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大切な人をなくすということ。




2月8日、金曜、午後。


顔脱毛の施術を終え、私は一息つこうとカフェに入った。

入ったそのときは混み合っていたが、店内の奥に、しかも角っこの(トイレへの通路がすぐとなりだったが)2人席がとれた。ラッキーと思った。


30分過ごしたところで、店内にいた客のほとんどが退店していった。
夕方に近くなっていたからだろうか。隣の席に座っていた2人組のおばさま方はどうやら昼頃からいたようだ。彼女たちが会話でそう言っていた。


私はそのおばさま方がいた席のほうがいいなと思い、店員さんが片付け終えたのを見計らって移動した。


しばらくして、ふと前に視線を向けたとき、黒い服に身を包んだ50代に見える女性が、私の席の前方にある、近くの2人席にひとり座っていた。

(葬式帰りだろうか)と思っていたら、テーブルの上に置かれていた彼女のバッグが、形や色からしてそれ用のものだったので、それ帰りであることは確信に変わった。

私ははときおり店内を見回すふりして、その女性を見ていたが、ぼんやりしたり目頭を押さえていたりしていた。


ぼんやりしているときは背もたれに寄りかかり、顔は天井に向いていた。と思えば、背筋を正して、店内を見まわしたり、カバンを手元に寄せたり。

とてもそわそわしているけど、
反面、なくなってしまった人のことで
頭がいっぱいで胸が切なくなって
かなしい想いでいっぱいなんだろうな、と。



彼女はだれをなくしてしまったんだろうか。
家族ならひとりでくるはずがないだろうから、友達だろうか。

どういう関係性の人にしても
なくなってしまったという事実は変わらなくて
大切だったのであるほど悲しく切なくて。
彼女はほんとうにいっぱいいっぱいだったのだろう。


私も、昨年大切な人をなくした。

その人は…祖父だ。


同居していた父方の祖父をなくしたかと思えば、同じ市内に住んでいる母方の祖父も約1か月後になくなってしまった。

私は親戚が多い家に生まれたので、父方の祖母の弟さんの奥さんがなくなったり、小さいときお世話になった、近所にある会社の会長さんがなくなったり、と。祖父に縁(ゆかり)のある方も何人かなくなっていく。


私は考えずにはいられない。


「どうして人はいつか、死に、向き合わなければならないようつくられたのか」




悲しみは人から「やる気」を奪う。

でも、悲しみはいつか癒え、
同じ悲しみを抱く人に対して優しくできる。
そんな悲しみだけでなく、痛みを抱える人にも優しくできる。

しかし、悲しみのあまり、自棄になってしまう人がなかにはいるし、こうはならない人もいるでしょう。


これも人生の試練のひとつなんでしょうか。


この記事はひとまずここまで。

お読み頂き、ありがとうございました。


では。




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