師が朗らかに話し出す。恒例の雑談タイムだ。講師を務めるのは数年前に学芸員を引退したおじいさんで、歳の割には話も上手だし、しっかりしていて好感がもてる人だった。

「わたし、この間、星の砂を見に行ってきたんですよ。ここ、ほら、講座でも紹介したでしょう、星の砂の話の時に。あのまん丸の島。この間、妻と二人で……」

スクリーンに映し出された島は、彼がここへ行きたいと言って見せてくれたのと同じ形をしていた。数ヶ月ぶりに思い出した彼の顔に少し戸惑いながら、ああ、ここへ行けば、と思った。



雪が解けて、春になった。5月も半ばに近づいたころ、仕事を辞めた。貯めていたほんの少しのお金で、あの島への航空券を買って、数日後には、あの砂浜に立っていた。



彼と出会ってから1年が経とうとしている。その間に、すでに離れてしまったけれど。サンダルのふちについた砂を、指先ですくう。


「ばきゅろじぷしな、すふぁえるらーた」


はじめて声に出した言葉のように、ゆっくりと声に出してみる。太陽の砂は、カルカリナ・ガウディチャウディ。もっと大きな有孔虫だっている。ゼノフィオフォア。もっともっとたくさん知っている。何度も何度も見た、電子顕微鏡のモニターを思い出す。

後悔だらけだった。就職が上手くいかなかったこと。博士課程に進んだこと。未来の不安ばかりが胸に降り積もって、動けなくなってしまったこと。こうしてひとつひとつ、じっくり観察するのはとても好きだったのに。


波が足下をさらっていく。彼の来たかった海は、浅くて青い。潮が満ちれば、ここも海になるだろう。あたたかくて陽の差し込む海。


好きだったんだね、そこが適してるって思ったから、残ったんでしょ。そう彼は言った。接している腕と頬があつくて身動いだ。そう言った彼に私は返したのだ、タイドプールのような、と。



私と彼は、あの夜のまま、たった一夜の記憶に囚われたまま、この海を漂っている。潮の満ち引きに浮いたり沈んだりしながら、ずっとあのタイドプールを漂っている。寂しくはなかった。大切にすればするほど息が苦しくなっていくのに、見ないふりをしながら、それにしがみついて、今日まで生きてきたのだ。



太陽は西に傾きつつある。波がどんどん近づいてきている。手のひらは砂だらけだった。海の記憶を保つ、小さな生き物たち。有孔虫は、何億年も前から地球にいる、言わば生きた化石だ。途方もない長い間、少しずつ姿を変えながら、今日まで生き延びてきたのだ。



おだやかな風が、海を渡ってやってくる。あともう少し潮が満ちれば、どこか別の海へ泳ぎ出す日が来るだろう。大きな広い海へ泳ぎ出す日が、きっと。砂を波で洗って、彼の着く先を想った。





Pearl Pool / avengers in sci-fi

べつに有孔虫の研究してません。スターフィッシュってヒトデなのに、最初にスターサンドのほうがでてきてしまって抜け出せなくなりました。






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