仏教をdisってみました(イスラム教だとこんなことは出来ないわねʅ(◞‿◟)ʃ)

守備範囲が広すぎるあやのんさんに勧められて、うっかり写仏部に入ってしまったけど、今頃になって、
わたし、おびえてます。
写仏部に、わたしみたいなエロオカマが入るなんて、許されるのかしら😅

それよりさらにやばいなと思ふのは、わたしは、仏教は嫌ひだったのを忘れてたこと。
仏教に対してそんな気持ちだからか、感性が欠けてるからか、仏像を見ても、特段、ありがたいと感じることは無いです。

ただ、山道や路傍で長年の風雨に晒されて、お顔も定かでなくなった石仏には、なんだか、手を合はせてしまふひます。
石を利用して仏を刻んだつもりでも、日本の風雪が、その人為をアニミズムの石から、じわじわと、はぎ落としてゆく。そして、石仏がお顔もわからなくなったとき、通りがかった日本人は、仏教好きとか仏教嫌ひとかには関係なく、なんとなく、手を合はせたくなる。

たぶん、石に象徴される日本列島の自然、仏教といふ人智を風化し解毒する日本の風土がありがたく、また、おそれうやまって、拝んでる、…のではないかとわたしは思ってゐます。

わたしの仏画。
(厳密には、寺の絵)

神社神道以前の原始神道の時代、岩石祭祀が行はれてゐたと思はれます。わたしはそれを信仰してます。

仏像は嫌ひぢゃないけど、好きでもない。
仏像は、仏さまの姿だから、もろもろの葛藤から解き放たれたその顔は、笑ってもゐないし、もちろん泣いたり怒ったりもしてゐない。仏像の表情に、わたしは、どうしても、ニル・アドミラリ(何事にも無感動なこと、または、そのさま)といふ言葉を思ひ出してしまひます。
これは当然と言へば当然で、煩悩由来の人間的な感情の揺れが無いのなら、動きの無い、あの表情になるのでせう。

愁ひを含んだ美少年、阿修羅像は好きだけど、あの阿修羅は、漫画『百億の昼と千億の夜』で萩尾望都氏が、半乳チラ見せの、凛々しい娘として描いたやうに、他の仏像には無い、若い身体のセクシーな魅力を描き出してる、と思ひます。
仏像としては、落第ね。

だって、仏像は仏☆さまの似姿なんでしょ?
厳密に言って、微笑んでしまってる観音さまや怒ってしまってるお不動さんなんかは仏ではないですよね。怒りなど喜怒哀楽から、ほどけ(仏)てない。方便ってやつかしら?だからこそ、彫像としては表現の多様性が盛り込めて、創作対象としての魅力が増すのでせうね。

でも、野暮なことを言へば、
悟ってしまへば、もう多種多様に分裂したり拡大したりしなくなるはず。
ここが、悟りの厄介なところ。
悟ると、静止する。

悟りとは、何にもとらはれなくなること、ほんたうに自由になること、とか言ひたければ言っていいけど、わたしとしては、
悟ったら、現実社会でやれることは何も無い、と思ひます。
煩悩する=現実を生きる
といふことぢゃないかと思ふくらゐ、現実はわけがわからないです、…わたしには。少しは、悟らなきゃだめね。

でも、あんまり過剰に悟ったら、涅槃に入るしかないんぢゃないですか?
涅槃って、言葉の原義は、蝋燭の火をフッと消した直後の状態だ、と聞いたことがあります。
やっぱり仏教って、燃えてた火が消えて、よかった、やっと安心出来る、と思へるやうな、過酷で苛烈な自然環境のインドで生まれた哲学なのでせうね。インドの、あの何もかも腐敗してくる風土なら、なんか、わかるやうな気がします。

山紫水明の日本の、日本人としては、火が消えたら、寂しくないですか?
日本人は煩悩の火をけっこう愛でて楽しんでて、もしかしたら、大事にしてたりするかも。

煩悩の火といっても、ユーラシア大陸のそれと比べたら、温帯の島国の日本に点る煩悩の火は、とっても可愛い、人生を彩ったり、明るく照らしたりまでしてしまふものかも。

とにかく、仏教好きな人は、自分の煩悩は絶対に消えないとわかってるから、煩悩の火をことごとく吹き消す、悟る、解脱すると効能書きを並べる仏教を、安心して持て囃してる感じがします。
ああ、もう退部ね、あたし。

この記事の続編として、仏像についても書きたいと思ってます。
これは、disりではなく、なぜ仏像を作り、描き、写すのか、といふことを考へてみたいと思ってゐます。




仏を辞書で引きました。
語源は、煩悩からの結び目を解くという意味。
または、
仏教伝来の当時、欽明天皇のときに、
ほとほりけ、即ち熱病が流行したため、この名があるともいわれる。
日本では、死者を「ほとけ」と呼ぶ場合もある。



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