わたしが帰る場所
就職するまで、実家に住んでいた。
10歳の時に母が離婚してから、祖母と三人で住みはじめたのは、木造二階建てのボロい一軒家だった。そのボロ家は、夏はゴキブリとの闘いだし、風呂場にはナメクジが出るし、少し大きめの地震が起きた時にはゆれにゆれて、天井に亀裂まで入っていた。
二階にあった私の部屋は、ふすま一枚で隔てられた空間で、プライベートなど、あってないようなものだった。寝っ転がって漫画を読んでいれば、一階にいる祖母が、ごそごそと動く物音が聞こえた。
小学校の時、家に遊びに来た友達に、「びんぼうくさい家」と言われてから、私は、自分の家を人に知られるのが怖くなった。
田舎特有の価値観なのかもしれないが、自分の家の大きさと、持っている車の台数が、子供たちがお互いのステータスを測り合う材料の一つだった。
私の場合、祖母は原付の免許、母親は車の免許も持っていなかったから、家に車は無かった。
びんぼうくさい家と、原付が一台と、自転車が一台。
それが、子供の頃の、私のステータスだった。
それでも、私はそれまでアパート暮らしだったから、一軒家に住めることが嬉しかった。私が犬を飼いたがっていたので、母親が友人のつてを使って、子犬を貰ってきてくれた。血統書付きではないものの、見た目は限りなく柴犬に近い、器量よしの雌犬だった。みかん、と名前をつけた。
私、母、祖母、そして犬の女所帯で、12年間その家に暮らしてきた。狭い家の中で、いろいろなことがあった。私がいじめられて登校拒否を起こしたり、母親が会社を辞めたり、母親と祖母のつまらない諍いがあったり。三面記事に載るような事態が、いつ起こってもおかしくない雰囲気もあった。みかんの存在が、私たちの関係を上手く取りもってくれていたように思う。
それでも、クリスマスやお正月には、三人しっかりそろって、クリスマスにはケーキを、お正月にはお雑煮を、のほほんと、テレビを観ながら食べるようなところもあった。私たちは、そういう家族だった。
その家を出て10年経った頃、祖母が亡くなった。
一人暮らしの気楽さと母親への複雑な思いから、実家への足は遠のいていた。その時の私は、アメリカで駐在員として働いていたが、会社を辞めて、そのままアメリカに残る手続きに追われていて、日本に帰ることが出来なかった。母親は、ローンの返済の関係なのか、その家に住み続けることが難しい、と判断して家を手放した。
家が取り壊され、更地になった跡地の写真が、母親からメールで送られてきた。
自分では、とっくの昔に、捨てた気分になっていた家だった。でも、その写真を見たとき、私は、「帰る場所が、なくなっちゃった。」と思った。
我ながら、勝手なものだと思う。
それからしばらくして帰国し、私は、数年後に再び海外へ出るなど、自分の人生を探求するのに夢中になっていた。
ある日、昼間に、すこし眠くなってきたので、ベッドの上でうつぶせになりながら、ウトウトとしていた。眠りは浅く、夢のなかと現実を行ったり来たりしていた。そのとき、階下で何か物音がした。
寝ぼけていた私は、「あ、おばあちゃん?」とつぶやいていた。
なんだ、おばあちゃん帰ってきてたのか。みかんの散歩行ってくれるのかな、とぼんやり思っていた。
なんだ、今まで起きたことは、全部、長い夢だったのか、と。
はっと目が覚めた。
目の前には、いつもの自分の部屋があった。今まで起きたことは、夢などではなかった。
あれから、20年以上の時間が経っていた。
私はもう10代の少女ではなく、中年の女だった。
寝ぼけた目をこすり、頭を抱えた。
ずいぶん、遠くまで、きちゃったんだなぁ、と。
もう、引き返すことはできず、このまま旅を続けていくしかないのだ、と。